#0072 もういちど (2)





 綾がおれの家に戻ってきたのは、雲間にかすかに青空がのぞき気温もまた上がりはじめていた昼の11時頃だった。



「ただいま、でいいのかな……」


 綾は恥じらいながら笑った。

 どこかすっきりとした表情に見えた。



「うん。おかえり」


 おれも笑顔で綾を出迎えた。



 綾は、学校に置きっぱなしだった通学鞄スクールバッグを肩にさげて、その足でまたやってきたのだ。


 改めてみる綾の体育着姿は、見ているだけで心が涼やかになる。

 やっぱり完璧なまでに清楚だった。

 いつも通りの格好に戻っておれはようやく安心できた。


 それに、今はちゃんと下着もつけている。


 昨日洗濯したものは、扇風機の風を夜通し浴びせたおかげで、今朝までになんとか乾いてくれたのだ。

 心底良かったと思った。



「ちょっと早いけど、お昼にしようよ」


 綾が玄関で靴を脱いだタイミングで声をかけた。

 今朝早く、綾は朝食もとらずに出かけていったのだ。



「わたしも手伝いたい」

「うん。大歓迎」

「ありがとう」


 いつも通りの綾の声が小さく弾み、おれたちは並んでキッチンへと向かう。

 廊下にはお花のような残り香がふわりと漂っていた。


 ようやく取り戻しつつあった柔らかな笑顔が、この上なくほっとする。



 綾と台所に立って作ったのは、ゴーヤチャンプルーにオクラのおひたし。

 そして綾は、ナスとトマトとひき肉のパスタまで作ってくれた。


 夏野菜はどれもうちの畑でとれたものだ。


 最後にできあがった3人分をお皿に盛り付ける。



「わたし、テーブルの準備してくるね」

「あ、うん」


 おねがい、と言おうとした時。


 ゴロゴロと引き戸がレールを転がる音が廊下から聞こえてきた。

 思わず綾と顔を見合わせた。



「あぁぁ……おはよ」


 やがて、父さんがあくびをしながらダイニングへ入ってきた。


 色褪せたシャツにステテコというだらしなさの極みの姿。

 昨日の朝から剃ってない顔は髭がのびて、頭には派手な寝ぐせがついていた。


 勘弁してよ! 今日は綾がいるってのに、って、綾は……?



「あのっ」


 なんと綾はダイニングまで出て行って、父さんに恭しく頭を下げていた。



「昨日は突然ご迷惑をおかけして、すみませんでした。泊めていただいて、本当に助かりました」

「あ、ああ。うん」


 父さんは間抜けな声がでていた。



「俺も、帰りが遅いもんでまともに構えずにごめんね。そんなに畏まらず、ゆっくりしていって」

「ありがとうございます」


 昨晩の父さんの帰宅時刻は23時を回っていた。

 綾が寝入ってしまった後だった。


 綾を泊めることになった簡単な経緯は夜寝る前の父さんにおれが説明していた。



 ふつうの平日ならどうにか午前中には研究所で仕事を始めている父さんだけど、仕事場にも趣味の釣りに行くわけでもない休日はご覧の有様だ。


 午後にやってくる綾とはいつも入れ違いになっていて、それが今日はじめて鉢合わせすることになったのだった。



「葵。なんで綾ちゃんに料理なんてさせてるんだ。お客さんなんだぞ」


 じゃあ自分で早起きして作ってくれよ……

 そっちこそ、子供たちに食事の用意をしてもらって情けなくないんだろうか。


 まずい食事しか作れないのに文句を言わないでほしい。



「わたしが葵くんに教えてもらってるんです。お父さんの分、わたしがつくったんです」

「……ほんとうかい? それはまた」


 綾も綾で、父さんを見上げながらけなげに訴えるわけだから父さんは言葉少なに感激してしまっている。

 おれは思わずため息をついた。



「父さんは早く、その恰好なんとかしてきてよ。見苦しいから」

「あ。わたし、お部屋の準備してくるね。荷物とか置きっぱなしだから」


 綾は父さんに朗らかな会釈をして廊下に出て行った。


 父さんのふやけた表情。

 いい年して女子中学生にときめかないでほしい。


 綾を見送った後、父さんは洗面所に行くこともなくおれのことをじろりと見た。



「お前さあ、何やってんの?」

「いや、何って言われても」


 綾のことは昨晩父さんにメッセージで伝えていたし、そのときは何も言ってこなかったのに。



「綾に泊まってもらっただけで、変なことはしてないよ」

「お前、栞ちゃんというものがありながら、よくそんなことを言えるよな」

「な」


 おれは言葉に詰まる。


 まさか、栞とのこと感づかれてる……!?


 あの山形の朝で栞とした会話のことは、もちろん父さんには言ってない。

 けれど、栞と出かけた先で帰れなくなってふたりで一晩過ごしたことは知っている。


 いやでも、まさか同じベッドにいたなんて思ってないはずだ。



 おれはにわかに顔が熱くなっていた。



「おまえと再会して、あんなに嬉しそうだったのに。おまえ、まさか……気づいてないのか?」

「え、ああ……まあ、さすがに」


 父さんの真面目な顔を見るに、顔合わせ以降のことはやっぱり何もバレてないみたいだ。

 助かった。



「綾ちゃんに手を出すなんて、栞ちゃん泣くぞ」

「出してないから!」

「でもお前、同じ1階で寝てたじゃん……」

「いやそれは」


 綾が離してくれなくて……


 ああもう、そんなこと父さんに言えるわけないだろ!



「栞にはもう話済みだから! 綾をお願いって言われたの!」

「え、まじ……?」

「うん。昨日の綾、ほとんど錯乱状態だったし……傘差すのも忘れるくらいふらふらになってまで来られたら、話聞かないわけにいかないよ」

「……」


 初めは単に父さんを言いくるめてしまうはずだった。

 けれど昨日の綾の様子を思い出すと、どうしてもまた気持ちが沈みかけてしまう。


 綾があんな風に号泣するところなんか、見たこと無かったし……もう見たくない。

 なんとかしてあげたい。


 そんな気持ちにまた心が震える。



 父さんは俯いたおれを見て頭を掻いていていた。



「なんかよくわからんが……曖昧な態度は、相手を傷つけるだけだぞ」

「……うん。わかってる」


 父さんの声には言いようがない深みがあった。



「綾やみんなを裏切るようなことだけは絶対、しないよ」


 おれは素直に頷くしかなかった。

 父さんはわざとらしくため息をつく。



「いつの間におれの息子はこんなにモテるようになったんだ……」


 非行を嘆くみたいな言い方はやめてほしい。

 ……モテないよりは良いだろ。



「もうすぐ9月だ。しばらく家を空けるけど、わかってるだろうな」

「あ、そっか」


 なんでも9月は学会シーズンらしくて、父さんは毎年1週間くらいどこかに出張するのが恒例だった。



「羽目外すんじゃないぞ、くれぐれも綾ちゃんにふしだらな真似なんか――」

「分かってるよ!」


 そんなことするわけないだろ!



「で、今回はどこなの」

「ああ、今年は鹿児島で……って、そうだった!」


 父さんは突然思い出したように語気を強める。

 胸に掴みかからんばかりに詰め寄ってきた。



「俺の雪見だいふく! おまえ食べただろう!」


 ……絶対、鹿児島のしろくまかき氷で思い出しただろ。


 おれは一転して父さんを見下げたくなった。

 何事かと思ったけど、そんなつまらないことで騒ぎ立てないでほしい。



「仕事終わりの楽しみにとっておいたのに」

「おれじゃないよ。昨日、夏帆がやってきて勝手に食べたんだ。文句があるなら言いに行けば?」

「…………」


 おれが冷たく(多少歪められた)真実を告げると、父さんはうつろな目でうなだれたのだった。





















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