#0070 雷雨 (7)
『ごめんね、無理言っちゃって』
通話越しに聞こえる栞の声は静かだった。
『綾のことをさっき聞いて、動揺しちゃって……葵の声を聞きたかったんだ』
希望を見つけられない現状に鼓動が頭の中で鳴り響く中で、通話越しの栞の声は冬のともしびのように暖かかった。
声を聞いただけで泣きそうになる。
『ねえ葵』
それは夜空に向かって話すようだった。
小さく息を吸って、何かを確信したような落ち着いた言葉だった。
『綾は、真っ先に葵に助けを求めたんだ。ボクじゃなく』
視界の端でおれの左腕に抱きついて眠っている綾の、柔らかな毛布の中の安らかな表情が、ふいに栞の明るい笑顔に重なる。
綾とふたりきりのこの状況を知って、栞はいまどんな気持ちでいるのだろう。
背筋がゾクリとした。
「……たまたま、だよ。綾がおれに連絡を寄越したのは、その後会うはずのおれに状況を伝えようとして」
『ううん。綾にとって、葵のそばが一番心が安らぐからだよ。今までずっと一緒に過ごして、合唱のアドバイスをしてくれた葵に、慰めてほしかったんだ』
「そう、なのかな……」
『ボクには綾の気持ちが分かるんだ……だって、ボクも葵のことが好きだから』
ボク"も"――
そう栞は言った。
その含意は。
「……うん」
おれは栞の言葉に同意してしまった。
その瞬間、胸の奥が痺れるように熱くなった。
だって――ふたりで長い時間をともにして、深い絆を育んで。
綾からの信頼を感じないわけがない。
何度もふたりきりで会って、隣どうしに眠りにつくことだってしたんだ。
心が通じあい、気を許せる相手になっていた。
だから今日だって、もしおれへの好意が無ければ、綾は決しておれのもとへは来なかった。
おれは、そんな単純なことにようやく気づいたのだった。
……いや、心のどこかではすでに気づいていたはずだ。
栞に指摘されるまで、おれは認めるのが怖かったんだ。情けないことに。
『綾は、とっても可愛くて、素敵な女の子なんだ。ボクでさえそう思うんだ、葵も綾のこと好きになるにきまってる。そうでしょ?』
おそろしい問いだった。
綾との間に漂っているこの感情は、一体どんな言葉で呼ぶのが相応しいのか……それを考えるだけでとてつもない悪寒を感じた。
『恋愛とか家族とか、どうだっていい。葵が綾のこと好きか、そうじゃないのかが聞きたいんだ』
「……好き、だよ。もちろん」
もはや紛れもない事実を、おれはとうとう認めてしまった。
もう、どうしようもなく綾に惹かれている。
おれは綾ががもつあらゆる美しさに触れてしまった。
そしてそれは、禁忌に限りなく近い。
『綾はひたむきで、がんばりやで、とっても優しいんだ。かけがえのない存在なんだ、ボクたちにとって』
栞の言葉には、信じがたいほど高尚な姉妹愛に満ちていた。
だって栞はつい先日、あんな熱烈な告白をおれにしたばかりで……
『葵は綾のどんなところが好き?』
「えっ、と。栞……?」
おれは今、栞と血を分けた綾とふたりきりで、心を通わせている。
それなのにどうして、嫉妬心なんていう卑俗な感情を押し殺すまでもなく、綾への情愛を訊けるんだろう。
『最近葵はずっと綾と一緒にいたじゃないか。それなのに、綾の素敵なところも言えないの?』
おれは顔面がぼうっと熱を帯びてゆくのを感じた。
どうして栞に挑発されているのか、まったくわからない。
……綾のどこが、好きか。
そんなのを言葉にして、ましてや栞に伝えるなんて。
それに、すぐ隣には綾が寝息を立てているのだ。
でも今、栞に抗うことはできなかった。
「おれは――」
おれが惹かれた綾は。
なんでもない瞬間にみせる、天真爛漫な笑顔。
親しい友達も、楽しいと思える趣味も見つからないと零したときの、寂しそうな横顔。
野菜の下ごしらえをする頼りになる手つき。
可憐であどけなくて、この上なく透明な声。
家族を想う優しさに満ちた眼差し。
そして、恥じらいながらおれの腕に触れる熱。
……おれが、過去の思い出を打ち明けようと思ったのは、そんな等身大の綾と絆を結びたいと思ったからだった。
本当の自分を打ちあけて、綾の思いやりにあふれた温かさに包まれたかった。
だから、綾がおれのために涙を流して元気づけようとしてくれた時、おれは嬉しかったんだ。
気づけばおれは、鼓動が止められなくなっている。
「……ごめん。栞の恋心は決して無碍にしたくないんだ。けれど、困ってる綾のことを放っておけなくて」
おれはそんな、素直な気持ちを伝えるしかできない。
なんて自分勝手なんだろうと自分でも思う。
栞の想いを受け取るとか言っておきながら、一方で綾にこんな感情を抱いてしまっているなんて。
ひどく詰られるか、あるいは泣きだされてもおかしくないと思った。
『綾の寝顔が可愛いからって、悪戯しちゃダメだよ?』
けれど栞はふふっと笑って、普段通りの朗らかな声でおれを諫めるだけだ。
『ごめんね、全部分かってるんだ。ボクが行かなかった日も綾とふたりでお昼寝してるんでしょ』
「――――」
『帰ってきた綾から残り香がするんだ。葵、とっても良い匂いだから』
栞に言い当てられた瞬間、おれは心臓が凍りついた。
……まさに浮気が発覚した時ってこんな感覚なんだろうか。
そこまで分かっていて、栞はどうしてこんなに平然としていられるんだ。
『あのね……正直、胸がチクリとする時もあるんだ。綾と葵がどんどん仲良しになっていくんだもん』
ここで栞は、ようやくネガティヴな感情をすこしだけ吐露した。
けれど沈んだような声のトーンはすぐに優しく変わっていた。
『でも、心の別の場所は嬉しいんだ。最近の綾すごく変わったよ。ニコニコして、葵のことばかり話して、よっぽど葵と歌うのが気に入ったみたいで、見ているボクまで幸せな気持ちになるんだ』
栞は夢を見るように語った。
いつのまにか夜が明けて、澄み切った朝の青空のような声だった。
おれは綾の何かを、変えられたのだろうか。
「天使」と呼ばれる高潔で、孤独な綾を――
『綾はボクにとって、葵と同じくらい大切な存在なんだ。だからさっき、綾が葵と一緒にいるって聞いてボクは……寂しくて、ほっとして、納得したんだ。わけわかんないよね』
「……栞は迷ったり、とか、悩んだりは、ないの? おれに怒ったりとか」
『怒る気持ちはないよ。モヤモヤした気持ちは、あるに決まってる。でも……葵は、ボクたちがはじめて葵の家に行って、3人で眠ったときのこと覚えてる?」
「覚えてるよ、もちろん」
『あの時のボクは、全然嫌な気持ちは無かったんだ。ほんとだよ? 葵のそばは甘くって、とってもドキドキして、なんだか子供のころに戻ったみたいなんだ』
「……そうだね」
おれだってあの時は、両腕に綾と栞を抱えてドギマギして、あの心地よさは手放せなかった。
はじめて家を案内して、ずっと独りで練習するだけだったピアノをみんなに披露して。
そしてたくさんの甘美な気持ちを、綾と栞から受け取った。
おれは孤独が癒されたのだ。
あの気持ちが、家族になるということだろうか。
『ねえ葵。葵は、綾のことが好きだけど……ボクのことも変わらずに、好き、なんでしょ?』
「……」
『違うの?』
「……違わない。ふたりとも好きだよ」
『ふふっ。やっとボクへの"好き"が聞けた。嬉しい。いつか恋愛の好きになってよね』
栞が悪戯っぽく先回りしてしまうせいで、おれは言いかけた弁明を飲みこんだ。
残ったのは奥底にあった本心だった。
曖昧だった感情の、その輪郭がだんだんと濃くなっている。
……でも、誰かのことが好きだから他の人は好きになれないなんて、そんなのはきっと家族じゃない。
『それが聞けたからボクは大丈夫。ボクも同じ気持ちだよ。ボクは葵の優しさも綾の優しさも両方知ってるし、ふたりとも大好き。それは何があっても変わらないから』
栞はおれと綾と自分自身――3人の絆を何の疑いも無く信じてくれている。
おれはひとつひとつの言葉を噛みしめる。
今ここに居ない栞に抱きしめられているような心地だった。
栞はおれと綾を勇気づけて、背中を押してくれている。
『だから、今は綾のことを優先してほしい。ボクたちの自慢の家族が傷ついているんだ。葵は綾にとって一番頼りになる男の子なんだから、綾のことを助けてほしい』
「ごめん。ありがとう……栞はやさしいね」
『ボクはこれでも綾と双子なんだよ。やさしいに決まってるじゃないか』
「……綾のことが解決したら、必ず埋め合わせするから」
『ほんと? ふふっ、それは楽しみだ……だから、ね。葵』
おれは栞の言葉を安心して待つことができた。
栞はおれを心を打ちのめして、すくいとって、抱きしめてくれたから。
『ゆっくり綾のそばにいて、たくさん甘やかして、慰めてあげてよ。4年前のボクにしてくれたみたいに。いまの綾にもあれが必要なんだ』
「うん。分かったよ……ねえ、栞」
『なに?』
「栞もうちに来てよ。おれ、栞に会いたい」
『葵……――嬉しいよ。でも、この嵐の中それはちょっと酷じゃないかな? 電車だって止まってるのに』
「あ、そっか……ごめん」
『ありがと。ボクにもできることがあればなんでも協力するよ』
栞はかわいらしく感謝の言葉をくれた。
おれのほうこそ、泣いちゃいそうなくらい栞に感謝しているっていうのに。
――綾と栞。
おれはもうひとりじゃない。
ふたりはおれのことを頼って、信じてくれている。
この大変な出来事を、おれたちは慰めあって、励ましあって、乗り越える。
その先の関係に進みたい。
おれたちは"家族"になるんだ。
『でも、ボクがいちばん葵のこと好きだってことは譲れないよ。そのことも絶対、忘れないでね』
長い通話を切ると、戸外から聞こえる雨音がふたたび耳を覆った。
どうやら嵐も峠を超え、雨足は弱まっているようだった。
おれの気持ちは栞がくれた勇気のおかげで、雨上がりのように晴れやかだった。
それからおれはディスプレイを落としたスマホを傍らに置き、すぐそばで寝顔をのぞかせる綾をもう一度愛撫するのだった。
「んぅ。んん……っ」
どれほどの時間が経っただろう。
栞との通話でも目を覚ますことの無かった綾が、心地よさそうに喉を鳴らした。
ああ――。
なんて、愛おしいんだ。
そっと背後に手を回すと、綾はぼんやりと目を覚ましてしまった。
「あれ……?」
「おはよ、綾」
おれの胸で、一輪の花が開くようだった。
自然と綾に微笑みかけていた。
「ぐっすり眠ってたね」
意識が持っていかれそうなほど綺麗な瞳だ。
ふとした間違いで唇が触れてしまいそうな至近距離で、おれと綾の視線が混じりあっていた。
胸元でふたつの鼓動が一緒に鳴りあって、抑えきれなくなっていくのが伝わっている。
「あの……あのね、葵くん」
心地よさそうに頭を撫でられて、頬を赤く染めた綾が上目遣いで見つめた。
「わたし、……やっぱり、やってみたい」
それはかすかな、けれどはっきりとした綾の意思だった。
「ほんとにわたしにできるか、わからないけど……でも、やってみないと分からないって思うの。それに、左沢さんと、嵯峨くんと……みんなのために何もできないのは、嫌、だから」
おれはほっと安堵して、嬉しかった。
優しい綾はきっとその答えにたどり着くだろうとどこかで予感していた。
だから驚かなかった。
「だから、あの……」
「綾」
おれは言い淀む綾の言葉を待たずに、自分の胸元に綾をうずめさせた。
我慢できない。
「えっ、あ、葵くん……」
綾の決心を受け取ったしるしだった。
「もしよければだけど、おれと伴奏を練習しようよ。綾の歌をみんなに披露できないのは残念だけど……全部おわったら、また聴かせてほしい。おれ、綾の歌声がすごく好きなんだ」
「……うん」
布団の中で、綾はこくりと頷いたのだった。
「ありがとう」
―――――――――――――――――――――――――――――――――――――
お読みいただきありがとうございます。
長く投稿してきた『雷雨』もこれで終わりです。
いよいよこの第1章の終わりも見えてきました。
残り10話程での完結を見込んでいます。
実は、6月から7月末にかけて本業の都合で日本国外で過ごす予定となっております。
(6/5現在はまだ日本にいます)
多忙なうえ集中できる執筆環境の確保もおそらく難しいため、今後しばらくの間投稿ペースが落ちてしまうと思います。
またほとんど地球の裏側ということもあり、投稿時間も今までとは異なってしまうかもしれません。
読者の皆様にはお待たせして、またご不便をおかけしてしまいます。
どうかご容赦ください。
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