#0066 雷雨 (3)





 繋がった電話口からは雨音だけが聞こえてきた。



「……綾?」


 ただならない予感を感じさせられた。

 遠くで鳴る救急車のサイレンも聞こえてくる。



「大丈夫? 聞こえてる? ……もううちに来られないって、どういうこと?」


 おれはおそるおそる尋ねた。



『ごめん、ね。驚かせちゃったよね。……わたし、もう歌えなくなった、から』


 やがて聞こえてきた綾の声は掠れていて、泣いているのかと思うくらいか細かった。


 おれは驚愕する。

 突然、歌えなくなったなんて、一体どういうことだ。




「……どうして、また」

『伴奏を、しないといけなくなったの。左沢さんが、怪我しちゃって……だからもう、ソロは歌えなくて』

「……」

『……歌のこと、たくさん教えてくれたのに、無駄になっちゃった』


 ごめんね……と、綾はもう一度謝罪した。

 綾の堪えきれないほどの不安と孤独が、無機質な通話越しの声から痛いほど伝わってきた。


 生々しい動悸をにわかに感じて、背筋が凍りついた。

 立っている両足が震えていた。


 ほんの少しの言葉を交わしただけなのに、おれは冷静でいられなくなりそうだった。


 動揺を悟られないよう、とにかく穏やかな声でいることを考えていた。



「伴奏って……綾、やったことあるの?」

『ううん。でも……ピアノを習ってた子、ほかにわたししかいないみたい、だから』

「習ってたの? 里香さんに?」

『うん……でも、小学校4年生で辞めっちゃったから、今どのくらい弾けるかは……』


 なるほど――

 たぶん、初めは綾と栞のふたりで里香さんから手ほどきを受けていたのだ。


 それで今は綾は辞めちゃっているけど、綾もある程度まで弾けていたことを周りの誰かが知っていたのだろうか。



「それで、本番はいつ?」

『……えっと、9月の――』


 あと1カ月もないじゃないか!

 おれは愕然とした。



『だから、お母さんか栞に教えてもらわないといけないの……ごめん、なさい。だから葵くんのおうちには、もう……』


 幸せそうに歌を歌うあの綾は、もうどこにも見出せなかった。


 今、綾はこの頼りない通話の回線の向こう側でひとり、弱音も言いだせず、雨の中ただ立ち尽くしているんだ。


 おれはどうしようもない焦燥感におそわれていた。



『……わたし、かえらないといけない、から。じゃあね』

「まってよ!」


 ここで通話を切られてしまったら、もう繋がらない。

 今まで紡いできた綾との絆が、跡形もなく消え去ってしまう。


 そんな直観で咄嗟に綾を引き留めていた。


 どうしよう、どうすればいい……?

 おれは綾のために何をすれば。



『葵くん……?』

「あの、あ、綾のためにお菓子を用意してるんだよ。今日」


 完全な出まかせだった。

 けれど、そんな突拍子もない話に綾は呆気に取られていた。


 ……口実なんてなんでもいい。

 おれは綾を何とか留めようと、それに縋るしかなかった。



「ばあちゃんが好きだったお饅頭と、どら焼き。甘くておいしいよ」

『……』

「ふたりぶん買っちゃったから、綾が来てくれないと……」


 綾は無言だった。

 聞いているか、聞こえているか、判別がつかない。



 無意識に口を動かしているうち、おれはだんだん頭が冷えてきていた。


 ……おれが言いたいこと、綾に伝えなきゃいけないことは、こんなはずじゃない。


 おれは決意して、小さく息を吸った。



「……綾、大丈夫?」


 通話の向こうで綾が息を呑んだような気がした。

 だからおれは自分の本心を伝えることができた。



「約束の歌の練習、しなくていいからさ。おれ、最近綾に会えるのが楽しみになってたんだ。だから……おれのところにきて、お茶でも飲みながら、落ち着いてこれからのこと一緒に考えてみない?」

『…………』

「おれも何か力になれるか、わからないけど……たぶん、いきなりそんなことになって、綾も動揺してると思うから」


 綾、どんな表情をしているのだろうか。

 おれの励ましも無意味なほど、綾の心はすでに光を失っているのか。


 まるで、真っ暗闇の中で手がかりもなく、虚空に手を伸ばすような不安。

 届いてくれ――と、ただひたすら祈った。



『……うん』


 やがて綾は答えてくれた。


 おれははっとして、いつの間にか瞼を固く閉じていたことにそのとき気づいた。



『今から行っても、いい、かな……』


 想いは通じた。

 おれは嬉しさで心が震えた。


 綾は、暗闇から手を伸ばして俺の手を握り返してくれたんだ。

 誰かを求める綾の感触を、おれは通話越しの声に確かに感じた。


 綾の気持ちは擦り切れて、疲れ果てているけれど、でも確かに綾とおれの両手は繋がった。


 ぜったい離すもんか。



「もちろん。待ってるから。必ず来てね」


 おれはそう念押しして通話を切った。




 おれは今、家にいる。


 おれは息をつくと、無意識に居間の壁にかけられた時計に視線を向けていた。

 いつもならもうすぐ、綾の乗った電車がホームに到着する時間だった。



 今日はたまたま――藤田3姉妹の夏休みの宿題がまったく終わっていないというしょうもない理由で、おれの中学の合唱練習はお休みになっていた。


 だから、綾を駅で出迎えるためにそろそろ家を出ようかと思っていたタイミングだった。



 綾のいる場所、どこかの屋外だった。


 校門を出たところ?

 それともまさか、学校じゃないのかな……?


 もしそうだとしたら、綾がうちに着く時刻は。


 ……なんであんな、疲れ切った様子だったのだろう。



 いろんな疑問が頭に浮かぶ。

 もっと綾に具体的なことを尋ねておくべきだった。


 いや、そんなことを考えている場合じゃない。


 おれは開きっぱなしのチャットアプリで友達一覧から幼馴染を探し出す。

 無遠慮に通話ボタンをタップした。


 綾のために、できることはなんでもやらないと。

 考えるのは後だ。


 通話はすぐ繋がった。



『なに』

「夏帆、いま家?」

『そうだけど。だからなに』


 不機嫌そうな声だった。

 けれど構うもんか。



「えっと。今から夏帆の家の和菓子を、うちまで届けてほしいんだけど」

『……ちょっと、そんなことできるわけないじゃない。何言ってるのよ』

「もちろん、お金は払うから」

『そういう問題じゃないわよ! うちは出前なんてやってないって言ってるの!』


 怒ってしまった。

 夏帆の家、うちから歩いてそんなかからない距離なんだけどな。



『あなた、今外がどんな状況なのかわかって言ってるの? 土砂降りよ!』


 言われて窓の外を見た。


 たしかに、朝から降っていた雨はお昼を過ぎたあたりから急に強まっていた。

 屋根に打ちつける雨音が家の中に響いて、遠くで雷の音も聞こえ始めている。



『せっかくお風呂入ったところなのに……』


 この幼馴染は無類のお風呂好きだった。

 もしや朝風呂か? もう昼だぞ、このものぐさめ。



 ……って、この雨の中を歩いてる綾も、ひょっとしてお風呂に入れるべき?


 閃いた途端に冷や汗がじとりとした。

 うわぁ、風呂掃除もしないと。

 時間無いのに……



「悪いけど急ぎなんだ。頼むよ」

『絶っ対に嫌よ!』

「今度の学校帰りにアイス奢ってあげるからさ」

『……』


 しめた。



「夏帆が食べたいやつ、何でもいいよ」


 沈黙した幼馴染に、優しい誘惑の言葉を重ねてみた。

 通話口の向こうで苦虫をかみつぶしたような夏帆の表情が想像できた。



『……ハーゲンダッツ』


 ぐ、高いやつだ。



『普通のストロベリー味と、限定のグレープフルーツ味。特別にこれでいいわ』


 ふたつもかよ!

 しかし持ちかけたのはおれのほうなので甘受するしかない。



「分かった、ありがとう。じゃあ、特製饅頭とどら焼きを10個くらいずつ、それから適当に美味しそうなのもいくつか包んでよ」

『そんなに買うわけ? どっちも日持ち2日よ? 包装だって時間かかるのに』


 おれは壁にかかってる時計を再度見た。

 綾は次の電車に乗ってくるのだろうか? 往復の時間を計算する。



「1時間後……いや、1時間半後にうちに来てほしいんだ」

『急いでるんじゃなかったの』

「今から出かけなきゃいけないんだ。もし家におれが居なかったら、悪いけどお金はあとで学校で」

『嘘でしょ? わたしが建て替えろってこと? いくらあなたの頼みでもそれは無茶よ、お小遣い少ないんだから』

「……わかった。じゃあ家出るとき、郵便受けにお金入れた封筒入れておくから」

『ちょっと! 不用心じゃない!』

「ごめん、急いでるから。じゃあね」


 無視して通話を切った。


 ふうと息をつく。

 なんだか無駄に長く話してしまった気がする。


 どっと疲労感を感じていた。


 けれど休んでなんかいられなかった。

 おれはすぐさま風呂場に駆けこんで、脱衣場と浴槽を無心で磨いた。


 ……なんでうちは風呂場も無駄に広いんだ、くそ! 大変じゃないか!

 浴槽の白い壁にひたすら悪態をついていた。


 振り撒いた塩素漂白剤をシャワーで洗い流すと、遠くでひときわ大きな雷鳴が聞こえた。

 雨音もいよいよ激しくなりだしているようだった。


 やばい、はやく家を出ないと。



 今何時だ……? 結構経ってしまった。

 雨合羽レインコートどこに仕舞ってたっけ。



 ――いやそんなの探してる暇なんて無い!



 おれは操作盤でお湯張りの設定だけすると、自転車のカギと1本の傘を乱暴に握りしめ玄関の戸を引いた。


 目の前には、降りそそぐ大量の水が地面を叩きつけ、想像をはるかに超える大音量がすべてを飲み込む、異常な世界が広がっていた。



 おれは一瞬怯みつつ、奥歯を噛みしめてそこへ飛び込んだのだ。
















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