#0065 雷雨 (2)【綾視点】
駆けつけてくれた保健室の石野先生は、左沢さんを診た後すぐに救急車を呼んでくれた。
左沢さんはストレッチャーに乗せられて搬送されていった。
委員長で現場に居合わせたわたしは、石野先生と一緒に左沢さんに付き添うように言われた。
今日の練習のことは指揮の嵯峨くんに託すしかなかった。
はじめて乗った救急車の中は、救命用の機材が所狭しと整頓されていて、想像よりもずっと狭かった。
救急車は大きなサイレンの音を鳴らしながら、いくつもの赤信号を通り過ぎた。
わたしはどんどん恐ろしくなっていった。
「いまは何も考えないでいいの。安静に、目を閉じていなさい」
左沢さんは時折、わたしに何かを訴えようとする。
そのたびに石野先生に諫められていた。
左沢さんは頭を打っている。
不用意に動いては危険かもしれなかった。
左沢さんは言われた通り開きかけた口を閉じて、眠るように瞼も閉ざした。
わたしは不安な気持ちでずっと見つめていた。
石野先生がいなかったら、わたしはパニックになっていたかもしれなかった。
救急車がたどり着いたのは、わたしたちの学校からかなり離れたところにある日赤病院だった。
そこはたしか、葵くんのおばあちゃんが亡くなってしまったところで……
不吉な胸騒ぎを感じずにはいられなかった。
だから、一通りの処置と検査を終えて病室のベッドで目を覚ました左沢さんを見た時、わたしは涙が出てきそうだった。
「ごめん、粕谷さん……」
病室のベッドの上の左沢さんは、顔を上げられなかった。
左沢さんの頭には真っ白な包帯が巻かれていた。
左腕にはものものしいギプスが装着されて、その上から包帯がぐるぐる巻きなっている。
左沢さんの診察結果は――突き飛ばされて転倒した時に、左手首を骨折、捻挫。
それに、頭を机の縁にかすめたことによる脳震盪だった。
検査の結果、頭の中の異常は無かったみたいだけど、今でも意識がすこしぼうっとしているみたいだった。
検査と経過観察のために用意された病室には左沢さんひとりがいるだけだった。
石野先生は、担任の足立先生に連絡するためにそばを離れていた。
「昨日、粕谷さんが私のこと止めてくれたのに、私また……」
左沢さんは声が震わせながら、片手で顔を覆ってしまった。
「私、馬鹿だよ……せっかく粕谷さんが、みんなを纏めてる、のに。男子のこと、みんな敵にしちゃった……」
「そんな……だれも敵なんて、思ってないよ」
嗚咽まじりに感情を吐露しつづける左沢さん。
わたしの言葉には、なんの力もなかった。
そばにおかれた椅子にも腰をおろす気持ちにはなれなかった。
ただ、ベッドにいる左沢さんとおなじ目線でいてあげることしかできない。
「左沢さんが怒ってくれたのは、わたしのためだったんだよね。わたしは分かってる、から」
左沢さんは顔を上げられずに、わたしの言葉にただ首を横に振っていた。
「それに……私、伴奏なのに!」
わっと泣き叫ぶ声が病室に響いた。
「手を骨折、なんて……! 絶対、だめなのに! 私っ……これじゃ、みんなの合唱が……」
左沢さんの左手は、完治まで2カ月はかかるという話だった。
合唱コンクールの本番は1カ月後。
絶対間に合わない。
左沢さんは、もう本番でピアノを弾けなくなってしまった。
その重大な事実に、左沢さんの心は耐えられないんだ。
「私、みんなになんて謝れば……」
涙が流れ落ちて止まらない左沢さんの姿に、わたしの心も傷んだ。
わたしは左沢さんの震える肩に、そっと手を乗せていた。
「……栞に代わってくれないか、お願いしてみる。左沢さんはしっかり休んで、身体を治さなきゃ」
わたしのクラスで一番ピアノが弾けるのが合唱部の左沢さんだった。
他に弾ける子はいるかどうか……
いたとしても、1カ月で伴奏はきっと間に合わない。
栞なら学校中でも断トツでピアノが弾けるから、きっと問題なくできると思う。
ただ栞は2組で、わたしたち1組とはクラスが違う。
他のクラスの子が伴奏をしてもいいのかは分からないけど……ううん。
「わたし、先生にお願いしてみるよ。きっと大丈夫だから。安心しててよ」
わたしは左沢さんのために何でもしてあげないといけないんだ。
そう心で固く感じた。
その時、病室の引き扉が強い力で開いた。
「美月!」
わたしたちが振り向くと、そこにいたのは息を切らした嵯峨くんの姿だった。
包帯だらけの左沢さんに目を見開いてすぐに駆け寄ってくる。
「委員長、美月は……!」
「お、落ち着いて。左沢さんは――」
いまにも肩に掴みかかってきそうな嵯峨くんの勢いに圧倒されながら、わたしは左沢さんの診察内容を伝えた。
骨折、と聞いた瞬間嵯峨くんは青ざめて、
「本当に、すまなかった!」
手に持った通学鞄をその場に放り出して、床に頭をつけてしまった。
わたしは驚いて息が止まりそうになった。
左沢さんも瞼を腫らしたまま固まっていて。
「俺のせいだ……俺があの場にいながら、美月と委員長を傷つけてしまった。俺は謝りたい」
――そんな、わたしは。
咄嗟に喉から出かかった言葉をわたしは飲みこんだ。
今、いちばん傷ついているのは左沢さんだ。
それに、ふたりは幼馴染みだから……
きっと嵯峨くんにとって左沢さんは、ずっと大切な存在のはずだから。
わたしは左沢さんのほうをちらと見て、その気持ちを伺っていた。
「……もう、いいよ」
「いや、美月。おれは」
「こんなところで這いつくばられても迷惑、だよ。扉くらい閉めて。周りの目のことも少しは考えてよ……!」
「あ、ああ……すまん」
嵯峨くんは仕方なく立ち上がった。
左沢さんは目を伏せたまま、嵯峨くんを見ようともしなかった。
「……別に、謝らなくていい。ああいう場で出た台詞が、みんなの本当の気持ちだって分かってるから」
「っ! ま、待ってくれ。俺は」
「もうほっといてよ!」
「俺は美月のことが好きなんだ!」
その言葉に左沢さんははっとして見上げていた。
信じられないような表情だった。
「何、言ってるの……」
「俺はこれを言いに来たんだ」
呆然と呟くように訊き返す左沢さん。
嵯峨くんは左沢さんの両目をまっすぐ見据えたまま、一心に気持ちを伝えようとしていた。
「ずっと好きだった。美月」
嵯峨くんはただ前を――左沢さんのことだけを見つめた。
ここにわたしもいることも嵯峨君は気にしなかった。
わたしはふたりのやりとりを、息をのんで見ていることしかできない。
「なんで……っ、なんで今言うの」
「今言わないと、お前は信じてくれない」
「だからって、こんな時に……!」
臆面もなく言い切る嵯峨くんに、左沢さんは奥歯を噛んで、泣き叫んだ。。
「……最低。最低だよっ! 千尋なんて嫌い! 出ていって!」
きっと、左沢さんもどういう言葉を返せばいいか分からないんだ。
ただ、さっきまで胸に抱えていた感情が、左沢さんのなかで行き場をなくして……
拒絶の言葉に変えて、嵯峨くんにぶつけるしかできなくなっていた。
「……そう言われるのも分かってた。ただ俺は」
「うるさい! もう顔も見たくない!」
何かを伝えかけた嵯峨くんは、左沢さんが投げつけた枕に阻まれて口を閉ざしてしまった。
それきり嵯峨くんは悲しそうな表情になって、「……すまなかった」とだけ言って病室から出ていってしまった。
静かに引き扉を開けるとき、ずっと傍にいたわたしにむかって申し訳なさそうな表情を浮かべていた。
胸が締め付けられそうになった。
もういちど、わたしと左沢さんだけが室内に残されて。
「どうしよう、粕谷さん……。もう千尋と話、できないのかな……」
左沢さんは後悔に胸を突きさされて、ズタズタにされていた。
わたしは気づいてしまった。
左沢さんは嵯峨くんのことが……
どうして、こんな時に。
いろんなことが、わたしの目の前で取り返しがつかなくなってゆく。
――わたしのせい。
こんなふうに左沢さんと嵯峨くんが……クラスのみんながバラバラになってしまったのは、わたしがみんなの気持ちを把握できていなかったせいだった。
3年間クラスの委員長をして、こんなことは初めてだった。
惨めな気持ちになって、膝の力が抜けていきそうだった。
病室の扉がまた突然、開く音が聞こえた。
「……粕谷もいたか」
振り向く力もなかったわたしの背後から聞こえてきたのは、担任の、足立先生の声だった。
石野先生からの一報を受けて駆けつけてくれた足立先生は、左沢さんの家族にも今回のことを連絡してくれたみたいだった。
それで左沢さんのお母さんが病院に到着するまでの間、委員長のわたしに話があると言った。
病室を出てすこし歩いたところにある小さなロビーで、先生と向かいあうことになった。
「……こんなこと言いたくないが」
足立先生の口調は不気味なくらい淡々としていた。
「夏休みにわざわざ集まろうと言い出したのは、委員長のお前だった。俺はお前の普段からの委員長としての態度と、合唱への熱心な様子を見て、お前ならうまく纏められるだろうと許可した」
「……はい」
「今回こういう事故が起こった以上、それはお前の意図によるにしろ、そうでないにしろ、管理する立場のお前には責任がある」
「――――」
先生に指摘された瞬間、凍えるような心地だった。
「わかるな?」
「……はい」
先生の言葉に目線をあげると、厳しい視線がわたしに向かっていた。
わたしは震える声で答えるしかできなかった。
……責任。
たしかに、わたしの責任なのかもしれない。
でもわたしはどうすれば……
「しかも左沢は伴奏だ。これは、大変なことになった」
――そうだ。左沢さんの代わりの伴奏のこと。
わたしは口を開きかけた。
けれど……
「粕谷。妹のほうだけじゃなくて、お前もピアノを習ってたそうじゃないか」
息が止まった。
その先に続く言葉に悪寒を感じて、身体が動かなくなる。
「お前が引き受けてくれないか」
全身の血の気が引いた。
たしかに、小学4年生くらいまでは、お母さんからピアノを教わっていた。
けれど今はもう辞めてしまって、最近は触ってすらいない。
本番まであと1カ月しかないのに、わたしがやるなんて、そんなの……
「左沢だってピアノが本職じゃない。あいつは合唱部なのに引き受けてくれたんだ。どこのクラスも、みんなそうやってるんだ」
「で、でもっ。栞のほうが……」
「お前は今まで、みんなの夏休みを使わせて努力を強いてきたんだ。そのお前が引き受けないで2組の奴に伴奏させたんじゃ、誰も納得しない。最優秀賞だってとれないだろう。それに……内申点、挽回するチャンスだと思わないのか」
「…………っ!」
わたしは身体が震えた。
みんなのこと、受験のこと……
先生の言う責任という言葉が、頭の中で何度もぐるぐる回った。
吐き気がした。
「どうだ、やってくれるか。それとも、やらないか」
先生のロボットみたいな声に、選択を迫られた。
わたしは逃げ出したかった。
呼吸もままならないくらい、焦って、ここがどこかも分からなくて。
立っているだけでよろめきそうなくらい、目が回って、疲れ切っていて……
わたしはもう、何も考えられなくなっていた。
「…………わかり、ました」
わたしはただ、解放されたかった。
けれど目の前は真っ暗になるばかりだった。
先生とその後どんな話をしたか、記憶がない。
それどころか、わたしがいつどうやって病院の入口まできたのかも覚えていないかった。
気づいた時、わたしは回転扉の前にかかった屋根の下で立ち尽くしていた。
アスファルトに叩きつける無数の雨音がノイズのように耳に響いた。
外来の患者さんたちが次々とわたしの横を通り抜けていって、いくつもの視線を感じた。
身体がひどく重たい。
細かい雨粒が混じった風が吹き付けて、身体中が冷えた。
けれど頭の中は熱くも冷たくも無くて、涙さえ出てこなかった。
目の前の景色も、わたしの意識も、これからのことも……ぜんぶが色彩が失われたようだった。
その時、ポケットの中が震えているのに気づいた。
スマートフォンのアラームだった。
葵くんの町に向かう時刻。
もう何度目かのスヌーズだった。
――ああ。そうだった。
葵くん、わたしのこと待っているよね……
わたしはもう、葵くんの家に行けない。
いますぐにでも帰って、ピアノのことを栞かお母さんにに教えてもらわないといけなかった。
もう葵くんと歌えないんだ……
わたしは虚しい気持ちがどっとこみ上げてきた。
必死に感情を押し殺して、スマホにメッセージを打った。
綾『ごめんなさい。もう葵くんのおうちにいけなくなっちゃったの』
どうにか送信できたのはこれだけ。
今までお世話になった葵くんに、こんなの失礼だよ。
でも、どこからどう説明すればいいか、何も考えが浮かばなくて……
すると、葵くんから通話の着信が鳴った。
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