#0067 雷雨 (4)
道路沿いの車庫の薄暗い片隅にあった自転車のフレームに傘をひっかけると、意を決して滝のような雨の中に飛び出す。
ペダルを力任せに踏み込んだ。
半袖のシャツからむき出しの両腕に容赦なく雨粒が叩きつけ、ズボンもあっという間に真っ黒に濡れ染まった。
けれど傘なんて差して歩いてる時間は無い。おれは急いでいる。
古びたバス停のそばでおれはいったん地面に足をつけて立ち止まった。
ここはいつも綾と一緒にバスを降りている場所だ。
循環バスの時刻表と腕時計とを見比べる。
さっき行ったばかりだ。
そしてここまで綾とはすれ違ってない。
つまり綾はいま電車の中か、駅前のロータリーで次のバスをひとりで待っているか、あるいはまだ電車にも乗れていないか……
いずれにせよおれが行って出迎えないと。
そのためには一刻も早く駅へ向かうことだ。
おれは決意をあらたに全力でペダルを踏みしめた。
小刻みなアップダウンを猛スピードで駆け抜けて、おれは自然と息が上がった。
駅までは4、5キロの道のりだ。
いつもなら自転車で20分くらいかかるけど……15分、いや10分で行かないと!
腰を浮かせたサドルにも容赦なく雨が降り注ぐ。
もう休んでなんかいられない。
何も考えずにこぎ続けるしかないんだ……!
青白い稲妻が雲間に走るのが見え、猛獣の唸り声みたいな雷鳴がとどろく。
雨足がまた一気に強まった。
濡れたズボンの生地が膝や太ももに張り付いて、足を跳ね上げるたびに擦れてざらついた不快な感触を残す。
濡れた髪もおでこにへばりついて、かぶった雨と汗が混じって顔じゅうを伝っている。
何度も目元をぬぐってはハンドルを握りなおす手はそのたびに滑った。
それでもまだ
遠い!
なんでこんなに駅まで遠いんだ!
おれは心の中で桜家の先祖を呪い叫んでいた。
肝煎かなにか知らないけど、なんでこんな不便な土地に住んだんだ!
八つ当たりのようにペダルを足蹴にすると、もう3年は乗っている自転車のフレームは軋み出す。
たとえ今日壊れたって構わない。
それで1分でも早く着けるのなら安いものだ。
ありったけの酸素を求めて開きっぱなしになっていた口に無数の雨粒が飛び込んだ。
天空には耳をつんざくような雷鳴が何度も鳴った。
おれはそれが意識に入らないほど夢中で漕ぎ続けた。
川岸の林に立つ除雪車の巨大な車庫の脇を通り過ぎると、川を渡すトラス橋が見えてきた。
既に竣工から60年以上が経ち、ペンキのはげかかった錆だらけの鉄骨は不気味な存在感を放っていた。
幅員は車がようやくすれ違えるくらいしかなく、歩道もない。
古い道路はところどころ穴がえぐれて、そのうえ雨で良く滑りそうだ。
そして橋桁のすぐ下では増水した川の茶色い激流がしぶきを上げ渦巻いていた。
その巨大で物々しい光景を見て、さすがにじわりとした恐怖が背中を駆け抜けた。
けれど駅はこの向こう側だ。
迷う余地なんてない。
おれは谷間の急カーブでスリップしかけながらも、下り坂を一気に駆け下って橋へ突入した。
橋の上では今まで林の木々にさえぎられていた風が容赦なくおれを自転車ごと揺さぶった。
それに耐えながら前だけをじっとを見据えていると、雨でかすんだ欄干のすぐそばにぽつんとした人影が浮かび上がっていた。
……人?
この嵐の中で道を歩く人はもちろん、いままで車とさえすれ違っていなかったから、はっと注意が向いた。
その小さなシルエットは遠目からでは男か女かすら分からない。
最初は見間違いかと思ったほどだ。
けれど違った。影はどんどん濃くなっていた。
おれが自転車を橋の真ん中あたりまで走り進めると、女の子だと分かった。
まさか……
おれは両足が震え始めた。
息をのみ、死力でペダルを漕いだ。
彼女はたったひとり傘も差さずに、小さな歩幅でこちらへと歩を進めていた。
俯いて、弱々しい足取りは古いアスファルトにできた水たまりによろめいた。
肩や胸元の衣服にべっとりと張り付いた墨汁みたいな黒髪が揺れていて、……その悲壮なまでの美しさに、おれの憂慮はたちまち確信と戦慄に変わって――
「――綾っ!」
おれは無意識に乗っていた自転車を投げ出して、彼女のもとへと駆け寄っていた。
後ろでガシャンと自転車が路面に倒れる音が聞こえる。
持ってきた傘も一緒に。
けれど立ち止まれなかった。
いてもたってもいられなかった。
おれの声に気づいてようやく顔を上げた綾。
一瞬だけ驚いた表情をうかべて、すぐに痛々しい泣き顔がこみあげる。
くちびるを引き結んで感情を堪える綾の、無音の慟哭。
胸が引き裂かれそうになった。
おれは綾を一心に抱きしめていた。
「綾っ、なんで……どうして、ひとりで歩いて、傘は」
綾はおれの腕の中でまるで凍えたようにぎゅっと身体を縮こませていた。
綾の小柄な体を両腕で力いっぱい抱きとめた。
おれは頭上に叩きつける大雨に溶けてなくなってしまいそうな綾の姿をどうしても確かめたかった。
……大丈夫、綾はここにいる。
冷たく濡れた布地の感触ごしに確かに感じる、柔らかな肉体の存在をかみしめるように抱擁し続けた。
「葵、くん……」
その声は掠れて、昨日とは比べ物にならないくらい憔悴しきっていた。
綾の弱々しい両手が躊躇いがちに……懸命に助けを求めて、しがみつこうとしていた。
「わたし……学校に荷物、置いたままで……っ、財布も、なくて」
ひどく怯えたように震え、途切れ途切れになった言葉。
「生徒手帳のなかに1000円だけあって……、病院の人に聞いたら、近くの駅までバスが出てて、それで、電車に乗れたんだけど……っ、そしたら、葵くんの家までのバスのお金が、無くてっ……」
「ごめんね、綾。もう、何も言わなくていい」
おれは謝罪した。
今の綾にこんな弁明をさせてしまうのはあまりに酷だった。
「来てくれてありがとう」
おれは綾の濡れた頭を抱き寄せるように撫でた。
すると綾は声を上げて泣き叫んだ。
いつも天使のように優しい綾がこんな風に要領を得ない説明をして、号泣するほどにまで取り乱すなんて、尋常なことではない。
それは、さっきのの通話の声に感じた、打ちひしがれたような綾の姿で……
いやもうこれは、心神を失いそうなほどに追い込まれているんじゃないか。
こんなにやつれた綾におれは何ができるだろうか……
その時、天空に巨大な蜘蛛の巣をはったような無数の稲光が走り、白くまばゆい光で視界が埋め尽くされた。
同時に、轟音のような雷鳴がおれたちの聴覚をも奪いつくした。
とっさにおれと綾はなお一層強く抱きしめあった。
横殴りの風雨に強い浮遊感を感じる。
恐怖に目を閉じると人間のあらゆる感覚がバラバラになった。
もしかしたら、この古い鉄橋はバラバラになっていて、おれと綾は増水した川にまっさかさまに落下しているんじゃないか。
あるいはもうここは、この世ではないどこか別の世界かもしれない……
強大な自然の力を前にそんな錯覚すらして、しかしおれのすぐそばで身をこわばらせている綾の感触と息遣いだけが、おれを現実へと繋ぎとめていた。
やがて、強烈な残響を耳に残しつつも世界が元通り一面灰色の荒れた光景を取り戻す。
おれはずぶ濡れになりながら安堵した。
そこはやはり橋の上で、綾とおれだけが確かに支えあっていたのだ。
「――うちへ行こうよ。お風呂、沸かしてあるし、お茶も淹れてあげるから。ゆっくり休もう」
綾はおれの両腕の中でただ何度もうなずくだけだった。
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