#0062 綾の学校 (3)【綾視点】





 わたしが歌うソプラノパートの練習場所は、教室から近くにある階段の踊り場。

 もちろんこんな場所にピアノなんて置いてないから、みんなの音取りのために音楽室にある電子キーボードをとってくる必要があった。


 そしてそれはパートリーダーのわたしの役目だった。



 キーボードは音楽室の廊下のラックに山積みに置かれている。

 数には限りがあって、その日使えるかどうかは早い者勝ちだった。


 丸山くんと話しこんじゃったから確保できるか心配だったけど、なんとか最後の1個をゲットできた。



 ほっとした気持ちで、両手にキーボードを抱えたまま廊下を戻っていた。

 わたしはすこし上機嫌になる。


 ……最近、歌を歌うのが楽しい。


 葵くんと毎日丁寧に練習を続けてきたおかげで、すこしずつ上達してるのが自分でもわかる。

 クラスの女の子たちも、わたしの声が綺麗って褒めてくれるようになった。


 わたし、歌うのがちょっと好きかもしれない。


 葵くんのおかげだった。

 はじめはこんなふうに楽しく歌えるようになるなって思ってなかったのに。


 わたしは廊下を歩きながら自然と目を閉じて、自分が歌うパートをハミングする。

 今日も、みんなと練習するのが楽しみで――、



「――ああああああ! 委員長!」


 わたしは手に持ったキーボードを落っことしそうになった。

 その声は、わたしが通り過ぎようとしていた空き教室から突然聞こえてきた。


 もしかして鼻歌ハミングが見られちゃった――!?

 って思って周りの廊下を見渡したけど、いるのはわたし一人だった。


 それはわたしのクラスにいる男の子たちが雑談をしている声で、テノールの練習場所になっている教室の中から聞こえてきた。



「はは。リョウが頭おかしくなったぞ」

「いやだって最近の委員長ヤバすぎる。可愛いすぎるだろ」


 ひとりの男の子が叫んでいるのを周りが笑っている。

 思わず立ち止まって、壁越しに耳をそばだててしまっていた。


 これ、"委員長"って……わたしのこと、だよね。



「まあ確かにな、お前の言うことも分かるよ」

「登校してきた表情なんかすっげえ嬉しそうだし、体操してるときも張り切っちゃってさ。あんなん萌え死ぬわ……」

「最近委員長の笑顔キラッキラしてるよな」

「教室で心臓止まりかけた」


 盗み聞きはいけないって思ってはいるんだけど、どうしてか足が動いてくれなかった。

 なんだか嫌に生々しい気持ちになった。


 男の子たちのこういう話を聞いてしまうのは、前にも何回かあったけど……


 わたしのことで男の子たちの話はどんどん盛り上がっていた。



「ぶっちゃけ合唱なんてつまんないけど、委員長の笑顔が見たくて毎朝来てるわ」

「……委員長が聞いたら悲しむぞ」

「お前だってやる気ないだろ」

「だって、委員長があんな健気に"頑張ろう"って言ってるの、罪悪感あるだろ」

「でも、歌だぞ? しかもこの歌、何言いたいのか分かんないし」

「学園の天使、泣かすわけにいかないだろ」

「おいお前萌ちゃん派だっただろ! なに今更おれの委員長のこと天使とか呼んでんだよ!」

「別にいいだろ!」


 胸がズキリとする。


 歌うのがつまんない、って……

 そっか、楽しかったのはわたしだけ、だったのかな。


 そんな思いが頭の中でぐるぐるして、弾んでいた心が冷え切っていく。



「洪こそ、俺らのこと委員長に近づけさせねえじゃん」

「洪がどうかしたのか?」

「……おいおい、知らないのかよ」


 洪っていうのは丸山くんの下の名前だ。

 どうして、丸山くんの名前が出てくるんだろう。






「洪は本気で委員長を彼女にしようとしてるの、まさか知らないのか?」



 …………。

 ……うそ、丸山くんが。


 だって丸山くんは副委員長で、みんなのためにわたしと……



「え、まじ?」

「うっそだろお前。クラスで気づいてないの、委員長本人だけだと思ってたぞ」


 わたしは硬直してしまった。


 確かに、クラスメイトの声なのに。

 信じられない。



「委員長がソロやりますって言い出した時すかさず洪も手を上げただろ」

「っていうかそもそも、クラス委員とか柄じゃないこと始めたのだって委員長と近づくためだろ」

「……洪、音楽とかやる気ない奴だったのに、おかしいと思ったんだよなぁ」

「やっぱ馬鹿だろお前」

「てっきり内申点のためかってさ。部活終わって塾にも行きはじめたし」

「洪は推薦狙いだからな」


 わたしはほとんど会話が頭に入ってこなかった。


 こんな会話、ぜったい聞いちゃいけないはずなのに……

 わたしの身体は麻痺したみたいに動かなかった。


 って、そうだ。

 テナーの部屋ってことは丸山くんも向こうにいるはず、だよね。


 どうしてか今まで声が聞こえてこなかったけど……



「でも、今まで委員長に挑んだ男子で、一番と仲良くなれてるんじゃないか。洪」

「……まあ、そうかもな」


 丸山くんの無愛想な声がして、わたしは息が止まりそうになった。



「やべえ……いよいよ告白?」

「いや、それはまだ……って、ほっとけよ! こっ恥ずかしいだろ」


 信じられない話のはずなのに、いつもよく聞く丸山くんの口調には現実感があった。


 でもわたしは全然、そんなつもりは……


 ただ、一緒にソロを引き受けてくれたのは心強くて、最後まで頑張りたいって思ってただけ、なのに。



「委員長と残って練習してるんだっけ? 一緒に帰ったりしてるんだろ?」

「ま、まあな」


 えっ…………。



「くそ、一回で良いから代わってくれ!」

「……今日も昼飯いく約束した」

「やべえってそれ……! それもう委員長も満更でもないってことだろ!」


 さっきわたし、お昼のことはちゃんと断ったのに……

 それに、学校帰りは左沢さんたちと一緒に駅の方向に行ってたから、丸山くんと帰ったことはなかった。


 ……嘘、だよ。


 でも、みんなは丸山くんの言うことを信じていた。



「ああ、俺の安らぎがとうとう……」

「っていうか、去年は2組の栞ちゃんのこと狙ってなかったか? なんで辞めたんだよ」

「どうせあっちはライバルが多すぎて諦めたとかだろ」

「はああああ!? お前ふざけんなよ洪!」

「違う違う! お前らは綾のことを何も分かってない、綾は――」


 背後で聞こえてきた丸山くんの声は、もう意味として認識することができなかった。


 わたしはなんとかその場を離れた。


 足を持ち上げるだけでとてつもなく重くて、まるで自分の身体じゃなくなったみたいで……



 忘れなきゃ。

 こんなこと聞いちゃダメだったんだ。


 わたしは胸を押さえながら吐き気がをなんとか我慢しながら廊下を歩いた。






 そのあとソプラノのみんなが待っていた踊り場に戻って、遅れてしまったことを謝った。

 みんなは笑って許してくれた。

 いつも通りのみんなの表情にわたしは泣きそうになった。


 何事もなかったかのようにパート練習とそのあとの全体練習をして。

 気持ちもだんだん落ち着いきてきた頃に、クラスの全体練習も終わった。


 みんなが帰った後の空き教室で、またいつも通り4人だけが残っていた。



「……粕谷さん、粕谷さんっ」


 冒頭のソロパートの練習をしていた時、わたしはぼんやりとしてしまっていた。

 伴奏の左沢さんの、綺麗に編みこんだ髪が視界に入ってきたのに気づく。


 わたしははっとした。



「あっ、ごめん」

「ううん、いいけど……委員長、疲れてる? ぼーっとするなんて珍しいね」

「大丈夫……平気」

「そっか。なら良いんだけど……」


 心配そうな表情をしつつも左沢さんはまたピアノの方に戻っていって、わたしたちはまたもう一回ソロの部分を歌い始めた。


 すぐ隣に丸山くんがいる。

 わたしは廊下で聞いた会話をまた思い出してしまった。


 あれは確かに丸山くんの声だったけど……何かの間違いだった、ってことはないのかな。


 胸の奥でよどんだ空気がたまっているみたいだった。



「ストップ、ストップ」


 丸山くんと何度か曲の頭にあるソロを歌ったところで、伴奏の左沢さんが演奏をやめた。



「粕谷さんは歌っててどう思った? 洪とリズムが合ってないの、分かる?」


 わたしたちが歌うソロパートは、全部で9小節ある。

 それをわたしと丸山くんで分け合うことになっていた。


 初めの3小節はわたし、その次の4小節が丸山くん、最後の2小節はふたりのユニゾンだ。


 その最後の2小節で、わたしと丸山くんの歌、それから左沢さんの伴奏ともタイミングがすこしずつずれちゃうことがある。

 左沢さんはそう指摘していた。


 左沢さんはクラスで唯一の合唱部員で、いつも的確なアドバイスをしてくれる。

 それに、ここのタイミングはわたしもずっと気になっていたことだったから、わたしはためらいながらも頷いた。



「ほら、粕谷さんだって気づいてるじゃん。わかってないのは男子だけだよ」

「そんなこと、細かすぎないか? だいいち楽譜には"自由に"って書いてあんだし」

「リズム崩すのは基本ができてから。まずは楽譜の通りに歌えるようにならないと、わたしも合わせられないよ」

「……」


 左沢さんの言葉に言い返せなくなった丸山くんは、目線を切って息をはいた。


 ……今、小さく舌打ちした?

 そばにいないと聞こえないくらい小さな音で、聞こえたような……


 ううん。きっと、さっきの会話で動揺してるから聞こえたんだよね……



「じゃ、もうすこし練習してみよう。美月、少しテンポおとして音とってくれないか?」


 嵯峨くんの指揮で、わたしたちはもういっかいソロの楽譜を確認した。


 たとえば、この曲――『言葉にすれば』の中でたくさん登場するリズム。

 符点の3対1のリズムで、しかも拍の頭とリズムの頭がずれているせいで、楽譜上の音符の並び方はちょっと複雑だった。


 葵くんは「これがポップスのリズムだよ」って言っていた。

 はじめはCDの模範演奏を聴いて身体で覚えて、それから葵くんと一緒に譜読みを丁寧にやったおかげで、ようやく頭でも分かってきたところだった。


 きっと同じように丸山くんも……そう思っていた、けど。



「やっぱり洪だけ16分がはやいよ。もう一回、洪だけで歌ってみてよ」

「……なんでだよ。合ってるだろ」

「合ってないから言ってるの!」


 左沢さんがピアノの椅子から立ち上がって丸山くんのほうに詰め寄った。

 突然の大声にわたしは驚いて、嵯峨くんもびっくりした表情だった。



「は……、なんでキレてんの」

「怒るよ! だって……粕谷さんがこんなに頑張ろうとしてるのに、洪だけやる気がないから!」

「決めつけんなよ! 勝手な精神論押し付けんな」

「だったら練習まじめにやってよ! テノールだけぜんぜん上達してないじゃん!」


 背の高い丸山くんにむかって必死に気持ちをぶつける左沢さんは、涙目になっているのが見えた。

 左沢さんはわたしのために怒ってくれてる、それに丸山くんが低い声で言い返して、激しい言い合いになっていって――


 だめ、このままだとまた、わたしの目の前でみんなの気持ちがバラバラになっちゃう、そんなの嫌……!



「だめ……ふたりとも、お願い。聞いて!」


 3人の視線が集まってるのに気づいて、わたしはようやく我に返った。

 わたしは叫んでいた。


 ……ふたりの喧嘩をとめないと。


 無意識にぎゅって握っていたこぶしに、さらに力をこめて勇気を出した。



「わたし、たしかに丸山くんと合わないのはきになってたけど……でも、わたしのために無理強いはできないから」

「……粕谷さん。洪は自分でソロやるって言ったんだよ。真面目にやってもらわないと」

「丸山くんは誰もソロをやってくれる人がいなかったから、一緒に引き受けてくれたの。だから……ごめんなさい。わたし、歌うのが楽しくって丸山くんの気持ちを考えてなかった」


 いままで一緒にソロを歌ってきた。

 けど、気持ちよく歌えてたのはわたしだけだったみたい、だから。


 ……そのことがなんだか虚しくて、わたしの気持ちはどんどん小さくなった。


 俯きたくなる気持ちをぐっと我慢して、ふたりにお願いしていた。



「左沢さんはあんまり丸山くん怒らないでほしいの。丸山くんは、できれば一緒に練習してほしいけど……塾も忙しくて、合唱どころじゃないかもしれないから。わたしはみんなで一緒に歌えているだけで楽しいから」

「粕谷さん……」

「みんなが喧嘩してバラバラにだけは、なってほしくないから……ふたりとも、許し合ってほしいの。お願い」

「……」

「……」


 目をぎゅって閉じて頭を下げると、みんなが息を飲むのが分かった。

 3人とも何も言葉を発せなくて、沈黙が長くわたしの背中にのしかかった。


 わたしの気持ち、伝わっているかな……

 それだけを考えていて、目をぎゅって閉じていた。



 その時、わたしのポケットの中が震える音が広い空き教室に鳴りだした。

 スマートフォンが時刻を告げるアラームのバイブレーションだった。



「……予定、あるんだろ。このあと」


 ぽつりと口を開いたのは丸山くんだった。

 ふてくされたような言葉にわたしは顔を上げた。


 葵くんの家に行くための電車に遅れないために、わたしが設定していた時間だった。

 すぐ学校を出ないと。葵くんの家に行くバスは1時間に1本しかないから……



「今日はもう終わりにしよう」


 嵯峨くんが優しく、きっぱりと言ってくれた言葉は、わたしを押しつぶされそうな緊張から救ってくれた。

 けれどわたしは曖昧に頷くしかできなかった。


 わたしがみんなに言ったことは、わたしの本心じゃなかった。



 わたしは本当は……歌うのが楽しくて、その気持ちを丸山くんにも伝えたかったんだ。


 それなのに、左沢さんの言葉に丸山くんの機嫌がどんどん悪くなってしまって……

 丸山くんが何を考えているのかが分からなくて、恐かった。



 無言で荷物をカバンに詰め込んで、その場から逃げるように学校を後にした。

 わたしは葵くんの家に向かう道を急いだ。



 ――葵くんと会うのだって、みんなとの練習から逃げ出す口実にしていいはずじゃないのに。
















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