#0061 綾の学校 (2)【綾視点】








 葵くんがわたしに大切な思い出を話してくれたあの日から、葵くんとの距離はぐっと近くなっていた。


 葵くんとふたりで、たまに栞が一緒に遊びに来てくれたときは3人で、のんびりと色んなお話をした。


 ずっと一緒に過ごす時間はいつもあっという間だった。

 けれど、明日も明後日も同じように葵くんに逢えることがすごく嬉しかったた。



 毎日、誰もいない駅のホームでわたしを待ってくれている葵くんを見つけるたび、心が晴れわたるようで。

 葵くんとお昼ごはんを食べて、歌の練習をして、一緒に勉強も教えあったりして。

 裏のお庭にある畑も見せてもらった。



 葵くんはその時思ったことをなんでも、素直にわたしに言ってくれる。

「ありがとう、嬉しいよ」「やっぱり綺麗な声だね」「こうしたらもっと良くなると思うよ」「……ごめん、見惚れてた」――


 そのたびにわたしは恥ずかしくなって、けれど葵くんのまっすぐな気持ちは嬉しくて……


 わたしの身体はどんどん熱くなっていた。



 ……そして、お昼寝。


 あの日からわたしはすこしだけ、葵くんに積極的に……おねがい、できるようになっていた。

 つまり……いままでは一緒のお布団で手を繋いで眠っていたんだけど、葵くんにぎゅってしたいって言えるようになった。


 わたしもなんでそんなことしたいのか、よく分からない。


 はじめはそんなこと自分から言えるわけなくてそわそわしていたけど、葵くんが「良いよ」って優しく言ってくれた。


 なんで、わたしでも分からない気持ちに葵くんが気づくんだろう。

 わたしはびっくりして、けれどそのあったかい言葉遣いについ頷いてしまっていた。



 わたしは葵くんの腕の中でわたしはぎゅっと目を閉じる。

 胸のドキドキが止められなくなる。


 けれど、一度葵くんの心地よさを感じたら離れられなかった。



 お日さまみたいにあったかくて、カステラみたいな、あまくてふんわりした良い匂いもかすかにして……


 嫌な気持ちは全然なかった。

 ううん、わたしは幸せな心地で身をゆだねて、とても嬉しかった。


 ……それは葵くんだから、だった。



 辺りが暗くなってきたくらいに目を覚ました時もわたしは葵くんにしがみついたままで。

 葵くんはわたしの髪をかすかに撫でながら「おはよう」って微笑んでくれる。


 わたしは葵くんから目が離せなくて、胸がトクン――って鳴ってしまった。



 それで次の日から……あの心地よさをもういっかい確かめたくて、今度は自分からおねだり、してしまった。


 ――また、ぎゅってしてもいい……? って。


 葵くんはもちろん、また優しく頷いてくれて、わたしはまた胸が小さく鳴りだして……そんな日々だった。




 わたしは葵くんと過ごすうちに、うすうす自分の気持ちに気づきはじめていた。


 けれどそのたびに、そんなはずないって首を振りたくなる。

 だって、葵くんは栞の好きな人だから……



 わたしにとって栞は、もちろん、一番大切な家族。

 だから……


 ――そう、家族。

 葵くんとはこれから家族になる男の子で、いまはわたしの友達。


 それ以外の名前なんて、つけられないよ。


 だから、この胸のドキドキがどんな意味なのかなんて、きっと考えちゃいけないことなんだ……



 わたしはそう自分に言い聞かせていた。


 自分でもよく分からない本当の気持ちを無かったことにしたかった。



 会うたびにまた嬉しくて、胸が踊ってしまうの自分に慌てて。

 葵くんと過ごすだけでわたしは胸がいっぱいだったから……













 * + * - * + * - * + * 







「丸山くん」


 8月下旬の、夏休み最後の木曜日の朝。


 いつもみたいにみんなで集まって、体をほぐす体操をしてからパート毎の部屋へぞろぞろと分かれていくとき。

 わたしは両手をあわせて丸山くんに声をかけた。



 丸山くんはクラスの副委員長だ。


 わたしと一緒に冒頭のソロを歌ってくれる男の子でもある。

 普段の練習ではテノールのパートリーダーも務めてくれていた。


 クラスで一番背が高くて、たしかバスケットボール部に入っていたはず。

 人気者で、わたしが正直話しづらいような男の子とも仲が良い人だ。



「今日の、男の子のパート練習なんだけど」

「おう。なに?」


 丸山くんはわたしに向き直って、返事をくれた。


 いつも大きな声ではしゃいでいる丸山くんは、わたしと話すときだけなんだかぶっきらぼうで、思わずたじろいでしまう。



 クラス委員の真面目な話をすることが多いから、わたしと話してもあまり面白くないのかな……

 やっぱり、最近の流行りとかの話についていけないわたしは、話してても楽しくないのかもしれない。



 って、そんなことを考えてる場合じゃないよね。

 いまはみんなの貴重な練習時間だった。



「ごめんね、ソロを引き受けてもらうだけじゃなくて、みんなの練習も任せることになっちゃって」

「気にすんなよ。今日もいつも通りすればいいんだろ?」

「ありがとう。そのことなんだけど……今日の練習では少し発声を考えたいの。昨日、ソプラノのみんなと話し合ったんだけど、もっと声の一体感が欲しいなって」


 夏休みを使ったみんなの練習の甲斐があって、わたしたちの音程はだんだん揃ってきていた。


 わたしは、みんなが感覚を掴んでいくのを肌で感じていた。

 ソプラノの女の子たちも自信がついてきたって言ってくれている。



 けれど、栞が主導する2組の歌声が聞こえてくるたびに、その迫力にはまだまだ敵わないって思ってしまう。



 わたしたちが選んだ『言葉にすれば』は、栞たちや他の3年生のクラスが歌う曲に比べて曲調がすこし地味だ。


 だから、わたしたちの歌は完成度が大事で……それは、単に音程だけじゃなくて、声質とか声部のバランスとか、そういう部分をみんなで揃えないといけないんじゃないか。

 そんな話し合いがあった。



「だから男声のみんなも、今日は発声練習を多めにやってみてほしいの。もっと厚みのある声の感じで、揃ってほしくて」

「……」

「……あの、丸山くん?」

「あ、ああ。わかった。やっておく」


 わたしを見たまま固まっていた丸山くんの表情を覗き込むと、慌てたように返事をしてくれた。

 ちゃんと伝わったかな、とすこし不安に思っていたとき、丸山くんは「そんなことより」と続けた。



「俺、塾の夏期講習おわったんだよ。ようやく」

「そ、そうなんだ……」


 なんでそんなことわたしに伝えるんだろう……

 そう不思議におもっていると、



「それで、綾は今日練習おわったら暇か?」


 綾――と名前を呼び捨てられて、わたしは思わず身体がびくりと震えた。


 他の人はたいてい「委員長」って呼ぶんだけど、丸山くんはいつからか、わたしをそのまま名前で呼んでいた。


 たぶん姉妹を区別するためで、深い理由はないと思うんだけど……

 どうしても、びっくりする。



「よければ帰り、どっか遊ばないか?」


 わたしは固まってしまった。


 そんなこと誘われても……困るよ。

 わたしは曖昧な笑みうかべながら目線を逸らして、なんて言って断ろうか考えていた。


 いつの間にか教室にはわたしと丸山くんのふたりだけが残っていた。

 他のみんなはそれぞれの練習場所に行ったあとだ。



「……今日も、午後は予定があるの」

「じゃあ昼飯だけでいいから。それならいいだろ?」

「お昼も、約束してるの」

「……」

「ごめんね。いつも誘ってくれてるのに、応えられなくて……」


 この夏休み中、丸山くんからは2回くらい同じようにお昼ごはんに誘われていた。

 けれどわたしは葵くんとの約束があって、早く行かないといけなかったからお断りしていた。


 これまでは丸山くんも忙しそうだったから、それ以上深く訊いてこなかったけど……今日は違った。



「いつならいけるんだ?」

「……ごめん、なさい」

「その約束そんなに大事なのか?」

「…………」


 詰め寄られているみたいに感じて、わたしは俯いてしまった。


 葵くんの家に行くのは、わたしが行きたいって思ってるから。

 お願いしてるのはわたしだから。


 その気持ちがなんなのか自分でもわからなくて……それを丸山くんに話すのは、なんとなく嫌だった。



「家族と、なの」

「家族?」

「うん……だから、大切な約束なの」


 咄嗟に出てきた理由はこんな言い訳。

 そんな言葉しか出てこなくて、なんだか情けなかった。



「……ソプラノのみんなが待ってるから。もう行くね?」


 わたしは丸山くんが納得してくれたかどうかも確認しないまま、小さく「ごめんね」と呟くように伝えて、1組の教室をあとにした。



 もうすぐ葵くんとは家族になるんだから、間違ってはないよね……

 わたしは何度も心の中で確認していた。
















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