#0060 夕暮れ (3)





 目の前の現実に思考がついていかないおれと父さんのもとに、葬儀屋さんの人がやってきた。

 おれと父さんとばあちゃんは、市内の郊外にある葬祭会館にすぐ移動することになった。


 案内されたのは、二間の和室に同じくらいの広さの洋室がくっついたようなところだった。

 廊下を挟んだ別の部屋にはベッドが2台置かれた寝室があって、自由に使って良いと言われた。


 新しい建物で清潔に掃除された室内は、なぜか冷たく殺風景に見えた。



 部屋ではテーブルをはさんで、父さんと葬儀屋さんの間でよく分からない手続きがあれこれと進んていった。

 まだ子供だったおれは、父さんの横にいて大人たちの会話をただじっと聞いていることしかできなかった。



 そのあと父さんは一旦家に戻って、自分用の礼服のほかに、おれが着るものを持ってきてくれた。

 それはおれがコンクールに出るために買ってくれた子供用のスーツだった。


 ついこの間、吉川先生のお葬式で着たばかりの……


 おれはその場で着替えながら、自分がいまどういう感情でいるのかさえ分からなかった。



 夕方くらいから親戚の人たちが次々と駆けつけた。

 場が一気に賑やかになったように感じた。

 みんな口々に「信じられない」と言っては祭壇の前で手を合わせていった。


 父さんは今朝ばあちゃんに起こったことを来た人みんなに説明して、それを聞いた人は誰もが同じような驚きかたをした。



 周囲が騒がしい中で、おれひとりだけが言葉を発せなかった。

 おれは頭の中が朦朧としたまま、葬儀屋さんの人に言われるがまま遺影に使う写真を選んでいた。


 テーブルの上には、誰かが並べてくれたたくさんの写真があった。

 おれの知らない若いころのばあちゃんの顔をいくつも見つけた。


 抜け殻のようになったおれに話しかけてくる大人は、誰もいなかった。



 その夜。


 お通夜にあげるお経が終わると、親戚の人たちも帰っていった。

 おれと父さんとばあちゃんの3人だけが、その場にとり残されていた。


 おれはその時はじめてお通夜の意味――朝まで寝ずに、蝋燭の火とお焼香を絶やさないで亡くなった人を守るということを知った。


 朝からずっと動き回って疲れ果てた顔の父さんはおれを見て、「休んでも良いんだぞ」と言ってくれた。


 けれどおれは、畳の上に座ったままの自分の身体がどうしても動かせそうになかった。


 涙も出てこなくて、指の一本さえも動かなくなっていた。



 二間続きの和室は、薄暗くて無音だった。


 ばあちゃんが寝ている前に置かれた祭壇には蝋燭の火が音もなく灯っていてた。

 お焼香の煙がのぼるゆらぎだけが、そこに確かに時間が流れてることを告げていた。


 照らされた部屋の中でだれも口を開こうとせずに、本当に静かだった。



 おれは顔に布がかかったばあちゃんのことを見ながら、意識がずっとぼんやりしていた。



 だって――何回確かめても、どう考えても、ばあちゃんは眠ってるようにしか見えなかった。

 おれが呼びかけたら、ばあちゃんはいつもみたいに起きてくれるんじゃないか……


 そう思うけれど、ばあちゃんの身体は固まったまま動かなくて、からからに渇いたおれの喉からはまったく声が出てこなかった。



 ……だって。昨日も、ばあちゃんは。


 いつもの日課の日帰り温泉までひとりでバスに乗って、行ってきたばかりだったのに。

 いつも通りばあちゃんのつくるご飯を食べて、いつも通りの一日だったのに。



 おれは異常に両眼だけが冴えていた。

 けれどこれが現実でなくまだ何か夢を見ているような感覚だった。


 気づいたら窓の向こうの空が群青色に染まり始めていた。



 結局おれも父さんも言葉をまったく発せずに、その場にただ呆然としたまま夜を明かしていた。



 翌朝、白い装束を着たばあちゃんは葬儀屋さんの人に納棺された。

 棺の中にはたくさんのお花と、ばあちゃんが縫った小さな動物の人形たちで埋め尽くされていた。


 大好きなものに囲まれたばあちゃんは本当に綺麗で、幸せそうな表情をしていた。



 そしておれと父さんと、もう一度集まってくれた親戚の人たちに、白くて細長い厚手の1枚の布が渡された。

 それは棺を封印するための布だった。


 これから斎場へと移動するために棺にふたをして、ふたの上からこの1枚の布をぐるりと巻いて、まち針みたいなピンを刺して封印する。

 そう説明をうけた。


 その布に、お別れするばあちゃんのために一人一人の思いを書いてみてくださいと葬儀屋さんの人は言って、油性のマジックも手渡された。



 おれはぼんやりと、ああこれでお別れなんだ、封印をしたらもうばあちゃんを見ることもできないんだ……って思った。

 なんて書いたらいいかわからなくなった。


 父さんは何を書いているんだろうと、ふと右横を見てみた。




 ――"まだもう少し一緒に楽しみたかったです。一史"



 父さんはずっと俯いていた。

 ああ……



 その瞬間おれは、これまで氷漬けにされていたあらゆる感情が、一気に溶けだした。



 おれはばあちゃんと、まだたくさんやりたいことがあった。



 はやく大人になって免許をとったら、おれの運転でいろんなところに一緒に行きたかった。


 吉川先生はいなくなっちゃったけど、新しい先生も探しながら、もっとたくさん練習して。

 いつかばあちゃんにカンパネラを聴かせてあげるって、約束したばかりだった。


 伝えたいことがたくさんあった。

 感謝の気持ちも言えていなかった。



 大好きなばあちゃんに、もう会えない。

 これが最後……



 突然鮮やかになった感情に晒され、気づいて、直視してしまった。

 おれは正気でいられなかった。

 その場に泣き崩れ、こみ上げる涙が止められなくなった。


 ばあちゃんとお別れするのがつらくて、声をしゃくりあげながら泣いてしまったんだ――




「葵くん!」


 その時、ずっと話を聞いていた綾がおれを叫んで飛び込んできた。

 綾に抱きしめられる感触でおれの意識は現実に戻った。


 気づけばおれは上を向いたまま視界が滲んでいた。

 両目から溢れて止まらない涙がこめかみのところを伝っていくのを感じていた。



「……ごめん。こんな話、聞いてて気分良くないよね」


 涙を拭いながら謝ると、綾はふるふると首を振った。



「違うの葵くん……わたし、葵くんにつらい気持ちになってほしくない。わたしのせいで葵くんに悲しいこと思い出させちゃって、葵くん泣いてた。だからもう……」


 おれの上から見下ろす綾と視線が合った。


 いつの間にか、庭に面した縁側から沈みゆく太陽のオレンジ色の光線が、いくつも降り注いでいた。


 流れるような綾の黒髪は西日をいっぱいに受けて琥珀色の光を反射している。

 瞳を縁取る睫には透明の細かな水滴がたくさんついていた。


 そして、おれを勇気づけようと必死に訴える、綾の表情。


 その神秘的な美しさに胸を打たれて、目が離せない。



「……おれは大丈夫、だよ」


 おれは綾の頬を伝っていた涙を右手で拭ってあげた。


 おれだって話しながら涙がこらえきれなくて、そんな人間が言うのは説得力がないかもしれないけど……

 けれどおれは、あの時から4年が経って、ばあちゃんがいないことも受けとめ、今を生きている。


 ただ思い出すと、どうしても心が揺り動かされてしまうだけだ。



「あの日の……、あの時の気持ちを、こうして言葉にして誰かに話したのは初めてなんだ。ほかの3人じゃなくて、綾に知ってほしかった。みんなのお姉さんをしてる綾だから……今まで誰にも打ち明けてこなかった気持ちを、綾になら言葉にすることができたんだ」


 おれの胸のそばで綾も泣いてくれている。

 おれの昔の記憶、言葉にできなかった想い……そういうものを少しでも共有できた、だろうか。



「ごめん、綾を泣かせるつもりはなかったんだ」

「……ううん、葵くん」


 謝ると、綾は涙声で答えてくれた。



「わたしも……葵くんの力になりたいの。葵くんに、なにか……わたしになにができるか、分からないけど。でも」

「…………」


 綾の優しい訴えは、曇っていた胸の奥を澄みわたらせるようだった。



 ……そう、おれはずっと寂しかった。


 この広い家のなかでおれはひとりぼっちになって、しばらくおれは学校にも行けなくなった。

 少し経ってようやく前を向くことができてからは、吉川先生が遺した本を読んだり、CDを聴いたりして気を紛らわせて、その感想を書くためのサイトも立ち上げたりして。



 けれど、綾と栞と里香さんに平均律を弾いたあの時、おれはこれまで触れることができなかった心の深い場所がすこしだけ満たされていくのを感じた。

 歌の伴奏とかではなく、おれが弾くピアノとして久しぶりに誰かに聴いてもらえた。


 それ自体がしみじみと感動したし、なによりその相手が、綾と栞と里香さんだということが嬉しかった。

 本当に久しぶりに感じた喜びだったんだ。



「……いなくならないでほしい」


 だからこそ、おれは思う。



「大切な人に会えなくなるのは嫌なんだ」

「……うん」


 おれは哀願していた。

 泣き言をこぼすおれを、綾は優しく受け入れてくれた。



「ばあちゃんはある日、何の前触れもなく会えなくなったんだ。すごく後悔した。もっとばあちゃんに言いたいことがたくさんあったのが、心残りだった。それに……」


 ――初めの診療所を出るとき、おれが「やっぱり救急車で行こうよ」って父さんに言っていれば、何かが変わっていたかもしれない。

 もしかしたら、ばあちゃんは助かっていたかもしれない……


 おれはそう思わずにはいられなかった。



「……だからおれ、その時感じた気持ちとか伝えたいこととか、どうしても言わないとって思っちゃうんだ。それで、気づいたら栞や綾にも恥ずかしいことばかり言ってて」

「そんなこと……わたしのことは気にしないで。葵くんの優しい気持ちは伝わってる、から」


 綾だって泣いているのに、おれの胸の上で抱きしめる感触はとても温かかった。

 おれが一方的に語りだした悲しい思い出に綾は寄り添ってくれた。


 一緒にその想いを確かなものにしてくれた。

 その実感が、おれのすぐそばにあった。


 綾がそばにいてくれて、おれの気持ちは慰められ静かに洗われるようだった。



「ありがとう、綾」

「ううん。葵くんが安心できるなら、わたしもうれしいよ」

「……綾も」

「わたし?」


 おれを見上げた綾の目元は赤く腫れて、けれど涙があふれてくることはもうなかった。


 おれと綾ふたりでこうしていることに、代えがたい安心感があった。

 だから――



「ばあちゃんはもういないけど、綾は今こうして生きている、大切なひとりだよ。綾がおれを心配してくれたのと同じくらい、おれも、それ以上に栞たちが、綾のことを大切に想っている」


 それこそ栞は、綾のことを自分の半身とまで言っていたくらいだ。


 ……それに、もしかしたらばあちゃんはおれのために、気づかないうちに無理をしていたのかもしれないから。

 父さんしかいないおれを心配して、たくさんの優しさをくれたばあちゃんは、もしかしたら色々ながまんをさせてしまったのかもしれなかった。



「だから綾も無理しないで、自分のことを大切にして。もし他の3人に言いづらいことがあれば、おれが綾の弱音を聞いて、一緒に泣くこともできるから」


 おれの言葉を聞いた綾は、すんと小さく鼻を鳴らして、もういちどおれを抱きしめてくれた。

 目を閉じて、柔らかな表情だった。



「おれも綾が大切なんだ」

「……うん。ありがとう」


 そうして薄暗くなった夏の夕暮れに、おれと綾は寄り添って眠りについた。

 あの時の後悔は綾のおかげで昇華されて、おれの気持ちはすこしだけしなやかになっていた。



 どこまでも穏やかな心地だった。

















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