#0059 夕暮れ (2)





 そうしておれと綾はあらためて眠りにつくことになった。

 目を閉じていると高揚した気持ちはだんだんと落ち着いていった。


 おれと綾の手は薄い毛布のなかで恋人つなぎのままで、甘すぎるほどの幸福感で胸がいっぱいに満たされていた。



「……葵くん」


 どのくらいの時間そうしていたかは分からないけど、ぽつりと綾の声が聞こえてきた。



「綾?」

「葵くんがあんなこというから……眠れないよ」


 目を開けると、困ったようにはにかむ綾がこっちを見ていた。

 綾のとろんとした眼差しに、また鼓動が跳ねてしまう。


 ……おれも内心では、あんな台詞まるで告白みたいじゃないかって、反省していたところだった。

 かといって、綾も悪い気はしていないみたいだから謝るのもなんか違う気がして、そわそわとした気持ちだった。



「何か話でもしよっか」

「うん」

「じゃあ……綾はなにかおれに訊きたいこととかある?」


 おれが提案すると綾はコクリと頷いて、おれのほうへ向き直った。

 綾はすこし逡巡して、目線をさまよわせるその仕草が、またとんでもなく可憐で……



「……こんなこと、葵くんに訊いて良いのか、分かんないけど」

「なんでも」

「じゃあ……――葵くんのおばあちゃんのお話、聞いてみたい」


 その要望は、おれにとって思いがけないものだった。

 無意識に目を見開いていたかもしれない。



「あのっ、もし葵くんが話したく無いなら、無理には聞かないよ。でも、この前はじめてここに来た時、葵くんがおばあちゃんのことを今でも大切に想ってるんだって伝わってきたから、……どんな人だったのか知りたいって思ったの」


 咄嗟に返答できないでいると、綾は声を震わせながらそう付け加えた。

 おれは逆に申し訳なくなってしまった。



「だから……」

「ありがとう、おれは大丈夫だよ。……ちょっと予想外でびっくりしてただけだから」


 確かに悲しい記憶もあるけれど、ばあちゃんと一緒に暮らしてた時のことはかけがえのない思い出だ。

 どれもがいまのおれを形作っている。



「さっきおれは綾のこと知りたいって言ったけど、おれのことも知ってほしい……これから家族になるんだからね」


 そう言って笑ってみせると、綾もほっとしたように表情を緩めてくれた。

 無意識にまた綾の手を握ってしまっていた。


 おれはあの頃のことを思い出すために、少し暗くなってきた和室の白い天井を見上げた。



「昔のおれは大のおばあちゃん子だったんだ」


 綾は静かに耳を傾けてくれるのがわかった。

 温かい眼差しに見守れ、おれは安心して話すことができた。


 ――ばあちゃんのことを思い出すということは、自分が過ごした昔の日々を思い出すことと同じだった。



「父さんは今よりもずっと研究で忙しくて、おれは家でばあちゃんと過ごす時間がいちばん長かったんだ」


 おれが生まれてからずっと、この家はおれと父さんとばあちゃんの3人暮らしだった。

 じいちゃんはそのずっと前の、父さんが高校生の頃に亡くなっている。


 ばあちゃんは本当に何でもできる人だった。


 たとえばばあちゃんは縫物とか刺繍が大好きで、子供の頃よく擦り切れた服を縫ってもらっていた。

 ピアノでコンクールに出るって決まった時、ばあちゃんは嬉しそうにおれが身に着けるネクタイとかチーフを作ってくれた。



 毎日の料理もばあちゃんが作ってくれたし、いつも食べてる野菜もばあちゃんが畑で育てていたものだ。

 小さい頃はよく一緒についていって、見よう見まねで泥遊びをしていた。


 若いころは病院で看護師さんをしていて、そのおかげでおれの健康にも気を付けてくれたし、怪我をした時はいつも泣いているおれを優しくめながら手当をしてくれた。

 買い物のために市内にある大きなスーパーやホームセンターまで足を伸ばす時もおれを連れていってくれて、おやつとか玩具おもちゃをなんでも買ってくれた。


 おれはばあちゃんのことが大好きだった。



「ある日父さんが家に帰っておれを抱きかかえようとしても泣きながらばあちゃんから離れたがらなかったんだって」

「ふふっ」


 憐れな父さんを想像したのか、綾は小さく笑ってくれた。



 ばあちゃんは元気の塊みたいな人で、朝から焼きそばとかステーキなんかを平気で食べて、コーラとかコーヒーが大好きで水の代わりに飲むような人だった。


 それでいて身体は信じられないくらいずっと異常無しで、むしろ低血圧でつらいって言ってるくらいで。

 この調子で100歳まで生きちゃうんだろうって、おれも父さんも疑いなく思っていた。



「ばあちゃんは甘いものがいちばん大好きで、和菓子とシュークリームが大好物だったんだよ。吉川先生のレッスンの帰りによくケーキ屋さんに寄ってくれたんだ」

「車の運転もしていたの?」

「そう。吉川先生の家は市内だから、ばあちゃんの車で通ってたんだ。さすがに年もあっておれが小学5年生の頃に免許は返しちゃったんだけど、それまではいろんな所に連れて行ってもらったよ」


 おれにピアノを習わせたのは父さんだ。

 自分はさして音楽に明るくない父さんだけど、なぜか子供ができたら習わせたいとずっと思っていたらしくて、吉川先生も父さんがこの人にと決めた先生だった。


 そして、いつもそばでおれの下手な練習を聴いてくれたのがばあちゃんだった。



「フジコ・ヘミングって知ってる? ピアニストの」


 おれに突然尋ねられて綾は少しびっくりした表情に変わる。



「え、うん……名前は聞いたことある、かな」

「結構昔なんだけど、NHKのドキュメンタリーで話題になってすごく有名になったピアニストなんだ。ばあちゃんが好きで、いつも車の中でCDをかけてたんだ」


 そのCDは、学生時代の父さんが何を思ったのかある日レコードショップで目につけて買ってきたもので、それがうちで初めてクラシックが流れた時だった。

 おれも車の中でそれをずっと聴いていた。



「ばあちゃんはリストの『ラ・カンパネラ』っていう曲がお気に入りだったんだ。綾は知ってる?」

「知ってるよ。有名な曲だし、前に栞も弾いてた」

「……栞はすごいね、やっぱり」


 『ラ・カンパネラ』はリストが作曲した『パガニーニによる大練習曲』の第3曲目に収められた曲だ。

 右手の速い跳躍にまみれて、譜面は音符で真っ黒になっている、かなりの難曲だ。


 ばあちゃんは、大好きなカンパネラをおれが弾いてるところをいつか聴かせてほしいと、ずっと夢見ていた。


 けど……



「小学生のおれには到底敵わなかった。当時のおれはショパンのワルツとか、せいぜい簡単なエチュードくらいだった」


 そして、もうそれは叶わなくなってしまった。

 言外の虚しい気持ちが伝わって、綾は口を閉ざしてしまう。



 そして――

 ここまで話したおれの胸は迷いがあった。


 ばあちゃんと過ごした日々の、無数の思い出。

 それは確かに懐かしい、大事なものだけど……それがばあちゃんとの関わりの全てではないからだ。


 たった一度の、重大なお別れの記憶も、いまのおれに繋がっている。

 それは絶対に無かったことには出来ない。



 ――ばあちゃんとの突然の別れ。

 その悲しい思い出を避けて、楽しかった場面だけを伝えるのは……ありのままではない気がしていた。


 自分の中ではもう折り合いをつけた、とおれは思っている。

 けれど誰かに打ち明けたことはなかった。


 あの悲しみと孤独感を誰かに伝えるのは、なんとなく忌避感があった。

 胸が締め付けられるようなあの感情を誰かと共有しようなんて思わなかったし、どんなふうに表現すればいいかも分からなかった。


 でも、綾になら……なぜだかわからないけど、みんなのお姉さんの綾にだったら言葉にできるような気がした。

 綾には知ってほしい、きっと受け止めてくれる――その優しい瞳を見て、おれの中にはそんな信頼があった。



 一瞬、無言の時間が流れて、おれの鼓動はどこか異常に歪みだしていた。




「……あの日」


 勇気を出して最初の言葉を口にして、その声は言いようのない緊張で上ずっていた。

 おれは綾の表情を見る余裕はなくて、黙って天井を見つめて平静を装いながら、ひとつひとつの言葉を懸命に紡いでいった。



「秋の暮れで、いつも以上に冷え込む朝だったんだ」


 その前日までずっと冷たい雨が降り続いていて、外には濃い霧が立ちこめてうちの周りの森がまるで外界から孤立したかのようだったのをよく覚えている。

 ……吉川先生が亡くなってから2週間が経って、まだ整理がつかないおれの気持ちを表したような空模様だった。



 その日、いつもなら遅くても朝5時には起きてくるばあちゃんが6時半を過ぎても起きてこなかった。


 どうしたんだろうと思って部屋を見に行くと、ばあちゃんは布団で寝息をたてて眠っていた。

 それで声を掛けたら目を覚ましたんだけど、起き上がったばあちゃんの足取りがふらふらしていた。



「なんだか元気もなさそうで、体温を測ったらいつもより高かったんだ。それで父さんと話をして、ばあちゃんを近くの病院に連れていくことにしたんだ」

「……」


 おれがこれからどんな話をしようとしているのかを察した綾は、押し黙ったままただ聞いていた。

 綾の静かな息遣いを頬に感じて、おれは話し続けるしかなかった。



「おれの助けもいるかもしれないから、その日の小学校は休むことにしたんだ。何事も無ければ午後からでも行こうと思ってたんだけど――」


 父さんが運転する車で近くの診療所までみんなで行った。

 おれが風邪をひいた時とか予防注射の時にいつも行っていた、町の中にある馴染みの小さな内科だ。


 お医者さんはばあちゃんをひととおり診察したあと、レントゲン写真をとったところで顔色を一変させた。



 ――すぐに日赤病院に行ってください。紹介状を書きます。


 その急な言葉を飲みこめずにいると「念のため救急車も呼びましょうか?」とまで言われてさすがにぎょっとした。

 おれと父さんはその場で顔を見合わせて、救急車を呼ぶまでではないから、このままうちの車で行こうと父さんがお医者さんに答えていた。



 ……その時おれはほんの少し不安だった。


 優しくばあちゃんを診ていたお医者さんが急に口調を変えたのが恐くなって、ひょっとして大変なことが起こってるんじゃないかって思った。


 おれはばあちゃんに問いかけたんだ。大丈夫? どこかつらくない? って……

 ばあちゃんは熱のせいでぼうっとしているけど、おれのほうを見て、いつもののんきな声で返事をしてくれた。


 なら、大丈夫なのかな……子供のおれはそう思うしかなかった。

 それに日赤病院への道路なんてどうせ一通りしかないし、車ならそんなに時間もかからないよね……そう自分を納得させていたんだ。



 そうして最初の診療所を後にして、おれたちは市内へ向かう幹線道路を飛ばして日赤病院へと向かった。


 その間、おれとばあちゃんは車の後部座席にいた。

 外に立ちこめる霧は相変わらずすごく濃くて、前を走っている車のテールランプですら滲んでしまうくらいだった。


 いつもなら前から後ろに流れてゆく景色も霧のせいでまったく見えなかった。

 市内に入ってから日赤病院まではずっとまっすぐな道路で、ぼんやりした不安感で誰も口を開こうとしない車の中で、父さんが心なしかいつもよりスピードを上げるのが、ただエンジンの音から分かった。



 その間、ばあちゃんはおれの隣でずっと目を閉じて休んでいた。

 おれも父さんもそっとしておこうって思っていて、ばあちゃんがだんだん弱っていってることにふたりとも気づけなかった。


 その時はまだ、きっと昨日からの寒さで体調を崩しちゃっただけだと思っていたから……


 けれど病院に着いた時、ばあちゃんはもう自力で立てないくらいになっていて、おれと父さんは担架を呼んでばあちゃんを病院の中に連れて行った。

 そしたらばあちゃんはすぐに集中治療室に入れられて、ばあちゃんのことを診た日赤のお医者さんの第一声が――



「――延命はどうされますか、だった」

「……!」

「おれと父さんは、事態が飲みこめなかった。けれどお医者さんに答えないわけにもいかなくて、……父さんが『本人は絶対に延命しないでくれと言ってます』って答えたんだ」


 綾が驚いて息を飲むのがわかった。

 あのときのおれも同じ気持ちだった。あの時はまったく訳が分からなかったんだ。



 ばあちゃんは搬送されたICUのベッドで眠ったまま、あっという間に呼吸が弱々しくなっていって、そして正午ごろに心臓が止まってしまった。


 その瞬間は本当に呆気なくて、おれも父さんもただぽかんとしていた。


 信じられなかった。

 あまりにも突然の出来事にまったく理解が追いつかなくて、悲しいっていう感情が湧いてくる暇すらなかったんだ。
















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