#0058 夕暮れ (1)





 おれが住む高尾町には鉄道駅がたった1つしかない。


 市内のターミナルから2駅で、簡素なホームから望む景色は一面の田園風景というのどかな無人駅だ。

 栞と山形市まで出かけたあの日も、ここから電車に乗りこむことから始まったのだった。


 そんなわけでこの駅がうちからの最寄り駅になるんけど、それでもうちから4, 5キロくらいの道のりがある。

 家と駅の間には川が流れていて、逆方向にある橋を経由しないといけないのだ。


 おれたちのような車の運転できない人間は、いつもこの道のりを徒歩か自転車で移動して……なんてことはない。

 町の循環バスという、便利な手段があった。


 このバスは、町内の主な地区と町役場、駅、学校、それに古びた温泉施設や空港なんかも結んでいて、料金はどこまで乗っても300円。

 運行頻度が1時間に1本なのがすこし心もとないけれど、それは仕方ない。


 おれはよく利用させてもらっていた。




 ――綾たちが初めてうちに来てから数日。


 あれから綾は、律儀にも毎日ひとりで電車にのって高尾町までやってくる。


 おれは午前中は中学校での合唱練習が毎日あって(結局おれたちは8人だけで歌うことに決めたのだ)、その帰り道に駅で綾を出迎えていた。

 もはや日課になっていた。



「おまたせ、葵くん」


 到着した2両編成の先頭からホームに降り立つ綾は、決まっていつも制服姿だ。

 綾のクラスでも、午前中は集まって練習をしているらしかった。


 電車が走り去る風で綾の長い黒髪がたなびいていた。

 その綾の制服の立ち姿は、本物の天使としか言いようがなかった。


 夏の青空と山あいの緑に、白地の夏のセーラー服は清楚に調和して、まるで映画のワンシーンのようで……


 おれはそのたびに見惚れて、やってきたバスの車内でもずっと心が奪われたままだった。





 家についてからは、ふたりで昼食の準備をした。


 綾はいつも昼食を取らずにやってくる。

 おれが最初そのことに気づいた時、綾は申し訳なさそうに遠慮していた。

 けれどそのとき、綾のおなかが可愛らしく鳴ってしまったのだ。


 顔を真っ赤にして押し黙ってしまった綾は、どこまでも可憐で。


 おれは思わず笑みがこぼれて、それならいっそふたりで台所に立つのを提案してみると、綾はとても嬉しそうに受け入れてくれた。

 今では毎日、下ごしらえから調理までを協力するようになっていた。



「おいしい?」

「うん」

「よかった」


 完成した二人分を、すずしい風が通り抜けるふたりきりの和室で囲んで、ふたりで笑いあった。





 昼食後は和室で休憩しつつ他愛ない話をしたり、時には一緒に勉強したり。

 そうして一息ついたところで、自然とピアノ部屋へ移った。


 綾は午前中も学校で喉を使っているようだから、あんまり無理はさせない。


 それに、正直なことを言うと、1カ月かそこら練習したからといって劇的にうまくなるということはない。


 楽器と同じで、練習というのはそれをずっと継続してこそだ。

 そのことは綾も了解してもらっていた。


 だからこそどこかのんびりと、純粋に音楽を楽しむことができた。

 けれどひたむきな綾は決して手を抜くことはなくて、丁寧に歌声をつくっていた。



 ――それは、ちょっとあどけないような独特の柔らかさがあって、囁き声みたいにふわりと空気の中に溶けていく。

 おれが弾く伴奏にのって、たゆたう綾の歌声が部屋いっぱいに満たされた。


 おれはその幸福感で包まれるようだった。



 その後、今日はおれも曲を演奏した。

 綾へのささやかなお礼だ。


 シューマンの『子供の情景』。

 おれたちはしばし、小さくて幻想的な情景を思い浮かべ、穏やかな旋律に身を委ねていた。



 鍵盤から離して小さく息を吐くと、綾は静かに拍手をしてくれて。

 こんなふうに誰かに演奏を聴かせることがずっと無かったおれは、まだ照れくさい気持ちがあった。


 けれど、ふたりで音楽の美しさを分かち合う瞬間が純粋に嬉しかった。



 すこしくたびれつつ、脇に置いていたコップの水でのどを潤していた時。



「あ……」


 どちらともなく、綾と視線が交わる。

 その瞬間、すこしそわそわした様子の綾と、考えていることがリンクしあった。


 おれは、心臓が跳ねるのを隠しながら綾に手を差し伸べる。



「今日も、お昼寝しよっか」

「……うん」


 ――綾はいつも、頬を染めつつ小さく頷くのだった。







 夏の日はまだまだ長く、おれと綾がのんびり過ごす午後は時の経過がとてもゆっくりに感じられた。



「やっぱり、ドキドキするね……」


 おれのすぐ横に綾と視線が合わさる。


 おれたち以外誰もいない、静かな家の中。

 お日さまの匂いがする布団はまるでゆりかごのようで、隣からは綾のかすかなお花の匂いがして。


 ぎゅっと身体を縮めて、ちょっと困ったような表情でおれのことを見つめていた。


 ……どうしようもなく胸が高鳴っていた。



「……手」


 おれの声は掠れた。



「葵くん?」


 綾はきょとんとする。


 ――綾も、抱くものがそばにないと眠れない。

 いつも綾は横になってしばらく経ってから、手を握って良いかと気づかわしげに訊くのだ。


 昔、綾と栞はいつも隣同士手を握り合って眠っていたという話を、綾は会話の中でおれに教えてくれた。

 けれど今はおれと綾しかいなくて……


 それは綾にとっておれが安心できる存在だっていうことでもあった。

 今日は、おれから綾の手を握ることにした。



「……あっ」


 布団のなかで手を握ると、綾は小さく声を上げて。

 そしてその柔らかな感触で握り返してくれた。


 綾は頬を染めて俯いていた。



「栞のこと、やっぱり気にしちゃうよね」


 できるだけ穏やかに声をかけた。


 おれにも躊躇いはある。

 聡明で優しい綾は、栞の気持ちをずっと見てきたのだから尚更だろう。



 ただ、おれと綾の間には信頼があった。

 ふたりで会うたびにこの心地よい時間を求めてしまっている。


 この穏やかで睦まじいおれたちの関係ははたして恋愛なのか、それとも心開ける家族を見つけた安堵感なのか、その境界は曖昧なままだ。

 だから綾も不安で、こうしても良いんだっていう安心を欲している。



「この間、3人で一緒に眠ったとき、栞はそんなふうに遠慮するおれと綾の仲を取りもってれたんじゃないかって思うんだ」


 おれが率直に思うことを言ってみると、綾も小さく頷いてくれた。



「……前もね、栞に言われたことあるの。"ボクこのとを気にしないで仲良くなってほしい"って。わたしはその時、"せっかく葵くんと友達になれたんだから、もっと仲良くなりたい"って言ったの」


 "友達になれた"っていう言い方から、おれとモールで1日過ごした後くらいのタイミングかな。



「あの時は、楽しかったね」

「うん」


 おれと綾は脳裏にあの時の記憶を思い出していた。

 柔らかな布団のなかで綾はおれを見上げていた。



「でも、わたしは栞のお姉ちゃんだから……わたしは栞のこと応援するって言ったから」

「きっと栞も、綾にそんなふうに難しく考えて欲しくないと思うよ。だって、綾とおれがふたりきりになってることも許してくれてるんでしょ?」

「……」

「綾が栞を想ってるのと同じくらい、栞にとっても綾は大切だよ。ふたりを見てたらよく分かる」


 おれは握った手にすこし力をこめて、不安そうな綾に視線をあわせた。

 もしかしたら綾は……みんなのお姉ちゃんだからと、ずっと遠慮してきたのだろうか。


 雫みたいな綺麗な瞳がおれを見つめ返していた。



「……おれも、父さんたちが結婚したら綾のお兄さんなんだね」


 冗談っぽく言ってみると綾は何かに気づいたようにはっとした表情をしていて。


 おれはそんな綾に「大丈夫」と言ってあげた。

 きっとこれが、綾がおれに言ってほしいことのような気がした。



「こんなふうにあれこれ考えちゃうおれも、綾と似た者同士かもしれないね。もし本当の兄妹として生まれてたら、おれも綾と手を繋いで眠ってたのかも」


 もし本当にそうだったなら、こんなふうに綾と触れあうたびに胸が高鳴ることもなかったはず。


 ……それを言うのは野暮だった。



 これから綾や栞や、みんなと家族になる。

 確かなことはそれだけだけど、おれたちにとってはそれで十分だった。



「そう、だね……」


 綾はぎゅっと、おれの指に自分の指を絡めるように握り返してくれた。

 そしておれも綾も混じりあった視線を自分から外そうとしていなかった。



 ――"だから、葵くんが手をとって仲良くなってほしいのよ"


 里香さんの言葉がまた頭の中で繰り返された。



「……これはおれの本心なんだけど」


 一度浮かんでしまった気持ちは伝えないと気が済まなかった。



「おれ、嫌いな異性とこんなことはしないよ。おれだって、せっかく綾と友達になれたんだからもっと綾と仲良くなりたい。家族として、友達として……綾のことを、もっと知りたい」

「――――」

「だから、おれがこうしてるのは義務感じゃないよ。綾みたいな……天使みたいな女の子と一緒にいられて、おれは嬉しいよ」


 おれがそう笑いかけると、綾は目を見開いたまま固まって、頬をみるみる赤らめていって。

 綾の身体が急に沸騰したように熱くなっていくのが分かった。



「そんなこと言われても、あの……葵くん」


 手を握ってるせいで向こう側を向けない綾は、おれの胸にトンと顔を預けて、自分の表情を隠してしまった。



「あんまり恥ずかしいこと、言わないでよ……」


 綾はそう言って身を悶え冴えて。

 あまりの愛おしさに思わず頭を撫でたい衝動に駆られるのをどうにか抑えていると、



「…………ありがとう。わたしも、葵くんと同じ気持ちだよ」


 かすかな声で聞こえてきた綾の言葉におれの心臓は一層跳ねたのだった。


 夏の日はすこしずつかたむき始め、おれたちがいる室内を西日がオレンジ色に染めようとしていた――
















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