#0057 綾の学校 (1)【綾視点】
わたしが葵くんのお家に初めてお邪魔した次の日の朝、わたしがクラス委員をしている3年1組の合唱練習が始まっていた。
みんなで朝9時に学校に集合。
場所はわたしたちの教室から2つ隣にある空き教室で、ちょうど使ってないアップライトピアノが置いてあった。
まずはパート毎に別れて1時間くらい練習。
そのあと全部のパートが集合して、合わせ練習をした。
合唱コンクールの本番は9月の下旬。
2年生までは合唱練習をするのは音楽の授業とか放課後だけだったけど、3年生になったら今までより難しい曲を選ばないといけなかった。
だから3年生の教室がある校舎の4階だけは、夏休みなのに普段の学校みたいな活気があった。
でも、クラスの子の多くは部活動が終わって、受験に向けて塾の夏期講習に通い出している。
だからわたしたちのクラスは、集まって練習するのは午前中だけに決めていたんだけど……
「はぁ。やっぱ男子はやる気無いよね」
お昼の帰り道、ショートカットを編みこんだ小柄な女の子――
わたしは学校から駅に向かう大通りの歩道を、クラスメイトの左沢さんと、もうひとり男の子のクラスメイトの
左沢さんはわたしたちの合唱の伴奏を、嵯峨くんは指揮をしてくれている。
そのうえ左沢さんはクラスでただひとりの合唱部で、だけど左沢さんはつまらなそうに大きく息を吐いていた。
わたしは左沢さんの言葉に内心動揺してしまって、先に口を開いたのは嵯峨くんだった。
「俺、パート練習のときベースに混ざってたけど、やっぱまだみんな恥ずかしがってる。そんなんじゃ本番が一番恥ずかしいってのに」
「ベースは千尋のおかげでまだ良いほうだよ。問題はテナーの連中。あいつらまともに練習してなかったもん」
左沢さんは不愛想に愚痴をこぼした。
嵯峨くんはわたしたちの中学の生徒会長をしていて、みんなの投票で指揮者に選ばれていた。
だけど合唱の指揮をするのは初めてで、どうしたらみんながもっと興味をもって取り組んでくれるか悩んでいるみたいだった。
そして、以前クラスの人から聞いた話だと、嵯峨くんと左沢さんは幼馴染み同士らしかった。
ふたりはわたしなんかよりもずっと気安い言葉を交わしあっている。
わたしはその後ろを歩きながら会話を静かに聞いているだけで、そこにわたしが加わる隙間はほとんどなかったのが、ツンとした寂しい気持ちにさせられた。
「
左沢さんが不満を口にした足立
先生は今日のわたしたちの練習に参加していた。
今日の全体練習で、はじめて全員で通して歌ってみたとき、ずっと腕組みをして聴いていた足立先生が真っ先に声を上げた。
――"ダメだろこんなんじゃ。声が全然聞こえないぞ"
あのぴしゃりとした低い声を思い出しただけで、わたしはまた足がビクリと震えそうだった。
足立先生の厳しい指摘に、みんなの背筋が凍りついてしまった。
――"2組の奴らと全然音量が違う。そんな声じゃホールの席まで届かないだろ"
突然わたしたちを叱りだした先生にみんなが黙ってしまって、とくに女の子たちは震えあがっていた。
せっかくみんなで練習しているのに、どうしてそんなひどいことを言うんだろう。
そんなみんなの嫌な気持ちが痛いほど肌で感じ感じられて、わたしはいたたまれなかった。
演奏がおわってみんなにアドバイスしようとしていた指揮の嵯峨くんも言葉を詰まらせていて……
そのときは結局、委員長のわたしがみんなに「これからパート練習をすれば、きっと音程も分かってくると思う」「いっしょにがんばろうよ」って励まして、嵯峨くんもわたしに賛成してくれたおかげでようやくみんなの重苦しい空気が和らいでくれた。
「先生は2組に対抗したいんだろ。確かに2組の歌声は尋常じゃなかったし、この間も実力テストの平均点が2組に負けてたってカッカしてた」
「2組の曲は元気いっぱいのお祝いの歌だからね。うちらは青春と旅立ちのセンチメンタルな歌なのに。羨むのは勝手だけど、曲のこと何も知らずに私たちに当たらないでほしい」
2組は栞がいるクラス。
栞はわたしと違ってみんなの気持ちに火をつけるのが上手だし、それに音楽は栞の独壇場だった。
今日の練習の最後のほう、2組の教室で全体合わせをしてる栞たちの声がわたしたちのほうにまで聞こえていた。
……わたしは昨日、葵くんのおうちで少しだけ歌を見てもらったとき、歌うのってこんなに気持ちいいんだって初めて思った。
けれど1組のみんなにはまだ、どこか恥ずかしがる空気が残っている。
わたしとみんなの気持ちにはギャップが存在していた。
それで、どうしても栞たちの2組と比較してしまうたびに、ぽつんとした劣等感にわたしは目を伏せるしかなかった。
「……でも、きっとみんなも上手くなりたいって思ってるんじゃないかな」
わたしの呟きに左沢さんは立ち止まって振りかえった。
それはほとんどわたしの独り言のつもりで……というより、ただわたしの心にあったお願いが口をついて出てしまっただけで。
「えっと、わたしが頑張ろうって言ったとき、みんな頷いてくれたから……」
だから左沢さんに聞こえてしまったのが少し気恥ずかしくて、わたしは視線を向けられて狼狽えてしまった。
「それは粕谷さんだからだよ」
「わたし……?」
「粕谷さんを悲しませるのはみんなの良心が痛むんだよ。美人で天使な粕谷さんにお願いされて」
左沢さんはちょっと呆れたような表情だった。
そう、なのかな。
わたしは……美人って言われたことは何回かある。けど、自分ではよく分からないよ。
「嵯峨くんも、そう思う?」
隣を歩いていた嵯峨くんにも訊いてみたけれど、左沢さんから冷たい目を向けられた嵯峨くんは「……ノーコメントで」と言うだけだった。
やっぱり、わたしにはよく分からない。
「足立先生が口出してきたとき、みんなの気持ちをおさめられたのは粕谷さんだからだよ。わたしなんて恐くてとても声出せなかったもん」
「ううん、わたしなんか」
わたしも実は、3年生になってからもう4カ月以上経っているけど、足立先生との会話はいつも恐い思いを拭えないでいた。
足立先生は白髪交じりの男の体育の先生で、あまり積極的に生徒と仲良くなろうとしないタイプの人だった。
口数も少ないうえに厳しい言葉も多くて、体が大きいこともあって、話しかけるのにはどうしても勇気が必要で……
そのことを打ち明けると、左沢さんは意外そうに驚いていた。
「やっぱり粕谷さんってすごい。恐い先生の前であんなふうに私たちを励ませるって」
「……わたしは委員長だから。誰かの気持ちをきいて、みんなに伝えてあげるのが役目だから、勇気を出してるの」
「今まで粕谷さんのこと、なんでも頼りになる委員長で、私なんか手の届かないお嬢様だって思ってた。けど、私たちとおなじ女の子なんだよね、忘れてた。……ごめんね。本当は指揮者の千尋が先生に言い返すくらいすればよかったんだけど」
「お、おれ?」
「千尋はなんでそんな役を粕谷さんに押し付けるの? 粕谷さんだって女子なんだから、そういうのは男がやってよ。って、私はそんな話がしたいんじゃなくて!」
いい? 粕谷さん――
わたしと背丈がほとんど変わらない左沢さんはわたしを見据えて、編みこんだこげ茶色の髪が夏の日差しの下で爽やかに揺れていた。
「粕谷さんはやっぱりみんなの天使だよ。わたしだって粕谷さんに助けられたことあるもん。いつも誰にでも優しい粕谷さんのことを悲しませたくないから、みんな乗り気じゃないのに集まれてるんだよ」
大通りを走り抜ける自動車の音に負けない凛とした声で、左沢さんはわたしに教えてくれた。
「……じゃあやっぱり、こんなふうに集まって練習するのって迷惑なのかな」
「もう、どうしてそうなっちゃうかな。みんな音楽を練習する習慣なんて無いから舐めてるってだけ。4部合唱の難しい曲を選んだのは自分たちなんだから、このくらいの練習して当然なんだよ」
左沢さんは俯こうとしたわたしの前で手を握ってくれて、わたしは左沢さんに勇気づけられていた。
「このクラスの男女をまとめられるのは粕谷さんしかいないんだから」
わたしはソロを引き受けたのも、夏休み中にみんなで集まることを決めたのも初めてだった。
それに、わたしはお姉ちゃんとしてみんなの支えになれていなかったんだって思い知ったから……
思えば最近ずっと、わたしは不安だったのかもしれない。
だから学校でも、ちゃんとみんなの委員長をできてるのかなって、心の片隅で思っていた。
「ありがとう、左沢さん」
わたしはそう答えていた。
ほんの少し、微笑み返しながら。
正直、まだ自信はあまりないけど。
けどわたしは、みんなのために頑張らないといけないんだと思った。
「歌のこと、わたしも最近勉強しはじめてるの」
「……そうなんだ。粕谷さんすごい」
「でも、まだ分からないことがたくさんあって、だから合唱部の左沢さんに練習のこととか教えてほしい。力を貸してほしいの」
「そんなの、言われるまでもないよ。わたしでも粕谷さんの力になれることがあるんだもん」
優しい言葉をくれる左沢さんにわたしはまた嬉しい気持ちになって、もう一度お礼を言った。
そして嵯峨くんにも。
「嵯峨くんとも協力していきたいの。わたしはソプラノで歌わないといけないから、男の子の方はどうしても、見きれないところがあって」
「――――」
ダメかな……? っておねがいしてみると、嵯峨くんはわたしを見つめたまま固まってしまっていた。
もしかして変なこと言っちゃったのかな……
わたしは急に不安になって、そのとき左沢さんから手を引っ張られた。
「粕谷さん! そんな天使オーラ全開の上目遣い男子に向けちゃダメ! 心臓止まっちゃう!」
「えっ、心臓……!?」
「もー、無自覚すぎだよ! ほら千尋も目を覚まして!」
「――っ、すまん。粕谷さん」
ようやく返事をしてくれた嵯峨くん。
なんだか額に汗がびっしりかいているけど、大丈夫かな……?
「そ、そうだな。正直俺もまだ掴めてないところはあるから、3人で知恵を出し合おう」
「だいたい千尋は指揮者なんだよ? みんなに指示だすのは千尋の役目でしょ」
「ふたりともありがとう……あとは丸山くんとも、4人で協力していこうよ」
途端に左沢さんは目を見張った。
「まさか
丸山くんはわたしたちのクラスの副委員長をしてくれてる男の子で、今回の合唱でもわたしとソロパートを分担することになっていた。
バスケットボール部に入ってて、ほかの運動部の男の子たちとも仲が良い人だった。
わたしは運動は苦手だからあまり話が合うことはないけど……、それでも委員の仕事を何度か一緒に手伝ってくれていた。
本当だったら今日はクラスの練習が終わった後、わたしと左沢さん、嵯峨くん、丸山くんの4人だけで残ってソロの練習もするはずだった。
けれど今日は丸山くんが塾があるから残れなくて、みんなもそのまま帰ることになっていた。
「テナーの人でわたしがいちばん話したことがあるのが丸山くんだから、パートリーダーも引き受けてくれないかなって。わたしがソロをやりますって言ったときも一緒にやるって言ってくれたから、きっと丸山くんもやる気はあると思うの」
左沢さんの強張ったような語気にびっくりしつつも、わたしがずっと考えていたことを付け加えると、左沢さんの眉がまたぴくりと反応した。
「あいつにやる気なんで期待しないほうがいいよ。あるのは下心だけだから。あいつ、クラス委員とかそういう仕事、2年までまったくやったことなかったの。なのに今年に入ってから急に粕谷さんに協力的になったのは、どう考えても」
「ストップストップ! なに本人の前で言ってるの!」
突然嵯峨くんが左沢さんの口を塞ぐように、わたしとの間にあわてて割って入ってきた。
そのせいで左沢さんが言いかけた最後のところが分からなかった。
「邪魔しないで千尋」
「こういうのは本人の気持ちだから、俺たちがあれこれ言っちゃダメだって」
「でも明らかに釣り合ってないよ。粕谷さんと、あんな馬鹿」
わたしに聞こえない声で言い合っているけれど……
「ごめん委員長! 今の話はぜんぶ聞かなかったことにして!」
「え、でも……」
「頼む!」
「う、うん……。わかった」
左沢さんを背後に追いやった嵯峨くんに手を合わせてお願いされ、わたしはなんだか分からないうちに承諾してしまった。
「すまん、ありがとう委員長! っていうか委員長、いつも俺たちと反対方向に帰ってるのに今日はこっちなんだな」
唐突に指摘されて今度はわたしがギクリとする番だった。
そう、今日のわたしは駅に向かっていた。
本当なら、家がある反対の方向――たしか丸山くんの家もある方向に一緒に帰っていたはずで、実際、丸山くんからも一緒にお昼食べに行こうって誘われたのを断ってここまで来ちゃったのだった。
「うん。……ちょっと駅で用事なの」
本当は、用事があるのは駅から電車に乗っていった先で……、今日も葵くんのおうちに行くためだった。
しかも今日はお母さんも栞もいなくて、わたしひとり。
ふたりにそれを言うのはなんだか照れくさくて秘密にしてしまったけれど、わたしは心の中ではどこか浮足立ってしまっていた。
……わたしはたぶん、葵くんと会うのが楽しみで、ドキドキしていた。
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