#0063 栞は、わたし



 歌詞掲載にあたらないよう細心の注意を払って執筆しています。

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 その日、いつもの電車を降りた綾の表情はすこしだけ翳っているように見えた。



「ちょっと疲れてる?」

「……ううん、平気」


 バスで隣同士に座った時に声をかけてみると、綾は華奢な笑みを返すだけだった。

 けれど膝の上に学校の鞄をのせた綾は、目の前のぼんやりと見つめながら小さく息をついていた。


 おれはそれを見て、今日は綾に休んでてもらおうと決めたのだった。



 今日ははいつも以上に厳しい暑さで、正直おれもすこし参ってしまっていたのだ。


 綾は最近、毎日おれのところにきている。

 1日くらいはゆっくり過ごしても良いだろう。


 いつもは綾に手伝ってもらう昼食の準備も今日はそうめんを茹でるだけにして、ふたりぶんを和室へ持っていくと、待っていてくれた綾はすこし気の抜けた様子だった。



 風鈴の心地よい音が夏のそよ風にのって聞こえるふたりだけの和室で、おれは食べすすめる綾に何気ないふうに言ってみた。



「今日は歌うのはやめよっか」


 綾は隙だらけの表情でおれを見つめて、悲しそうに目を潤ませはじめた。

 おれは慌てて弁解する羽目になってしまった。



「綾と歌うのが嫌いになったとか、全然そういう訳じゃないよ、もちろん。今日は歌詞について、綾とすこし考えてみようと思って」

「……歌詞?」


 最近の綾は音程も安定するようになって、透明で柔らかな声はそのままにだんだんと声量も出るようになっていた。

 まるで閉じていた翼をゆっくりと広げるような上達だった。


 この調子ならきっと、ホールで聴いた人がはっとするようなソロが歌えるはずだ。

 だからこそ、歌のイメージをもっと明確にしたかった。



「綾は『言葉にすれば』の歌詞、覚えてる?」


 あえて唐突に綾に問うてみた。

 ギク、という擬音が綾の表情から聞こえてくるようでちょっとおかしかった。



「……たぶん覚えてる、よ?」

「いま言える?」



 さらに意地悪を言ってみると、綾は狼狽えながら歌詞を諳んじ始めた。

 掴みかけていたそうめんが箸の間をするりと抜けてつゆの中に落ちていったところでおれは止めてあげた。



「突然ごめんね。でも、音符の並びと同じくらい歌詞も大事な歌の要素なんだ。だから、今日は一緒に考えようよ。そしたら自然と、すらすら言えるようになると思うよ」


 おれの言葉に、綾はなんだか子供みたいに佇まいを正した。

 微笑ましいほどに可愛らしかったのは言うまでもない。





 歌には大抵の場合歌詞が存在する。

 ……当たり前かもしれないけれど。


 日本語の短い文章センテンスと譜面に置かれた音符の並びは、作者だけが見聞きして感じる世界を、たった1次元の音程の上下に投影したものだ。


 おれたち奏者は、抽象化の過程であらゆる情報が失われ、もはや作者の手からも離れた世界地図――1枚の楽譜をもとに何かを表現するしかない。



 クラシック音楽というのはつくづく勝手な商売だと思う。

 けれど、そういうものなのだ。

 おれは綾に、音楽のたまらなく奥深く、想像力を掻き立てられるところを教えたかったのだった。




 食べ終わった食器を簡単に片づけ、いつものピアノ部屋に集まる。

 けれど、いつもは歌いやすいTシャツか体育着に着替える綾は、今日は変わらず制服のままだ。


 おれと綾はピアノの前にあるソファに隣どうし腰を下ろして、ひとつのタブレットをふたりでシェアしあう。



「歌詞のイメージをメモするから、一緒に考えていこう。あとで印刷して綾にあげるよ」


 ふたりで肩をくっつけあいながら、画面の中の楽譜と歌詞を見ていった。

 おれは歌詞が書かれたページにペンシルを走らせて、赤インクで左上に日付を書く。


 すぐそばで綾の匂いがして、綾は俯きつつも嬉しそうにはにかんで、コテンと肩を寄せてくれていた。




 ――『言葉にすれば』。


 そのタイトルの通り、「言葉」がこの曲のテーマだ。

 しかし具体的にどんな言葉なのか、詞の中では語られない。


 だから今からおれたちは、この曲の物語を自分の中で再構築する。

 そうすればそれがどんな「言葉」なのか……そして綾の歌うソロがどんな意味を持っているのかが分かるようになるはずだ。



「綾の一番好きなところから考えてみようよ。綾の心に残ってる歌詞ってある?」


 綾はすこしの間逡巡してから、ためらいがちにその綺麗な指である一節を指さした。

 それは曲の半ばのある歌詞だった。


 それぞれの願いを胸に抱きながら相手と想いあっていて、もしかしてその夢の途中すぐ手を伸ばせば会える距離にいたりして、けれどそのことに気づけない……それでも、夢を追いかけている相手の姿をただ思い浮かべている。


 さらに互いの人生を夜空の星になぞらえていて、とてもセンチメンタルな場面だ。



「ちょっぴり切ないよね」

「うん……」

「でも、夢を追いかけてる相手を思い浮かべてるんだよ」


 おれと綾はそんな言葉を交わしつつ、改めて曲のはじめから歌詞をたどりはじめた。



 無伴奏のヴォカリーズで始まる曲の冒頭。

 静かに紡ぎ出される断片的な伴奏にのせて、綾が歌う印象的なソロパート。


 「言葉」「未来」「夢」――9小節のなかにはこれから何度も登場する言葉があって、その意味するところは……まだ分からない。


 そしてもう一度ヴォカリーズが今度は高らかに歌われ、伴奏もより一層力強くなっている。


 

「ここまでが曲のイントロ。かっこいいよね」


 その後いったん小休止フェルマータを経て、再始動した女声の斉唱ユニゾンで歌われるのは別れの場面だ。

 歌詞の主人公は涙を流しながらその名前を呼んで、相手は旅立ってしまう。



「相手はどこに行こうとしてると思う」

「……どこ、なんだろう」

「歌詞には直接書いてないないけど、でも残されてひとりぼっちになった『わたし』との対比って考えられないかな?」


 綾とふたりでそのイメージを出し合う。


 ――群衆、喧噪、都会、社会。

 つまり大人になってゆくということだった。



「この曲って、全国の合唱コンクールの、高校生の課題曲として作られたんだ。つまり高校生に歌ってもらいたかった曲なんだよ」


 きっと当時歌った人の中には、この大会が終わったら部活を引退してしまって、卒業したら同時に地元を離れて就職、なんて高校生もきっと多かったはず。

 合唱をやめてしまう人もいたかもしれない。


 曲が発表されたのは2007年。

 スマートフォンもまだ無かった頃だ。


 一度離れてしまった相手を見つけ出して再会することは、今よりずっと難しかったんだろうと思う。



 そして、時の流れは否応なくおれたちに変化を強いるのだ。


 歌詞の中の「わたし」は流されまいと相手の手を握っている。

 けれど、いつかはその強大な力になすすべなく押し流されてしまう。

 大切な人が離れていってしまうのだ。



「綾にもそういう相手っていないかな。いつか会えなくなるのが寂しい人」

「うん……真っ先に思い浮かんだのは、栞なの」

「……栞、家を出ていくの?」

「あっ、そういうことじゃなくてね」


 思わずおれが訊き返すと綾はあわてたように言葉を繋いだ。



「栞はわたしの大切な家族だし……歌詞でも『僕』って言ってるから」


 実際には歌詞のなかで「僕」という言葉を使っているのは歌い手自身のことなんだけど、おれはあえて指摘しないであげた。


 それよりも、綾はふと何かに気づいたように表情を変えていた。



「……栞、ピアニストになるためには音大とか、行かなきゃいけないって言ってた。だからわたし、栞のことだって思ったのかな」


 綾は寂しそうに睫を伏せた。


 ……確かに音大や、あるいは海外の留学先で学ぶことはピアニストを目指す常道だ。

 栞にはその道に進むための実力は、既に備わっているだろう。



 けれどそれは、生まれてからずっと一緒に過ごしてきた綾と栞が、夢のために離れ離れになるということだ。

 その孤独は、この曲がもっている感情に近いかもしれない。



「じゃあ、綾に質問」


 口を閉ざした綾におれはつとめて優しい声で問いかけた。



「ここで手を握っているのは、『わたし』と『あなた』どっちだと思う?」

「えっ、それは……」


 綾はもういちど歌詞に視線をむけて、答えを言いよどんだ。



「実はここの歌詞、主語が明示されてないんだ。つまり手を握ってるのは『わたし』なのか『あなた』なのか……どっちともとれるんだよ。もしかしたら相手の方が自分の手を掴んでいて、別れに逆らおうとしているのかもしれない」


 綾は歌詞をみつめたまま、おれの言葉に耳を傾けていた。

 おれはそんな綾に自然と笑みがこぼれる。



「でも、手をつなぐのって、どっちかが一方的に相手の手首を掴んでるわけじゃないと思うんだ」


 手はふたりで握りあうものだ。

 だからきっとここの歌詞は、ふたりの想いを確かめあうために、お別れする寸前で手を握り合っている……


 別れるのが辛くて惜しい気持ちの象徴として。



「そんな場面だったら素敵じゃない?」

「うん……わたしも、そう思う」

「きっと栞も、未来へ行くのを恐れているんだ。誰だって変わろうとするのは、痛みを伴うから」


 綾は何かを掴んだような表情でおれを見つめ返してくれた。

 おれと綾はそのひとつの光景を脳裏にうかべて、大切な人を想うという尊い感情を共有していたのだった。



 そして、冒頭のソロで綾が歌った歌詞とメロディが、今度は全員分の厚いハーモニーでふたたび登場する。

 ようやくここで明らかになるのは、「言葉」というのが離れ離れのふたり――綾と栞を繋ぐ夢、その合言葉であるということだった。


 ふたりはあてのない人生を生きるしかできなくて、その交わした夢を叶えるために、いつか逢える日を信じている。



「なんだか悲しいね。こんな歌詞だったんだ……」


 綾がぽつりと呟いた。

 視線を落としていたのは、好きだと言っていた歌詞だった。


 もしかしたら綾の場合、ふと思い出すのは言語化された約束なんかではないのかもしれない。

 それこそ言葉にもできない絆が、綾と栞の間にはあるはずだった。


 ……あるいは記憶に刻まれるのは、栞の夢の象徴でもある、輝かしいピアノの音色だろうか。


 おれは何も言わずに、画面のページを切り替えた。


 ふと一瞬、譜面上では4小節のあいだだけピアノの伴奏が沈黙すると、消え入りそうなコーラスが永い未来の人生を夜空に輝く星々になぞらえて歌い出す。

 そして夜空が明けると曲はいよいよ終わりに差し掛かっていた。


 男声と女声がそれぞれ3部に別れて互いに掛け合いながら、いつか訪れる再会の機会を歌い上げている。



「――さて、いちばんの問題はここだね」


 おれがその1行を指さす。


 綾が息を呑むのがはっきりとわかった。

 その視線は突如として放り込まれたある歌詞に注がれている。



「栞が、未来のわたし……?」


 そう。


 いままでこの曲の主人公が何度も想い、焦がれてきた「あなた」はいつかの自分自身だと言っているのだ。


 それがどういうことなのか、その答えを与えるための猶予はもはや曲の中には残っていない。

 あとは、未来への決意に満ちた曲の終結があるだけだ。


 つまり、自分で考えろということだった。



「どういうことだろう……わたしの歌だったってこと、なのかな……」


 ここまで綾は、歌詞に登場する2人の関係を自分と栞になぞらえてきた。

 そのイメージが根底からひっくり返されそうになっていた。



「歌詞の解釈を誘導しておいてなんだけど、去年おれの学校でこの曲を歌ったときは、みんなで話し合ってそういう解釈で決まったよ。未来へ旅立とうとしている自分の背中を、もうひとりの今の自分が見つめてる歌っていう」

「じゃあ……」

「だけど、必ずしもそうじゃないと思うんだ」


 おれは、綾が栞を――家族を想う気持ちが本当に綺麗だって知っていた。

 だからふたりで作ってきたこの曲の情景を崩してしまうのは勿体ないと思った。



「たとえば、未来へと進もうとしてる栞の姿を、綾が自分に重ねているって考えてられないかな」

「……」

「解釈ってひとつじゃないんだ」


 それが音楽の醍醐味でもある。

 音楽なんて結局は音の並び過ぎなくて、そこに物語を見出すのはいつも聴き手のイマジネーションだ。



 栞だって綾やみんなと別れて別の道に進むのは、きっと迷いがあるはず。

 だからその間際、栞は綾と手をとりあっている。


 それがいつか未来の綾の姿にもなる。



「――もし何か思い当たるような答えが見つかれば、それは綾にとっての正当な解釈だよ。どう?」


 そんなふうに提案してみる。

 綾は視線を虚空にさまよわせながらしばし考え込んでしまった。



「……分からないよ。そんなこと考えたこと無かったから」


 やがて綾は力なさげに首を振った。


 この先は、おれから綾に手助けできることは無い。

 曲じゃなくて綾自身を見つめなおすってことだからだ。



「少し考えてみてもいい? なにか見つかったら、葵くんにも教えるね」

「……綾の内面にかかわることだから、無理に教えてくれなくても」

「ううん」


 綾はふるふると首を振った。



「葵くんに歌詞のこと、教えてもらったから。今度はわたしが教えたいの」


 柔らかな笑みを浮かべてまっすぐに伝えてくれた。

 おれはまた一歩、綾の心に近づけた気がした。



「……じゃあ、最後にもうひとつ質問」


 おれはまたふいに生まれた幸せな胸の高鳴りを、悪戯っぽい表情に隠すことにした。



「おれが綾と交わした『約束』って、覚えてる?」

「……約束?」

「ばあちゃんの話をした時」

「……――あっ」


 ――"無理しないで"



「今日の綾、やっぱりちょっと疲れてるよ。今日くらいは休憩してもいいんじゃないかな」


 綾は恥ずかしそうにコクリと頷いた。

 聡明な瞳で見つめられる。


 こうして一緒に歌詞を考えたのも、綾を休ませるためだっていうことに気づいてくれたみたいだった。



「ありがとう、葵くん」

「ん」


 頬を染めた綾の表情に見惚れながら、おれはタブレットのディスプレイを落としたのだった。





 綾がその意味を考えてみると言ってくれた、ひとつの宿題。


 ――"栞は、未来の綾"


 しかし、綾が出した結論を聞かせてもらう機会はついに訪れなかったのだった。



 翌日。

 夏休み最後の金曜日。


 おれの中学の合唱練習がたまたま休みになっていたその日、おれのスマートフォンが受信した綾からのメッセージが、事態の急変を告げていた。




綾『ごめんなさい。もう葵くんのおうちにいけなくなっちゃったの』
















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 いつもお読みいただきありがとうございます。


 今日4/19で第1話の投稿からちょうど1年となりました。


 1年も書いては投稿してを繰り返せばさすがに少しは勝手が分かるようになるものでして、はじめの頃に書いていた話を読み返すとただただ恥ずかしいばかりです。


 非常にたくさんの人に読んでいただけたことで、人生初めてのWeb小説投稿をここまで続けることができました。

 本当に幸せに感じています。



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