#0039 彷徨の果てにあるもの (3)【栞視点】



「あ、葵……っ!」


 ボクは混乱して言葉を失っていた。


 たしかに今、どのホテルも満室ばかりで予約が全然とれていない。けど……



 だけど……ダブルだよ? ツインじゃないんだよ!?

 そりゃボクだって、葵と一緒に……っていうのはずっと思い描いていたけど。けど!



 葵……ボクをどうするつもりなんだ。

 それとも、葵はボクと隣同士で眠ることくらいなんてことないってことなの?



 そんなぐちゃぐちゃの思考は言葉にできなかった。


 そのとき葵はボクに向き直って、まっすぐにボクを見つめる……

 葵と目があって胸がドキリとした。



「……栞。栞はいまとった部屋で休んで」



 葵はボクに、まるで子供に接するみたいに優しく言い聞かせる。


 ……あれ?

 ボクは葵の真意をとっさに理解できなかった。



「ねえ。葵は……?」

「おれは栞とは別のところで休むよ。別のホテルがとれたらそこで。とれなかったら外で一晩すごすかな」

「それって……」


 ボクは一転青ざめる。

 ボクは温かいベッドで休むのに、葵が外で一晩すごすなんて。


 そんなの耐えられなかった。



「夏だから外で凍えることもないし。大丈夫だよ」

「ボクも葵と一緒に……!」

「栞にそんなことさせられないよ。別のホテルでおれの分の部屋が見つかったらそっちで休むから、おれは大丈夫だよ」


 それじゃここで葵とお別れってこと……?


 そんな……!



「せっかく今部屋がひとつとれたんだから、栞はそこで」

「ボ、ボクをひとりにしないで! 葵と一緒にいさせてよ!」


 ……って、ボクは葵に何をいってるんだ!?

 しかも無意識に葵の手を握っているし!


 だけど撤回することなんてできなかった。



 ――そのくらい、ボクは葵と別れたくなかったんだ。



「知らない街でひとりなんて心細いし、葵だけベッドで寝られないかもしれないのもボクは耐えられるわけがないよ」

「栞……」

「ダメかな……?」


 ボクは葵を見上げてお願いした。

 必死な懇願だった。


 葵がダメって言ったらボクはどうすればいいんだろう……

 そんな不安のまま葵のことを見つめた。



「……わかった。栞と一緒にいるよ」


 なんとかボクの想いは通じたみたいで。


 よかった……

 ボクはドキドキしたまま、どこかホッとした思いになった。



「ありがとう、葵」

「……ごめん。おれ、栞の気持ちを聞かずに決めようとしてたね」

「ううん、葵の気持ち、ちゃんとボクに伝わってるよ」



 ボクは自然と気づいていた。


 葵は、ずっと塞ぎこんでいたボクのことをとても大切に接してくれていたって。



 こんな状況になってからも葵はずっと気丈で、落ち込んでしまったボクを励ましてくれた。

 葵がボクにかけた言葉……いつもと変わらない葵の声に、ボクの心は知らず知らずに安心して、救われていたのだ。


 そして、ようやくホテルが見つかった今も。

 当たり前のようにボクにベッドを明け渡して、自分は外で過ごすなんて。



 葵にとっては些細なことかもしれないけれど。

 その優しさにボクは胸の中がじーんと温かくなっていった。



「葵、ありがとう」

「おれはなにもしてないよ」

「ううん、ボクのことずっと気にしてくれてたんだね」

「……」

「ボクのほうこそごめん。さっきは葵に返事ができなくて……」



 葵、とても優しい。


 さっきボクは、葵の本心を知るのが怖くなってしまった。

 けれど葵は心からボクのことを想って、気遣ってくれていた。



 ――ボクの好きな人は、こんなに優しいんだ。

 あたたかい幸せで胸が満たされていくみたいだった。



 そしてボクは、葵のことがどうしようもなく好きになっていた。


 もっと葵のそばにいたい。

 葵の優しさにもっと触れていたい。


 もっと葵に甘えたい。



 その気持ちはボクの中でこみ上げて、溢れていって――




「ねえ葵……さっきのお部屋にいっしょに泊まるのはダメ、かな」



 気づいたらボクは言ってしまっていた。

 ……紛れもないボクの意思、ボクの気持ちだった。



「さっきの部屋って、あのダブルの?」

「……うん」

「栞、本気……?」


 さすがに葵は驚いている。



 当然だ。


 ――ふたりきりで、同じ部屋で、同じベッドにくるまって、隣同士で眠りたい。

 ボクが言ってるのはそういうことで。


 とんでもないことを言ってるのは分かっている。

 ボクにとってもさっきまで、そんなこと恥ずかしすぎてありえないはずだった。



 でも、今……

 ボクの中で葵への想いがどんどん大きくなっていて。


 いつの間にかそうしたいって思っていたんだ。



 葵と一緒に過ごしたい。

 もっと近くにいたい。



 その気持ちで葵を見つめていた。



 トクン、と胸が鳴った。



「今さら、キャンセルできないんだよね?」

「それは……」

「きっと大丈夫だよ。こんな状況だし仕方ないよ」

「でも、栞……」

「……もっと葵のそばにいたい。これがボクのほんとうの気持ちなんだ」


 葵とボクは自然と見つめあったままだった。

 気づくとボクはとてもドキドキしていた。



 ボクは握っている葵の手の甲をそっと撫でた。



 大きい葵の手。温かい手。


 ボクのために傘を持っていてくれた手。

 ……4年前、ボクのことを抱きしめてくれた手だ。



 くすぐったくてすべすべで、心地いい感触だった。



 ……さっき、傘の中でも同じことをしていたのを思い出す。


 葵はボクがそばにいて触れることを許してくれていた。

 なにより嬉しかった。




 一方、そんな葵はボクのお願いにとても困ってしまっていて。


 ……そうだよね。

 いきなりそんなこと言われてもすぐには承諾できないのが葵だ。



「……じゃあ、こうしよう。栞はベッドに寝て、おれは床、いやホテルのロビーで」

「やっぱり葵はボクの気持ちが分かってない。それじゃさっきと同じだよ」

「でも」

「葵のわからずや。そんな意地悪言うなら、ボクも床で眠るよ?」

「そんなこと……」


 このままだと、葵もボクも床で寝てベッドは無人になってしまう。

 そんなおかしな状況にならないためには一緒にに寝てしまうしかないということをボクが要求したせいで、葵は困ってしまっていた。


 ……よく見ると葵は頬が赤く染まっていた。



「……栞は、いいの?」


 やがて葵からぽつりと尋ねてくる。

 つとめて冷静で、優しい声に聞こえた。



「栞、おれのこと聖人君子だと思ってるかもしれないけど……おれだって男なんだよ? 栞が隣で寝てたら、欲望が抑えられないかもしれない」


 優しい口調の中にあるはっきりとした警告。

 ……だけどそれは、ボクといると葵もドキドキするっていう裏返しじゃないか。


 葵も同じなんだ。

 そのこと気づいたら、ボクはきゅーんってしてしまって。



 その時。




「栞……自分がどれほど可愛いか、自覚してないでしょ」

「――――」



 あまりにもまっすぐな言葉にボクは鼓動が跳ねた。


 ドキドキが止められない。

 葵から目が離せない。



 葵の言葉が嬉しすぎるんだ。



「栞みたいな、特別可愛い女の子が隣で無防備に寝てたら、おれの理性だって100%もつ保証はできないよ」

「……葵、どこまでボクのことをドキドキさせれば気が済むんだ」



 葵はきっとボクのために忠告してくれている。

 けれど、逆効果だった。



「……ボクは葵のことを聖人君子って思ったことは無いよ。葵はとても意地悪な男の子だ」

「えっと……」

「意地悪なことばかりじゃないか。不意打ちでボクに見惚れたなんて言ったり、飲みかけのペットボトル押し付けてきたり、今だって。さんざん意地悪して、優しくして、ボクをこんなにドキドキさせて。それで、肝心なときにボクをひとりにしようなんて葵は無責任だよ」


 ボクはこれまでの溜まっていた気持ちを葵にぶつけていた。

 葵は呆気にとられてボクの反論を聞いている。



「ボクだって女の子なんだよ? ボクにだって欲求くらい……」

「…………」

「……なんてことをボクに言わせるんだ。葵のバカ。えっち」



 葵はボクから目を離せずにいる。

 見つめあううちにボクは自分が言う台詞に耐えきれなくなって、思わず葵の胸の中に顔をうずめた。



「し、栞……っ?」


 葵はとても驚いてボクを受け止める。

 ボクは体中がとても熱かった。


 葵の早い鼓動を感じた。

 ボクと同じだった。



「……葵だから」


 葵の腕の中、とても落ち着く。

 あの時と同じだった。



「葵にだからボクはこんなこと言ってるんだ。……葵は、ボクと一緒にいるのはイヤ?」

「まって栞、それは反則だよ……」

「ねえ葵。ボクは今日、ずっと葵といたいんだ。ダメ?」



 葵に抱きついたまま、上目遣いでおねだりすると、



「……わかった。今日はずっと一緒にいよう、栞」


 そうしてボクは葵を陥落させてしまったのだった。

 葵はボクを優しく抱きしめ返してくれた。


 ……ちょっと遠い目をして覚悟を決めていたのがちらと目に映った。



「ん……ありがとう、葵」


 ボクはうれしくて、しばらく葵の胸の中で甘えていた。

 葵もボクも、ドキドキはぜんぜん収まらなかった。










 そのあとボクと葵は買い物と夕食を済ませ、ホテルにチェックインした。

 そして、いまボクはホテルの展望浴場にいた。



「ふぅ……」


 大きなヒノキのお風呂に体を沈めて、今日の疲れを癒していた。


 客室が満室という割には人はまばらだった。

 たぶんコンサートが終わってくる宿泊客はまだホテルに着いていないんだろう。



 おかげでボクは温泉の広い浴槽を独占して、のびのびと手足を伸ばすことができた。

 温泉はボクの体を芯から温めて、とても心地よかった。



 ……湯舟の中でふと、今日のことを思い出す。


 本当にいろんなことがあった。

 目まぐるしい1日だった。



 始発の電車で、葵とたくさんお話をして。

 お寺の山登り、おいしいお蕎麦、昼間のひととき、美術館、雨の中の相合傘。



 ……そして、山形駅に戻ってきてからの波瀾。



「……」


 湯舟のお湯を手ですくって、見つめる。


 今、こうして無事にホテルにたどり着いてお風呂に入っている。

 温泉の感触と匂いは、今の現実だ。



 ……あの時は本当に、どうなるかと思った。

 帰りの電車が動かなくなって、どこかに宿をとると決めても、ぜんぜん予約がとれなくて。


 行き場を失くしたボクはとてもみじめで、ひどく落ち込んでしまった。

 葵の励ましの言葉もぜんぜん響かなくなるくらい、元気がなくなって。


 その時のことを思い出すと、今こうしているのが信じられない。

 なんだか幻みたいに思えてくるのだ。



 そして、6回目の電話でようやく1部屋だけ確保できて……


 それが今ボクがいるホテルだ。




「そうだ、ボクは今から……」



 今夜、葵と一緒に休む。

 一緒の部屋、一緒のベッドの中で。


 ボクが眠るすぐ隣に、葵がいるんだ……



 ボクの胸は静かに鳴り始める。



 あの時ボクは、葵が好きっていう気持ちが溢れてしまっていて。

 葵にずっと寄り添ってたい気持ちが自然と言葉に出ていた。


 葵は困っていた。

 けれどボクはちょっと熱に浮かされたみたいになって、葵に大胆にねだってしまったのだ。



 今思い返すと、すごく恥ずかしい……




 ボクはのぼせそうな頬に両手をあてる。


 ニマニマが止められなかった。

 恥ずかしいのに、ボクの表情は悦んでいた。



 だって、葵の台詞が……




"……おれだって男なんだよ?"

"栞が隣で寝てたら、おれだって欲望は抑えられないよ?"


"栞……自分がどれほど可愛いか、自覚してないでしょ"



 ああ、どうしよう。


 嬉しい気持ちが溢れてきてしまう。

 葵がボクのことを、ちゃんと女の子として意識してくれてる。

 そればかりか、特別可愛いって言ってくれた……



 頬の緩みが止まらない。

 思い出しただけでキュンってしてしまった。



 こ、こんな表情で葵と会えないよ。

 まるで、本能が抑えられないみたいじゃないか……



 ボクは思わず自分をぎゅっと抱きしめた。

 そしてボクの視線は、自然と湯舟の中のカラダを映していた。



 ……一応、まだ成長してる。


 けど、萌に比べたら小ぶりだ。

 妹に負けてるなんて悲しい。



 葵は、どのくらいが好きなのかな……



 そこまで考えて、ボクは一旦湯舟から上がることにした。

 完全にのぼせていた。






「はぁ……」


 ため息をつく。

 ボクは洗い場でぬるいシャワーを浴びて体を洗っていた。



 自分自身へのため息だった。


 ボクはさっき、葵といっしょに夜を過ごしたくて、あんなに大胆な甘え方もした。

 けれど、ボクの気持ちの一番大事な部分はまだ言えていなかった。



 葵のことが好き。



 4年間、ずっと葵のことだけを想ってきた。

 その気持ちをまだ葵に伝えていなかった。



 もし万一、このあと本当に……すごいことがあったとしても。

 ちゃんとケジメはつけないと。


 それでなくても、元々この旅行でボクは葵に想いを伝えるはずだったんだ。



 ……ちゃんと、言わないと。


 葵は焦らなくても良いよって言ってたけど、あまり待たせるのはダメだ。

 それに、はやくこの不安定な気持ちを決着させたいんだ。



 ボクは決心する。


 ――今夜、あるいは明日の朝。

 いちばん落ち着いて、葵と一緒にすごせる時間。



 ホテルをチェックアウトするまでに、葵に気持ちを伝えよう。


 今度こそ。

 4年間のボクの恋心を素直に、まっすぐ。


 そうすれば葵はきっと、ボクがずっとそばにいることを許してくれる。

 もっと葵と仲良くなれる。


 そんな気がした。



 そうしてボクは展望風呂を後にしたのだった。






 あ、そういえばせっかくの展望をあまり見れなかったな。

 でももう夜だし、まあいいか……


 そんなことをぼんやりと考えながら、女湯の出口をでたところで――



「……おかえり、栞」


 ボクのことを待っていてくれた葵は、ほがらかな笑顔でボクに手を振っていた。


 濡れた髪の毛、ゆったりした寝間着姿、穏やかな表情……


 な、なんてカッコいいんだ。

 一目見て心臓が止まった。


 そんなの反則だよ……!!










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