#0027 喝采 (7)【栞視点】





 ――ベートーヴェン ピアノソナタ第14番 作品オーパス27-2 嬰ハ短調ツィスモール 「月光」。

 第3楽章 Presto agitato急速に、激しくせきたてて 4分の4拍子。



 急速な16分音符で上昇してゆく分散和音アルペジオ

 行きつく先は2発の激烈な和音。


 嬰ハ短調の第3楽章。

 pピアノで始まる第1主題は凍てつくような恐怖、切り裂くような鋭さに支配されている。



 上昇するパッセージを繰り返すたびに狂気は押さえきれなくなってゆき、やがて絶叫が訪れる。



 ボクは一心不乱に指を動かし続けた。

 緊張で震える指に鞭を打つ思いで、1音1音に意識をこめた。



 指が覚えているのに任せて弾くのではなくて、ボク自身の意思を持って音楽を奏でる。

 その一心だった。



 絶え間なく鳴り続ける16分音符は緊張感を作りあげていた。




 月光ソナタを締めくくる第3楽章。

 唯一ソナタ形式をとる楽章だ。



 対照的な2つの主題テーマを対比させる提示部、2つの主題をもとに波瀾が巻き起こる展開部、そして再度2つのテーマを示して緊張を解消する再現部。

 これがソナタ形式の基本構成だ。



 急速なソナタ形式の楽章は古典派ソナタの中核を担う存在で、ふつうは第1楽章でソナタの「顔」として機能する。


 しかし、この月光ソナタはそれを欠いている。

 いきなり静謐な第1楽章からはじまるのだ。

 それを引き継いだ第2楽章は、穏やかな舞踏風の楽章だった。



 そして第3楽章。

 突如として始まる冷たくも激しい音楽は、異様な緊張感を放っている。



 ソナタ形式の強固な構成の中で叫ばれる、病的なまでに激しい感情。

 これこそが、ベートーヴェンが作り出した新しい音楽だった。



 絶え間ない16分音符はやがて左手の伴奏へと移り変わり、旋律的な第2主題が提示される。

 しかしこの第2主題も短調。鬱屈した表情はますます曇ってゆくのだ。



 悲しく歌うような旋律の背後、低音で絶えず鳴り続ける16分音符のトレモロが嵐のような焦燥感を煽り続ける。


 緊迫感に支配されていた。




 4年前のコンクールで披露し、最後まで弾くことのできなかった曲。

 ボクは今ふたたび、まったく同じ音符を辿っていた。



 冒頭を弾き始めてから、ボクはおぞましい感情に駆られて総毛立つ思いだった。



 あの時の失敗のトラウマは消し去ったと思っていた。

 だけど、あの黒い影がボクに忍び寄ってくる気配があるのだ。


 ボクは失敗を恐れすぎているのかもしれない。

 だけど、心は思い通りにならなかった。



 ボクは緊張と恐怖で、平常心を失い始めていた。


 この緊張感に満ちた音楽に呑み込まれてしまいそうだった。

 ボクの心臓の鼓動が、曲のテンポとちぐはぐなリズムで脈打っているのが頭に響く。




 ……大丈夫。


 呼吸が速くなってゆくボクは、心の中で自分に言い聞かせていた。



 今、4年前と同じ曲を弾いている。

 でも、弾いているボクは4年前とは違うんだ。


 ボクは成長したんだ。





 ――そもそも、ピアノをはじめたきっかけが何だったのか、ボクはまったく覚えていない。

 母さんにピアノを教わり始めたのは3歳の時だ。


 綾といっしょに母さんが弾く曲を聴くのが大好きだったのは覚えている。



 一番はじめは4姉妹みんなで母さんに教わっていた。

 しかし、飽きっぽい萌と昔から体調を崩しがちだった麗はすぐにやめてしまった。



 一方、綾とボクは長く続けられた。


 何事も負けず嫌いで没頭しがちなボクは、綾よりも上達が早かった。

 気が付いたら綾が練習するはずだった時間を奪ってしまっていたこともあった。


 綾は笑って許してくれた。




 そして小学5年生になったボク。


 その頃になると綾もやめてしまっていた。

 けれどボクは弾くのが楽しかった。


 つまらない練習曲でも、努力して弾けるようになるのが楽しかったのだ。

 ゲームを攻略してゆく感覚だ。



 無我夢中で、がむしゃらだった。



 母さんはピアノ教室を開いているわけではなく、ボクたち姉妹に個人的に手ほどきをしているだけだ。

 ボクはそれまでコンクールはおろか、発表会にも出たことがなかった。

 そんな機会なかったから。



 上達したボクは、誰かの前でピアノを披露したいと母さんに言ってみたのだ。


 それで、はじめてコンクールというものに出てみることになった。

 母さんもボクに期待をしてくれて、レッスンにも熱が入った。

 ボクははじめて、人に聴かせるためにピアノを練習したのだ。



 ……その結果が、あのザマだ。

 最後まで弾くことすらできなかった。


 ボクは悔しかった。

 涙が止まらなかった。

 葵が慰めてくれたおかげでなんとか前を向くことができたけど、それでもボクは情けなかった。




 こうして弾いていると、嫌でもあの時の気持ちが蘇ってくる。

 突然頭が真っ白になって、指が動かなくなってしまう恐怖だ……




 提示部の後半、冒頭から続いていた16分音符がついに途切れる。

 そして突如として8分音符のスタッカートでリズムを刻むようになる。


 こま切れのフレーズははじめはpピアノで演奏されるのだけど、異様な緊張感を孕んでいる。

 そして2度目はpからcresc.クレッシェンドして一気にfフォルテになる。

 荒れ狂うような精神の叫びだ。




 ……提示部は問題なく弾きとおせた。

 暗譜も途切れていない。


 あとは展開部と再現部、そして終結部コーダを弾けば終わりだ。

 4分くらい耐えればおしまいだ。



 大丈夫、大丈夫……

 ボクは自分に言い聞かせながら、展開部へと静かに足を踏み入れていった。





 ――今思い返せば、4年前のボクは周りが見えていなかった。


 ピアノを弾くことが楽しいけど、そこから先の意思がボクにはなかったのだ。


 母さんに教わった通りに弾く。

 指が覚えているのにまかせて弾く。



 とにかく無我夢中で、自分で考えて弾いていたわけじゃなかった。

 曲に弾かされていたのだ。


 だから、普段の練習とはまったく違うステージ上で、緊張に呑まれてしまったのだ。




 あれから4年、ボクは成長した。


 ボクは周りが見えるようになった。


 客席にいるみんなが、ボクの出す音を聴いている。

 ボクの演奏に期待しているのが分かる。

 それをひとりで背負うのはとても緊張するものだと、改めて気づいた。



 ボクは、自分が出した音が聞こえるようになった。

 ボクがただがむしゃらに弾いていたそれは、ひどく音のバランスが悪かったことが分かった。

 そして今は、ボクが弾きたい音楽がある。



 ……そうだ。

 ボクは弾きたい音楽があって今この場にいるんだ。



 何を「耐える」なんて考えていたんだ、ボクは。

 耐えながら演奏した『月光』なんて、誰が喜ぶんだろう?

 何より、ボク自身それで納得ができるわけがない。


 そんな無味乾燥な演奏をするくらいなら、弾かない方がマシだ。



 もっと攻めなければ。

 もっと大胆に、ボクの大好きなベートーヴェンを弾くんだ……!



 ボクは、左手の旋律にこれまでの想いをこめた。


 たった1頁半の展開部。

 この急速なテンポではあっという間に通り過ぎてしまう。


 短いからこそ、後悔はしたくなかった。


 ボクは曲の半ばになってようやく、曲の中に意識を入れることができた。

 疾走する16分音符の1音1音がいつの間にかボクの緊張をかき消してくれた。




 そして展開部の終わりは、2つの全音符。

 夜の暗闇のような深淵な静かさの後、急速に上昇する冒頭の音型が突然再現する。



 再現部の始まりだ。


 再現部は、途中までは提示部とまったく同じ音を辿ることになる。



 だけど、ボクは最初に弾いた時よりも思い切った表現が出来ていた。

 音楽に入り込んだことで幾分落ち着いた精神状態になれていた。


 ボクは冷静な思考で狂気を表現していた。




 ――綾がピアノを弾くのを辞めてしまったのは小学4年生の時。


 その理由が、どんどん上達してゆくボクの練習時間を奪ってはいけないという綾の遠慮だったことに、当時のボクは気づけなかった。



 4年前の失敗以来、綾はあまりピアノを話題に出さなくなっていた。

 綾のやさしい気遣いだった。


 だけど、陰からボクのことを見守ってくれていた。

 去年の全国大会で優勝した時も見届けてくれたのだ。


 さっきも、ボクは綾から勇気をもらった。



 ボクは周りが見えるようになって、応援してくれている人がいることにようやく気づいた。

 子供だったボクはひとりの力で弾いていると思っていたけど、今は違う。


 ボクはひとりじゃない。

 支えてくれる人たちがたくさんいるんだ。

 とても幸せなことだ。




 そして……ボクは恋を知った。


 ――葵。


 生まれて初めて男の子のことを好きになった。

 気づいたら葵のことばかりが頭にあって、胸が締め付けられる。


 こんな経験は初めてだった。



 会いたい人に会えないことがこんなにもどかしいものだとは知らなかった。

 葵と会って、たくさん言葉を交わしたいのに。


 この特別な感情。

 少し前までは、この恋は叶わないと思っていた。



 ……ベートーヴェンはその生涯、たくさんの恋愛を経験しながらも最後まで独身だった。

 この月光ソナタも、互いに想いあいながら身分差によって結ばれなかった伯爵令嬢に捧げられている。


 どんな思いだったのだろうと、伝記を読み返すたびに考えてしまう。



 恋を知ることで、偉人たちの生涯を本当の意味で理解できた。

 曲に込められた感情を、より豊かに感じられるようになった。


 4年前のボクと決定的に違う。




 葵のことを考えていたら、いつの間にか手足の震えはなくなっていた。

 4年前に暗譜が飛んでしまった箇所も、そうと気づかないうちに通過してしまっていた。



 あんなに怖かったトラウマが、もはやボクの中では変哲もないただの1小節になっていた。


 ……いや、欠かすことのできない大事な1小節だ。

 他の小節と同じように。

 でも、恐怖を感じる対象ではもはやなくなっていたのだ。



 8分音符の刻みは依然として緊迫した音楽が続いている。


 この緊張にみちた曲のなかで、けれどボクは、この曲と和解したい。

 その思いで弾いていた。



 ボクはこの曲に自分勝手な憎しみを抱いていた。

 だけど、曲は悪くない。


 悪いのは、未熟だったボクだ。



 あの時のリベンジをしたい。

 あの時浴びるはずだった喝采を取り返したい。

 その思いでコンサートの曲目を選んで、今日まで練習してきた。



 けれど今、ボクはそんな負の感情で演奏したくない。

 そんな演奏を人に聴かせるのはとても醜いとボクは気づいてしまった。


 音楽を通じて、みんなと感動を分かち合いたい。

 みんなの前で胸を張っていられる演奏をしたい。



 そして、綾や母さんや葵に褒めてもらいたい。



 あの時の失敗があったからボクは成長できた。

 今のボクがあるのは、月光ソナタのおかげだ。


 そしてこれからも成長してゆきたいんだ――

 過去と決別するのではなくて、過去の失敗を受け入れて!




 そして曲は終結部コーダへと突入する。


 全楽章を通していちばん大きな波瀾が待っている。



 突如として現れた32分音符が、局面を真っ黒に塗りつぶすのだ。

 その頂点の和音は重く響いて、フェルマータで余韻を残し……




 やがて、第2主題の歌が静かにまた歌われだす。




 ボクはその物悲しい旋律を、心を込めて歌った。


 ……今まで君のことを憎んでてごめんなさい。

 そして、ありがとう。

 どうかこのボクに、最後まで弾かせてほしい。



 曲が終わろうという時、ボクの心にあったのはこの曲への謝罪と音符への慈しみだった。




 やがてだんたんと、燻っていた焦燥が熱を帯び始める。

 凍てつくような狂気は、いつの間にか燃えるような情熱になっていた。


 荒れ狂うような最後の叫びへと向かいだす。



 ボクは疲弊した全身を奮い立たせて、鍵盤に気持ちをのせる。


 これからも、ボクはもっと成長したい――!



 その一心で、なだれ込む。

 全3楽章からなる月光ソナタの終結。



 3小節にわたる、華麗な分散和音アルペジオ

 ボクは小さな両手を精一杯広げた。


 嬰ハ短調の主和音を両手のユニゾンでこれでもかと強調して、かき鳴らす。



 ――ベートーヴェン ピアノソナタ第14番 作品オーパス27-2 嬰ハ短調ツィスモール 「月光」。



 『悲愴』『熱情』と並び、3大ピアノソナタと称される大曲。

 その最後を締めくくるにふさわしい、劇的な幕切れだ。



 ボクは自分の体重をすべて鍵盤に伝えた。

 堂々と、そして決然とした最後の音符。


 ……ボクの今までの人生の総決算と、未来への決意だ。



 ボクは目をぎゅっと閉じてその響きをかみしめた。





 ボクが持てる力を出し切ったパフォーマンスに、ボクが椅子から立ち上がる前にお客さんは暖かい拍手で讃えてくれた。


 4年前に浴びるはずだった喝采ではなかった。

 今、ここにいるボクへの喝采だった。



 ボクは嬉しかった。



 4年前と同じ舞台で、今度は緊張に打ち勝った。

 あの失敗を乗り越えられた。


 それを、葵や綾が見ている前で証明することができたんだ……!



 やったよ……!

 うれしいよ……!!



 みんなの前でお辞儀をするたびに、より一層達成感が大きくなっていった。



 そして、ついに解放された気持ち。



 ボクはようやく、客席を直視することができた。


 客席のうしろの方に、母さんがいた。

 真ん中のあたりには、クラスの友達が何人も。



 ……葵、こんなに前の方で聴いていてくれたんだ。


 なんだか気恥ずかしくなってしまう。


 だけど葵はボクに微笑んで、いっぱいの拍手をボクにくれていた。

 本当に嬉しかった。



 ――ボクが今この場に立っているのは、葵のおかげだから。




 今夜のボクは、もうどんな曲でもうまく弾けてしまいそうな気がした。


 さあ、プログラムも残すはあと一曲。

 ベートーヴェンの告別ソナタ。



 コンサートのプログラムを決めたのは、葵と再会する前。


 もしかしたら葵が聴きに来てくれるかもしれない。

 その思いでボク自身が選んだ、とっておきの曲だ。



 そして、アンコールにも葵への想いを込めた曲を用意している。

 ボクから葵に捧げる歌だ。



 ――ボクは、葵が今この場で聴いてくれている幸せをかみしめながら、最後の曲を弾くために意気揚々とした足取りでまたピアノへ向かうのだった。








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