#0026 喝采 (6)【栞視点】
ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770-1827)。
ボクが最も尊敬する偉大な音楽家だ。
波瀾に満ちた彼の56年の人生。
聴力を失いながらも、その不屈の思いで音楽の歴史を大きく変えたからだ。
ベートーヴェン以前、ハイドンによって形が与えられ、天才モーツァルトによって完成されたウィーン古典派音楽。
それは流麗明快なメロディーラインと、均整のとれた調和の音楽だった。
ベートーヴェンはその古典派の音楽を終わらせた。
彼は曲の構成をどこまでも突き詰めることで、とても構築的な音楽を作り上げた。
交響曲やソナタといった古典派の形式を否定することなく、地に足の着いた感情の発露と両立させることで、むしろより高い次元へと昇華させたのだ。
そして、貴族から市民階級へと社会の中心が移りゆく時代。
ベートーヴェンは西洋音楽の歴史上はじめて特定の貴族や教会に属さないという意味で「芸術家」となれた存在だった。
ベートーヴェンは、多様な音楽が花開く19世紀ロマン派音楽の出発点でもある。
芸術家として後に続く人々の道しるべになったのだ。
ベートーヴェンが生涯の中で書きあげたピアノソナタは32曲。
そのどれもが創意工夫に満ちている。
彼が音楽が発展させていった形跡そのものだからだ。
「ピアノの新約聖書」と言われることもある、ピアニストにとって宝物のような曲たちだ。
――ボクの初リサイタル、その後半のステージ。
変わらず大きな拍手をくれる客席に深くお辞儀をして、ボクはふたたびピアノの前に座った。
高い天井から金色の照明が鍵盤を照らしていた。
これから弾くのはベートーヴェンのピアノソナタを2曲。
あやせて約30分、ボクはこのピアノを弾き続けなければならない。
ドクン、ドクン、と心臓が鳴る音が響いていた。
本番の一発勝負。
記憶が途切れたら終わりだ。
4年前のように。
……そういえば休憩中、楽譜を一度も開いていない。
大丈夫だろうか。
悪いイメージが頭をよぎろうとして、ボクはかぶりを振る。
今更悔やんでも後の祭りだ。
さっき綾からたくさんの勇気をもらったじゃないか。
ボクは自分の両手を見つめる。
綾を抱きしめた感触がまだ残っていたし、右手には葵からもらったハンカチが握られていた。
失敗したら綾がいっしょに泣いてくれるし、葵もきっとまた慰めてくれる。
ボクは緊張で震えそうになる足を踏ん張って、今から弾く曲に集中する。
息を静かに整えて、ボクは後半の1曲目を弾き始めた――
――ベートーヴェン ピアノソナタ第14番
第1楽章 Adagio sostenuto 2分の2拍子。
この冒頭楽章の深淵な静寂は、朦朧とした幻想を描き出す。
この月光ソナタは、通常ソナタの第1楽章に置かれるべき急速楽章を欠いている。
それはベートーヴェンが新しい創作の道を歩き始めたことを意味していた。
この瞑想的で幻想に満ちた第1楽章は、『月光』というこの曲の愛称の由来だ。
元々ベートーヴェンはこのソナタに名前をつけていなかったけど(そもそもベートーヴェンが曲名をつけたソナタは2曲しかない)、あるドイツの詩人がこの第1楽章を称して「スイスのルツェルン湖の月光の波にゆらぐ小舟のよう」といったことから『月光』と呼ばれるようになったのだ。
ベートーヴェンが付けた曲名というわけじゃないから、解釈は人それぞれに委ねられている。
それでも、静かな月の光というイメージは言い得て妙だとボクは思う。
ボクが思うこの第1楽章は、洋上の小舟というよりかは水中だ。
ボクはこの曲を弾いていると、ボク自身が冷たく深い
そこは寒くて暗く、周りには誰もいない。
光も波もない水中の、孤独と静寂。
そして天を仰ぐと、遠くの
そんなボクの心象風景。
その時、ボクの心を支配しているのは諦めの気持ちだ。
……葵との出会い。
4年前の遠い記憶だ。
あの時葵がくれたやさしさを拠りどころにしてボクは生きてきた。
一度は挫けそうになったピアノを今まで続けてきたのも、そうしていれば葵にいつか会えると思っていたからだ。
そうしているうちに、ボクはいつの間にか同年代の誰よりも上手になっていた。
それでも、ボクはどうやったら葵にまた会うことができるか分からないままだった。
……つい最近、思いがけない形で葵と再会するまでは。
ボクの淡い恋心。
どんなに望んでも、会うことすらかなわない。
ボクが思い続けていた葵の笑顔、その表情が、はるか遠くに見える月の光と重なって見えるのだ。
あの時の葵の姿、ボクの胸の中には鮮明にあるのに、決して手が届かない。
ボクは今でも、葵のことを切なく思い続けた夜を思い出すことがある。
ボクの初恋はこのまま一生叶わないのではないか。
その静かな思いは、ひたすら沈み続けるような絶望だった。
ボクは弾きながら、葵と再会する前の気持ちを思い出していた。
もちろん、今が本番という緊張感は変わらない。
大勢のお客さんが、固唾をのんでボクの演奏を見つめ、耳を澄ましている。
それを意識すると途端に鼓動が頭に鳴りだすし、呼吸だって粗くなっていた。
だけど、ボクはその緊張に打ち勝つために極限まで集中して、曲の中に精神を没入させていた。
音楽に没入してしまえば、緊張を頭の片隅に追いやってしまうことができる。
それが、ボクが緊張に対抗できる唯一の手段だった。
ボクは弾きながら虚空を見つめ、目を閉じる。
もちろん、本番でそんなことをするのはとても勇気のいることだ。
だけど、こうしなければボクが感じていた苦しみを曲にのせることができないと思ったのだ。
さいわいボクの指は次に押さえるべき鍵盤を覚えてくれていたし、ボクの頭の中にも楽譜がすべて再現できている。
それに、勇気はさっき綾からたっぷりもらったばかりだ。
鬱屈した第1楽章。
その表情を最後まで変えないまま、消え入るように曲を閉じる。
ボクの呼吸は曲とリンクして、静かな水面のようだった。
楽譜には、最後の音をフェルマータで伸ばした後
――第2楽章 Allegretto 4分の3拍子。
少しだけ足取りの軽い3拍子のリズムで、長閑で愛らしい旋律を奏でる。
ボクはこの楽章が大好きだ。
もちろん他の楽章も好きだけど、この一見地味な第2楽章が特に好きなのだ。
たった1頁の楽譜に込められた安堵感は弾いていて心地よく、ほっとする。
異様な雰囲気に満ちている第1、3楽章の間に挿入されることで束の間の憩いになるのだ。
形式だけ見れば完全にメヌエットだけど、メヌエットを踊るには速すぎるテンポ。
それがかえって心に沁みわたるのだ。
語りかけるようなレガートと、弾むようなスタッカートが交互にあらわれて、悲しみに浸かった心をやさしく包み込んで温めてくれるのだ。
ボクはよく真夜中にひとり散歩に出かけることがある。
どうしようもなく悩んでいるときや落ち込んで眠れないとき、歩きながら物思いにふけるのだ。
浮かない顔でひとり佇んでいるボクを哀れんだ夜風が、傷んだボクの心を慰めてくれるような気になる。
そうして少しだけ元気を取り戻した心が、やがて遠慮がちに弾みだすのだ。
この楽章は、そんな気持ちになる。
メヌエットを踊るには速すぎるけど、第1楽章で沈んでいたボクの心がふたたび歩きだすテンポだ。
いつか葵と会える日を夢見て。
夜風は沈んでいたボクの気持ちを軽くして、ボクは夢を思い出すのだ。
葵とまた会いたい。
その気持ちを思い出して、ボクは明日もピアノを弾く。
毎日の積み重ねはちっぽけかもしれないけど、いつか葵の目に届いているかもしれないから。
そう思い直させてくれるのだ。
そしてそれは間違っていなかった。
ボクの頑張りを、葵は見てくれていたのだ。
今思えば、すべて無駄ではなかったと言える。
だけどつい最近までボクは迷いながら、落ち込むことも何度もあって、そのたびに自分の頬をたたいて歩いてきたのだ。
ボクは弾きながら、そんなかつての日々を思い出した。
……そして
……ボクは鍵盤を押さえていた手を離し、ふう、と一息ついた。
ここまでは満足できる出来栄えだ。
相変わらずひどい緊張は抜けることが無い。
だけど、落ち着いて弾けていた。
……残すは、最終楽章のみ。
このピアノソナタは、重心が第3楽章に置かれている。
4年前のコンクール、ボク苦い経験をさせられたあの曲だ。
――第3楽章 Presto agitato 4分の4拍子。
ボクは、あの時浴びるはずだった喝采を取り戻すため、凍てつく狂気に満ちた音楽に身を投じるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます