#0025 喝采 (5)【栞視点】




 舞台裏に戻ったボクは、鳴りやまない拍手を聞きながら顔の汗をタオルで拭った。

 そしてペットボトルのお水をゴクゴクと飲む。


 大きな仕事を終えた後に飲むお水はとても美味しくて、ステージ上で干からびかけていた全身に染みわたるようだった。



 カラダ中が熱くて、ボクは興奮が冷めやらない。

 頭の中はまだ音でいっぱいだった。



「おつかれさま。相変わらずすごいね」


 客席へのアナウンスを終えた綾がボクのもとにやってくる。

 小さく拍手をする仕草をしていた。



 ボクの前半の演奏は、とりあえず破綻することなく弾き終えることができた。

 内容は正直あまり覚えていないけど、客席の反応を見るに成功したみたいでほっとする。


 ホール内は、綾のアナウンスの後に客席の照明を入れたことでようやく拍手が止んで、まばらに人が席を立っているようだった。



「正直、最後は無我夢中であんまり覚えていないんだ。ちゃんと弾けてたかな?」

「いつもよりも速くなってなかった? あまりにも速いから、わたしはもうドキドキして死んじゃいそうだったよ」

「あはは、ごめんごめん。最後のリストはさすがに暴走しすぎちゃったね。でも、今日のボクはすごく調子がいいからなんだか弾けちゃう気がしたんだ」

「もう、こっちは心臓が口から出るかと思ったのに!」

「ごめんってば」


 綾と話しているうちに、本番の緊張が良い感じにほぐれてくる。


 この休憩時間、演奏家であるボクにとっても束の間の休憩だ。

 15分後には舞台の上にたって、また一発勝負の本番に臨まないとといけない。


 家族と普段通りの世間話ができるのは、とても心が安らいだ。



 双子の姉と軽口を言い合っていると、「座って休んだら?」と促してくれる。


 舞台裏は暗くてなんだか雑然とした感じで、コンクールとか発表会で出番待ちの子たちが座る用のパイプ椅子がそこかしこにあった。

 ボクが適当な椅子に腰をおろすと、綾はどこからかうちわを持ってきてボクの顔に扇いでくれた。



「あーー、すずしーー」


 そよぐ風の心地よさに、ボクはだらしない声をあげてしまう。

 椅子の上で手足を投げ出して、格好もだらしなかった。


 綾は「客席に聞こえちゃうよ……」と苦笑しているけど、そんなことかまうもんか。



「だいたい、ステージの上がこんなに暑いのがおかしいんだよ」

「それは……照明があるから仕方ないよ」

「それに、やっぱりこのドレスもよくない。通気性がまったくないからとても暑いよ」

「栞が一番気に入ったドレスじゃなかったの?」

「もちろん。ボクが選んだからにはばっちりキマってるだろう?」


 ボクは座ったままの状態で両手を広げて、綾にボクのドレス姿を披露してみせる。



 綾もいう通り、ボクがいま身に着けている黒のロングドレスは、熟考に熟考を経てボクが選んだものだ。

 子どもっぽいふんわりしたものではなくて、綺麗なシルエットとシンプルで上品なデザインでボクの琴線に触れたのだ。


 それに……こういうデザインの方が、身長が高く見えるような気がしたのだ。


 だけど、本番で着てみると暑い。

 それだけが欠点だ。


 腕は露出しているけど胴体はぴったりしているせいで通気性は悪いし動きづらい。

 演奏でエネルギーを消費するとボクは汗ばんでしまっていた。


 スカートの丈は足元近くまであって、足元が見えないのも不便だ。

 ピアノのペダルから足を踏み外しそうになる。



 だけど、それは他のドレスを着たとしても大して変わらないことだ。

 人前で演奏する以上耐えないといけない。



 一番大事なのは、他人の目にボクが演奏する姿がどう映るのか。

 何より、ボク自身がボクの容姿に納得できること。


 ――そして、葵にどんなボクを見てもらうのか。



 最初にステージに出る前、自分の全身を姿見で確認したのだ。

 そこに映っていたボクは(綾みたいな美人じゃないけど)清楚で、それでいてほんのちょっぴり妖艶だった。

 ボクが思い描いていた通り。



 ボクだって女の子なんだ。

 素敵なドレスを着たとびっきり可愛い自分を見せたいじゃないか。


 漆黒のドレスはところどころレースをあしらっていて、女の子っぽさが適度にあって良い。


 左手首にはお気に入りの金色のブレスレットをはめている。葵と再会した時にも身に着けていたものだ。

 これが、激しいパッセージを弾く時に大きく揺れてキラキラと光るのだ。


 ばっちりだ。

 悩みぬいてドレスを決めただけあって、満足する出来だった。



 だけど、椅子にカラダを投げ出したボクを見た綾は「いまの栞は格好悪いよ……」って苦笑していた。

 ボクは黙殺することにした。



「それに、このハンカチもすごくセンスがいい」


 葵がボクのために選んでくれたハンカチを広げて眺めてみる。

 ……1週間くらい、もう何度も見た。

 でも見飽きることはない。


 ボクが片想いしてるから良いものに見えるだけで、冷めた目で見たら変哲もないものなのかな。

 ……いや、やっぱりコレはとってもオシャレだ。ボクのセンスはそう告げている。



 さすがにたまたまだと思うけど、ハンカチはボクが選んだドレスと同じ黒地だ。

 だけど真っ黒じゃなくて、むしろヴィヴィッドな色彩で大きな柄が描かれている。


 端にはオーブ型のブランドロゴが入っていた。

 斬新アヴァンギャルドなデザインで有名なブランドだ。


 だけど下品なほどやりすぎてない。

 眺めているだけで元気になってくるみたいだ。



 ステージ上でこんな派手なハンカチを使ってるピアニストなんて他にいるだろうか?

 そういうちょっと変わってるところが、ボクの好みにどんぴしゃなのだ。



 葵はこういう小物を選ぶセンスも良いみたいで、ボクはときめいてしまった。


 綾のために選んだ服とボクのために選んだハンカチはちゃんと差別化されている。

 綾の服は綾の綺麗なイメージを引き立てるものだけど、ボクのためのハンカチは冒険的なものだ。


 ちゃんとボクのことを考えて選んでくれている。

 それだけでも嬉しかったし、葵が選んでくれたのはこんなに素敵だ。



 とても気に入っていた。

 なんだか使うのがもったいない。

 ステージ上では葵に使ってるところを見せたかったけど、舞台裏で顔の汗を拭う気にはなれなかった。



「葵…………っ」

「最近そればっかり。本当幸せそうだね」

「ハンカチもだし、お花と美味しそうなお菓子もくれた。コンサートが終わったら葵にお礼を言わないと」

「あ、せっかく今休憩中なんだから葵くんのところに行ってみる? 葵くんなら、客席の前の方の……」

「あー! 言うなっ! 言わないでくれー!」



 ボクはあわてて自分の耳をふさぐ。


 葵が客席のどこにいるかなんて知ってしまったら、意識してしまうじゃないか。

 葵がどんな風にボクの演奏を見てるのか、その表情とかが気になって演奏どころじゃなくなってしまう。


 客席にお辞儀をするときも、ボクは意識してホール中を見渡さないようにしていたくらいなのに。



「今日のボクは調子が良いんだ。指の回り方がいつも以上で、ミスをする気がしないんだ。葵の目線を意識しだしたらそれが狂ってしまうよ」

「そっか。……調子がいいからって、さっきみたいな暴走は本当にやめてね? いつ止まっちゃうんじゃないかって思ってハラハラしっぱなしだったんだから」

「後半はベートーヴェンだし、ああいう興に乗った演奏はしないさ。……というかできないよ、ふさわしくない」


 ベートーヴェンのピアノソナタは、観客を熱狂させる快楽的コンサートピースでは決してない。

 大きな建築物のような音楽で、設計図通りの演奏をしなければならない。


 そして、体力勝負。


 ソナタを2曲、それぞれ全楽章演奏するとあわせて30分はかかる。

 前半のリストとショパンを弾いた披露も蓄積する中で、集中力を切らさずに弾き終えられるだろうか。



「大丈夫?」

「心配かい?」

「だって……」



 大丈夫。

 ボクは不敵に笑って、そして静かに燃えていた。



 後半の1曲目は、ベートーヴェンのピアノソナタ第14番。

 またの名を『月光』という。



 その第3楽章は、4年前のコンクールでボクが大泣きさせられた因縁の曲だ。



 あの失敗があったからボクは葵と出会うことができたけど、ボクが本番で失敗した事実は消えない。

 あの苦い記憶はボクの心のしこりとしてずっと残っていた。


 あれ以来、ボクは人前でベートーヴェンの『月光』を弾いたことはなかった。

 家のピアノでひとりで弾いているときですら、失敗した瞬間がフラッシュバックすることがあったから。



 ボクがあえてその曲をプログラムに組み込んだのは、この場所で決着をつけたいと思ったからだ。

 あの時と同じステージ、葵が見守っている中で、過去のボクと決別したい。


 緊張に押しつぶされて、暗譜が飛んでしまった自分と。



 そして、あの時ボクが受けるはずだった喝采を返してもらうんだ。



「……あの時、栞がいなくなって悲しかったんだから」

「それは……ごめん」

「いろんなところを探し回って、だけどどこにも栞は見つからなくて。もう栞はわたしたちに会ってくれないんじゃないかって思ったんだよ?」



 4年前。

 葵の胸を借りてひたすら号泣したボクは、葵の出演順が回ってくる時間に葵と別れたのだ。

 そしてひとりになったボクは、おそるおそるホールのロビーに戻ってみると。


 ――目元を真っ赤に晴らした綾が、ひとりで床に座り込んでいたのだ。



「お母さんは"放っておけばそのうち戻ってくるでしょ"って言ってたけど、わたしは栞が心配だったの。だって……」



 ……暗譜が飛んでしまって、弾きなおすこともできなかったボクは、そのままピアノの前から立ち上がって客席に礼をすることもなく舞台から去ってしまったのだ。


 本番があんな結果になってしまったのは、ボクのせいだ。

 それで皆に合わせる顔がないというのは、完全にボクの自業自得なのに。


 それでも綾はボクを心配して、いろんなところを駆け巡って探したのだろう。



 戻ってきたボクを見つけた綾は、ボクが逆に心配になってしまうくらい泣いてしまうのだ。

 それだけボクのことを心配してくれて、そして見つけられて安堵したのだろう。



「……もちろん、本番で一番緊張してるのは栞だよ。だけど、わたしも負けないくらい緊張してるの。だって、いつもたくさん練習してるのを聴いてるから」


 いつの間にか綾は、うちわで扇ぐ手を止めていた。

 そして、となりの椅子に座ってボクに語りかけてくれる。



「あんな失敗をしたのに、また前を向いて頑張れる栞は、強いよ」

「そんなことない。今まで、月光を弾くのは避けてきたんだから」

「でも、今から挑戦するんでしょ? やっぱり強いよ」

「……」

「……本当は、わたしが緊張を代わってあげたいの。栞が緊張して失敗しないように。でも、それはできないから……ここで栞のためにお祈りすることしかできなくて、もどかしいの」

「ありがとう、綾」


 ボクは幸せ者だ。

 葵だけじゃなくて、綾にもこんなに想ってもらえるなんて。


 もはや、ボクひとりのステージではなくなっていた。


 昼間のリハーサルの後、"あとは栞の好きなようにやりなさい"と言ってボクに託してくれた母さん。

 受付で当日券の管理や会計を担当してくれている萌。

 連名でおおきな花束をくれたクラスの友達も。


 色んな人がボクを見守ってくれている。



「綾やみんなのためにも、ますます失敗できないね」

「失敗しても、わたしがいっしょに泣いてあげる。だから、もういなくならないで? もう、家族と会えなくなるのは嫌だから……」

「やっぱり綾はやさしいよ。……次に開くコンサートは、麗にも手伝ってもらおう?」

「うん」


 ボクは綾と目を見合わせた。

 綾の言葉に、ボクは勇気が出てきた。



「……そろそろ時間かな」

「あと2分くらい」


 左手に巻いた腕時計を見ながら答える綾。

 時間が経つのははやいなあ……


 まもなく、ボクはまた戦いの場に戻らなければならなかった。

 緊張との戦い、月光ソナタとの戦い、そして過去の自分との戦いだ。



「……またぎゅってする?」

「汗かいてるよ?」

「そんなの気にしないよ。栞が元気になってくれるなら、わたしは嬉しいから」

「ありがとう……じゃあ、お願いするよ。綾」



 実はさっきの出番の直前、ボクは綾に抱きしめてもらっていた。

 抱きしめてもらっているうちに綾から勇気をわけてもらっているような気分になるのだ。


 ボクには家族という心強い味方がいることを実感できた。

 ステージの上は孤独だと思いがちだけど、本当はボクの背中には綾や母さんやみんながいるのだと思えるのだ。



 綾が立ち上がって、ボクの目の前で両手を広げていた。

 ボクも座っていた椅子から経って、綾の胸に飛び込んだ。


 ボクたちは抱き合った。

 綾はワンピース姿、ボクはロングドレス姿だ。


 ボクの汗の匂いが、綾の涼やかな良い匂いで中和されていくのを感じた。



「……暑いかな?」

「暑い」

「そうだよね」

「でもやめないで。もっとずっとこうしてたいんだ」


 綾が抱きしめる力はやさしくて、そのやさしさがボクの中で強さに変わっていく感じがした。



「……わたしは葵くんじゃないんだよ?」

「葵と家族になれたら、葵に抱きしめてもらおう」

「じゃあもしかして、わたしが励ますのはこれが最後?」

「それはいやだ。綾からも元気をわけてもらわないと」

「ふふっ。そんなことしてたら、休憩中ずっと抱き合ってるだけになっちゃうよ」

「それも良い。ボクはぜんぜん構わないよ」

「もう」



 さあ、まもなく演奏再開だ。


 ボクは最後の最後まで綾と抱き合って言葉を交わしたのだった。














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