#0024 喝采 (4)




 ピアノの魔術師、フランツ・リスト(1811-1886)。


 19世紀・ロマン派の作曲家にして、史上最高空前絶後の大ピアニストだ。



 同時代のショパンやシューマンと共にピアノの演奏技法を開拓するとともに、ベートーヴェンがその可能性を証明した音楽による感情の表出をさらに押し広げた、ロマン派音楽隆盛の立役者。



 リストのピアノ演奏は当時のヨーロッパ中を席捲して、今でいうアイドル的な人気だったという。

 何を隠そう、「リサイタル」というソリストの独演形式の演奏会の創始者はリストだ。


 リストのあまりに衝撃的な演奏に、会場に詰めかけた女性ファンが次々と失神していったというエピソードも残っている。



 そんなスター的ピアニストであったリストは、ベートーヴェンが32曲のピアノソナタで試行錯誤の末結実させた新しい音楽の表現を、ピアノの演奏技法の飛躍とともにさらに大きく発展させた。

 そして、ピアノというたった1台の鍵盤楽器をフルオーケストラに比肩するものにした。



 そんなリストはハンガリーの生まれ。


 オーストリア国境近くであったためリスト自身の母国語はドイツ語で、ハンガリー語は終生喋ることはできなかったようである。

 けれどリストは自身のことをハンガリー人だと認識し、自国ハンガリーに愛と誇りを持っていた。



 リストの代表作のひとつに『ハンガリー狂詩曲ラプソディー』という作品群がある。


 自身が生まれ育ったハンガリーの地で耳にした、愛着のある音楽。

 それはチャルダッシュ――すなわち緩徐で憂鬱的なLassanラッサンに始まり、そして後半の急速で熱狂的なFriskaフリスカという対照的な2部の舞踏からなる形式。

 そこに用いられるのはエキゾティックな響きをもつ独特の音階、即興的な走句や装飾音だった。



 リストは慣れ親しんだ祖国の民族音楽(とリストが思っていた音楽)を研究し、それを自身のピアノ音楽に取り入れ15曲からなる大曲へと昇華させたのだ。



 それまでのハイドン、モーツァルト、ベートーヴェンが育んできたウィーン古典派音楽。

 それを受け継いで発展したロマン派音楽は、異国にルーツを持つ作曲家によって民族的愛国心の音楽が花開く時代でもある。


 リストやショパンはその端緒となって、ピアノでその芸術性を高めたのだ。



 ……ちなみに、リストがハンガリー土着の民族音楽だと思っていたそれは、実はロマの楽団が培ってきた音楽だったりする。

 ハンガリーや東欧の農民文化に根付いた「本物」の民族音楽の容貌が明らかになるためには、19世紀末から20世紀前半の作曲家バルトークによる採集と体系化を待たなければならない。

 しかし、だからといってリストが書いた音楽の価値が下がるというものではないのだけど。



 さて。

 栞のリサイタル、前半最後に披露する『スペイン狂詩曲』。

 副題は『Folies d'Espagne etスペインのフォリアと jota aragonesaホタ・アラゴネーサ』――


 緩徐なラッサンと急速なフリスカという形式に可能性を感じ取ったリストが、これをスペインの旋律にもあてはめたという独創的な作品だ。


 この「フォリア」と「ホタ」というのがスペインの伝統的舞曲で、落ち着きのある旋律のフォリアがラッサンに、そして両手にカスタネットを持ち情熱的に踊るホタがフリスカにそれぞれ対応する。


 2つのメロディーが、リスト持ち前の超絶技巧を駆使して様々に形を変えられて、最後には混然一体となる大作。

 普通に考えたらとても、中学3年生の女の子に手に負えるようなものではない、超難曲だ。


 しかし、何を隠そう栞は去年の全国コンクールの決勝、このスペイン狂詩曲を見事に弾き切って優勝に輝いている。

 おれもその場にいて栞の演奏を聴いていたけれど、その力量は圧倒的だった。



 先ほどの『荒野の狩』の凄まじい演奏もある。

 栞が今度は大曲を弾いたら、一体どうなってしまうのかという怖いもの見たさにも似た期待感が会場を支配していた。



 栞の初リサイタル、はやくも一番のハイライトを迎えていた。





 ――リスト スペイン狂詩曲 S.サール254



 冒頭、つんざくような和音に続く、唸り声のような迫力のある低音。そして一気に駆け上がる煌びやかな分散和音アルペジオ

 Lento遅く嬰ハ短調ツィスモール、4分の3拍子にはじまる即興的な序奏だ。



 これまでの演奏で熱気に満ちていた観客を、栞はたった2小節で新たな曲に引き込んでしまう。


 息の長いパッセージをを両手で奏でながら高音域へと音が集中してゆき、満天の星空みたいな音でホールを埋め尽くしてゆく。

 それがやがてひとしずくの流れ星のように消えながら低音へと落ちてゆき。



 そうして、第1の主題テーマ「フォリア」がAndante moderatoアンダンテ・モデラート――朗々とした歌が歩みをはじめる。


 なんと情熱的で壮麗な演奏だろう。



 その旋律の出だしはpで、低音の単音。

 「フォリア」は古くからスペインに伝わる主題で、たくさんの作曲家によってこれをモチーフにした作品が書かれてきた。


 旋律を変えながらも定型の和声進行を繰り返す、変奏曲が伝統的な形式だ。

 リストもこれに倣って、同じ旋律が形を変えながらを右手左手へと移り渡る。



 やがてその音楽はどんどんと雄大になってゆき、両手を駆使して力強く歌われる。

 ……まるで、はじめはかすかな水の流れだったのがどんどんと集まって、流れを下るごとに大きな川へと成長してゆくようだ。



 両手のオクターブの連続、栞はその小さな両手を懸命に広げて鍵盤に振り下ろしていた。

 左手にはめられた金色のブレスレットが、1音奏でる毎に大きく揺れて輝いていた。


 鍵盤を見つめるまなざしは一心不乱で、1音1音が鋭く打ち出されていた。

 この早いテンポでオクターブを正確に連打できるなんて、栞はどれだけ練習を積んできたんだろうか。


 手の小さい女の子は、実はピアノの演奏には不利。

 特にリストのような超絶技巧を要求する作曲家だと、弾くだけでいっぱいいっぱいになることがままある。


 けれど栞はそうじゃない。


 嬰ハ短調の勇壮な3拍子は英雄的で、両手の和音がffでリズムを刻みつけている。

 高音域で駆けあがっていく音階スケールは絢爛だ。


 きっとおれなんかじゃ想像も及ばない苦労があったはずだ。

 4年前の失敗を乗り越えて、地道に努力を続けてきたからこそ去年、栄冠に輝いたのだ。

 おれがこんな演奏をするのは到底無理だと思った。



 高音の急速なスケールが2度3度と挿入され、音量が急激に弱まってゆく。

 そして6度目のあと、そのままふたつ目の主題テーマ「ホタ・アラゴネーサ」に突入する。

 その瞬間8分の3拍子、Allegroに切り替わって、3拍子を刻む速さが一気に速くなる。

 カスタネットを両手に持ち、軽快にステップを踏む民俗舞踏だ。



 可愛らしい音色で、高音の装飾音付きのDの音がキラリと輝いていた。

 栞の輝く笑顔のような曲調だ。


 リストの華麗なテクニックがちりばめられたフレーズの数々を、栞はヒラヒラと舞うように駆け抜けてゆく。

 まるで軽々としたステップを踏みながら、歌を歌うみたいだった。



 その舞踏はステップを進めるたびにテンポを速めてゆく。

 そのさまは狂乱的だ。


 かと思えば、細やかなトレモロとともにホタのリズムはほどけてゆき、今度は新しい歌――暑い夏の夜空への夢想が静かに歌われだす。



 すごい。

 おれはうっとりとその甘い旋律を聴いていた。


 月光ソナタの第3楽章を猪突猛進で弾いていた4年前とは音楽の表情が違った。

 栞はいまどんなことを想像しながら、この夢のように美しい音楽を歌わせているのだろうか。


 学生ピアニストの日本一という栄光に輝いた栞。

 だけど、きっと普段の日々ではみんなと同じように日々を送っている。



 あの活発な栞なら、感受性も豊かなんだろう。

 きっとおれ以上にいろんな悩みや、痛みも感じながら生きているのだろう。


 おれや栞が感じる悩みなんて、大人からしてみれば青いのかもしれない。

 けれど、栞というひとりの女の子が、いまの自分にしか表現できない気持ちを目の前の音楽に託して歌っている。

 イマジネーションをかき立てられ、心を奪われてしまうような音色だった。



 そのひととき、栞が作り出す夢のような世界におれたちはしばし浸っていた。





 ……そしてそれは、やがて訪れる嵐の前の夢だとおれたちは思い知ることになる。

 ここからはもう、休む暇がない。



 長い長い高音のトリルの果てに、ふたたびテンポを戻して軽快な「ホタ」の主題が再現される。


 軽やかで煌びやかな旋律を1度だけ繰り返すと、ハーモニーは灰色の影を帯び始める。

 そしてあっという間に、高音から低音へと転げ落ちてしまうのだ。



 低音部のユニゾンで奏でられる、不気味にうごめくような旋律。

 拍子の頭で執拗に強打されるオクターブのAの音が、これから起こる「何か」を警告するように響いていた。



 栞はテンポを上げ始めだんだんとその勢いを上げていった。

 鋭くて正確な打鍵にはまったく変わりは無い。

 半音階を奏でるようになった低音のユニゾンは徐々に、だけど確実に熱くなってゆく。



 やがてニ長調へと回帰すると曲調は一気に華やかさを得て、左手の和音が刻む上空を高音の音階スケールが駆けあがってゆく。

 もう既にどうしようもないくらいの熱を帯びていた。


 栞はテンポをより一層上げて、歓びに満ち溢れた感情をさらに煽りたてる。

 執拗に繰り返される高音の音階。

 そして駆けあがった頂点で鳴らされる、輝きに満ちた和音。



 あっという間に音楽は激流になっていた。


 おれはもう呆然として聴いていた。

 開いた口が塞がらなくなっていた。


 手に汗を握っていて、興奮で身体の震えが止まらなくなっていた。



 華麗なトレモロの走句を栞は一瞬にして駆け抜ける。

 そして次の瞬間、両手を使った和音の乱打で一気に感情が爆発する――!


 大きな歓びの波、その頂点。

 1音1音が信じられないくらいの響きを持った和音の数々。


 栞のキラキラとした輝きをもった音が一瞬のうちに大量に放たれ、それがホール中を埋め尽くしてゆく。

 まるで流星群のように大量の音の塊がおれたちの頭上に降り注いできた。



 ……嘘だろ! まだテンポを上げるのか!?

 こんなハイテンポに達する演奏は聴いたことがない。

 まだこの先、最大の難所が残っているというのに……!



 そして、信じられないような速いテンポを維持したまま、この曲最大のクライマックスに突入する――!


 Molto vivaceにまで速まったテンポで、両手のオクターブを交互に乱打しながらホタ・アラゴネーサの旋律を極めてダイナミックに演奏する。

 2小節おきに両手に大きな跳躍を経た和音があって、ここはどんな演奏家であっても本当にミスの多発する箇所――



 すごい! ノーミスだ! 信じられない!!

 こんな速いテンポを維持して、一度もミスタッチが無いなんて!



 曲は休む間もなくすぐさまfffのまま高音のトレモロになり、まるで歓喜を表しているかのようだった。

 そしてテンポはさらに加速を続けていた。


 おれは感動しっぱなしで、涙が出てきそうになっていた。

 血が沸き立つようだった。

 叫んでしまいそうだった。

 信じられないような演奏だ。



 ……去年の全国コンクール決勝のステージを思い出す。

 それまで大きなコンクール歴もなく、大会前まではまったく無名の存在だった栞。


 それが、決勝の舞台で披露したこのスペイン狂詩曲で圧倒的な印象を残したのだ。

 粕谷栞という名前を全国のピアノ関係者に知らしめた、栞の十八番なのだ。


 あの時も、鋭くて輝かしい音と正確無比なテクニックに感動しっぱなしだった。

 中学2年生の女の子が、あんな凄まじい演奏をしてしまうことがとても衝撃的だったのだ。



 だけど今日の栞の演奏は、あの時より一回りも二回りもスケールの大きなものになっていた。

 すごい。本当にすごすぎる。



 Sempre prestoにまでテンポを高めた先には、先ほど栞が夢を見ながら歌っていた旋律が堂々としたオクターブで帰ってくる。

 その逞しくて壮大になった音楽は大きなカタルシスをもたらした。


 しかもリストの筆はさらにとどまらない。

 この急速なテンポの中でさらに変奏を加えはじめるのだ。


 8分音符のスタッカートで旋律をバラバラにしたかと思えば、極めて急速な16分音符による10度の跳躍で超絶技巧を見せつける。

 そして極めつけは、両手を使った和音の強打と跳躍。



 そうして、極限まで興奮と熱狂を煽り高めたその先……



 いよいよ曲の終結部コーダ、はじめのゆったりとした4分の3拍子に回帰して、待ちに待っていた「フォリア」の旋律がついにニ長調で再現される――!


 ffで再現されるフォリアは劇的かつきわめて英雄的で、ここまで温存していた力をすべてふり絞った栞の演奏はとても凛々しかった。



 おれたち聴衆は圧倒的な達成感におそわれて成すすべがなかった。


 どうしてこんな演奏ができるんだ……!

 ありえない!!



 そしてそのまま堂々と、力強く、轟音のようなニ長調の主和音を奏でて幕切れとなる。

 10分以上にも及ぶ大曲にふさわしい終結だった。




 猛烈な拍手が客席から沸き起こった。

 ブラボーの大声援が飛び交っていた。

 おれも含め、みんな感動を抑えきれずにいたのだ。



 客席にお辞儀をして颯爽と舞台を去る栞の姿は、誰よりも格好よかった。


 暫時の休憩を告げる綾のアナウンスがあっても、しばらく拍手は鳴りやまなかった。











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