第3話 マエガタリ2/3

進むことも、戻ることもできない。

 それどころか今この場には、人はおろか、車も通っていない。つまり助けは期待できない。

 それを悟り、完全に脚を止めた僕は、ただ漠然と「あれ」の姿を眺めていた。

 そこに囚われてからどれほどの時間が経ったのか、手持ちの時計も狂ってしまってよく分からない。

 悪夢だ、とは絶望的な状況を表現する言葉であるが、よく言ったものだ。

 本当に、夢であったならどれほど良かっただろうか。まして夢の中のような内容なのだから尚更。

 しかし、そんな中にあってなお、僕という存在が嫌に現実味を帯びて感じられるものだから、それが夢だと自分に言い聞かせることすらもままならない。

 あえて言い表すならば、生身で夢の中に投げ込まれたような状況だ。この取り留めのない現実は、悪夢よりよっぽど酷い。

 自分がはっきりと感じているものが信じられず、かと言ってそれ以外に信じられるものもない。

「困ったものだ」

 気を紛らわすための独白も、果たしてどれほどの役に立つものか。

 そんな僕を他所に「あれ」はうずくまるようにして、不動の様相でそこに在った。そう見える。その感覚を信じるならば、今のところ「あれ」には、さほどの脅威はないと考えられる。であれば、現状、一番の脅威は「出られない」こと。

 このまま永遠にこの場に拘束され続けるならば、僕はまず間違いなく衰弱していくことだろう。行き着く先は「死」の一文字だ。

 かと言って、あれやこれやと当てもなく奔走するのも、体力が奪われるばかりで埒が明かない。その時が早まるだけ。

 時計が狂っている現状、そもそも自分が衰弱していくのかも分からないところだが、少なくとも正常な思考が展開できているということは、生命維持のための機構は働いているということで、それはいずれ「死」を招くということに違いない。

 じっとしてもいられない。だけど動くにしても何か目処は欲しい。

「ハァ……」

 漏れ出たため息は冷たい外気にさらされて、白く立ち上った。

 堂々巡りだ。いつも、何かをするにも考えすぎて、何も手に付かない。

 それこそ、進むことも、戻ることもできない。

 「あれ」が僕の心象を真似ているということはあるまいが、堂々巡りに囚われているという点において、この二つは似通っていた。

 どうせ死んでしまうのであれば、行動を起こして死んだ方が後悔はないだろう。それはまず間違いないはずだ。そして今、手軽にこの堂々巡りを抜け出す術が、思いつく限りでは一つだけある。

 それは「あれ」に近づくこと。

 ただ、それは危険に違いない。そもそも近づくことすらできないかもしれない。もしかしたら、このまま何もしない方がいいのかもしれない。あるいは、何も変わらないかもしれない。

 いずれにせよ、それらは僕に葛藤をもたらすのに十分すぎる程であった。他に何か方法はないのか。もう少し待った方がいいか。やはり行動した方がいいのか。考えてしまう。動けない。足がすくむ。

 どうすればいいのか分からない。

 それら分裂した思考は全てそこに終着し、その一念のみがはっきりと、頭蓋の中で意識される。

 視界には白い塊。夜闇に佇むその人型は、あいも変わらず身じろぎ一つしない。それが余計に思考を加速させ、声となって急き立てる。

 ともすれば気が狂いそうな思考の最中、唐突にぷつりと、糸が絶たれたかのように、頭の中から声が消えた。

 どうにでもなれ。そんな声が最後に聞こえた気がする。

 自暴自棄の僕は、身を投げ出すようにその場に座り込んだ。

 風にさらされて冷たくなったコンクリートに尻が触れ、体が強張った。冷たい。

 何かをした方が良いのは分かっている。しかし、行動しようと思った時に、僕の頭に浮かぶのは成功のヴィジョンなどではなく、失敗した後の散々な光景。

 それが邪魔をして、結局僕は脚を止めてしまうのだ。

 そして後になって後悔する。

 どうしてあの時、と。

 もっとも、今回に関して言えば、後悔できるかどうかすら怪しいところだ。なにせ、生きて帰れる保証すらないのだから。


 どうにも、僕は「主人公」にはなれないようだ。


「こんなところで座り込んでどうしたんだい?」


 声が聞こえ、身体が跳ねる。完全に虚を突かた僕は、反射的に首を声のした方向に向けた。

 一人の男がいる。スーツ姿で、長めの黒髪を背中でまとめ、僕の隣に同じような格好で座っている。

 その目は面白そうなものを見つけた。とでも言いたげに細められ、口角は小さく上がっている。

 あんまりに近くにいるものだから、その肌の異様なきめ細やかさだとか、それでいてどこか老獪な印象を受ける表情だとか、いろんな情報が頭を駆ける。が何より、僕を見ているこの男が、いつ、どこから、どうやって現れたのかが全く分からない。仮にワープしてきたと言われても、納得してしまうかもしれない。

「ぃつからそこに?」

 漏れ出た声は素っ頓狂で、我ながら滑稽である。

「先程」

「えっと、どうやって?」

「それはほら、普通に?」

 彼は明らかに普通ではないので、彼の基準でいう普通は多分、僕にとっては異常だ。

「僕は、この状況をどう解釈すれば?」

 おおよそ訳の分からない状況に置かれると、人というのは訊くことしかできないようで、言葉を覚えたての幼児のように、僕は何度も質問を投げかけた。

「そうだねぇ、救助隊が来たとでも解釈してもらえれば」

 彼はそう言うと立ち上がり、「あれ」へと向き直った。

「あれ、なんだと思う?」

 彼は視線を「あれ」に向けたまま僕に訊ねた。

 僕は改めて「あれ」を見て、その印象を伝えた。

「白い巨人……いや、鬼でしょうか」

「へぇ、なるほど、『鬼』か」

 彼はそう呟くと、査定でもしているかのように腕を組んで顎をさすった。変に様になっている。

「ま、取り敢えず今日は帰ろうか。しばらくは動かないだろうし」

 彼はしばらく黙り込んでいたかと思うと、唐突にそう言い放った。

「帰る?ここから出られるんですか?」

 流石に座ったままだと失礼だと考え、僕は彼に倣って立ち上がる。

「あー、ちょっと待って、いま開ける」

 まるで家の鍵でも開けるかのような調子。

 しかし、次の瞬間に起こったことは、決してそんな日常の延長にあるようなものではなかった。

 なんにせよ、結果としてそこにあったのは「空間の裂け目」としか形容できないような円状の何か。形を保ってそこにある。

 彼が何かをしたのは間違いないのだが、その何かは解らない。

 きっと、これは窓。ガラスに隔たれていても外を眺められるように、そこからはこことは別の場所、つまり元の場所が見えているのだと思う。

「さあ、帰ろう」

 僕の戸惑いに気がつかないのか、はたまた気がついていて無視しているのか、彼はそそくさとその窓を潜って行ってしまった。

 どうせなら、少しくらい説明してくれればいいのに。

 後に残された僕は、それを潜るのを何度か躊躇い、その度に自己嫌悪に苛まれ、しかし今さら他にできることもないと気づき、僕は彼を追うようにその「窓」をくぐり抜けたのであった。

 速い話が、覚悟を決めた。

 彼がもし、僕を騙す心づもりだったとすれば、帰ることなんてできないかもしれない。

 などと言うことを考えることを止めたのだ。

 人は、自分が信じたいものを信じる生き物だ。それがきっと、生きるのに必要なことだから。

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