第2話 マエガタリ 1/3

 電車を降りる頃にはすっかり日も暮れてしまった。藍色の寒空からは太陽の温もりなど、とうに感じられない。そこに浮かぶ月が西の空から冷たい風を呼び込み、なおさら寒い。

 人混みを抜け出て、ほっと息を吐き出す。滞って濁った、生ぬるい空気が肺から抜け出る。

 代わりに吸い込んだ冷たい空気は、電車の中よりも透き通ったものに感じられた。

 寒さに震える身体を少し鬱陶しく感じつつ、僕は改札へと歩みを進める。街灯がほとんどない駅は暗く、改札口だけがやけに明るく感じる。

 改札を抜けると、いつもの帰り道。違うことなど通る車の種類くらいのもので、それすらも送迎の車で順序が多少変わるくらいのもの。彼らは歩いて帰る僕の横を唸り声を上げながら走り去っていく。その警告灯の光が夜目には眩しくて、僕は目を細めるのである。

 聞こえてくる音など、耳につけたイアホンから流れるお気に入りの曲か、車が走る音だけ。

 なんてことはない、いつも通りの帰り道である。いつもの通り変哲がなく、いつものようにつまらない。

 別に刺激を渇望している訳ではない。むしろ僕の身には世の中は煩わしすぎる。別に変化が欲しい訳でもない。変わるというのはそれだけで心労が絶えない。

 ただ、つまらないのは、面白くない。

 ふと見上げた空にはチラチラと雪が散り始めた。気のせいだろうが、寒さがより引き立てられたかのように感じられる。

 予報では雪なんて降らないはずだったのだけれど。


「ぼ

ご」


 何の前触れもなく、詰まっていた排水孔の水が流れ出したかのような音が響いた。音の出処は僕の歩いているすぐ横である。

 大きく鳴り、まばらな建物に反響する。その余韻は決して味わい深いものではなく、むしろ、不意にテレビをつけて恐怖映像に遭遇したかのような、恐怖というか、不安を感じるような響きがあった。

 聞きたくもなかったものを聞いてしまった。

 そんな無念とともに、半ば観念した僕は、そこに目を向けた。

 最初は、何か、下水道か何かが詰まっていたのではないか、とも思った。

 しかし、それはあり得ない。なにせ、音が聞こえたのは、真冬の田んぼだ。水など通っていようはずがないし、よしんば下水道が詰まったのだとしても、地上まで聞こえる音が出るはずがないからだ。近くにはマンホールもなく、音が漏れ出す隙など少しもない。

 ゆえに僕は、咄嗟に巡らせた首の方向のその存在が紛れもなく、「異音」の主なのだと確信できた。

 その姿は鬼と形容するのが良いのだろうか。巨大で白い、人型の肉の塊。角こそないが、その巨躯を支える肉付きの良いその形は、まるで鬼のよう。

 認識に伴って戦慄が走る。その巨体を認識した瞬間から、自分の身体が緊急事態への対応を迫られる。血管が拡がり、消化が止まり、鼓動が早くなるのを感じた。

 あれは、やばい。

 恋は理屈ではないと最初に言い出したのは、どこの誰だか知らないが、そんな経験をしていない僕でも、今ならその気持ちがわかる。理屈でなく危険だとわかるのであれば、そういうこともまた、あるに違いない。敢えて言い換えるならば「変も理屈ではない」だ。

 僕は一目さんに走り出した。もちろん、僕にはそんな存在に立ち向かえる勇気などないし、そもそもそんな動機もない。動機もないのに死地に赴けるのは自殺志願者だけだ。厳密にはそれだって、「自分を破滅に導く」という動機があるのだから自殺志願者ですら無いのかもしれない。

 ともかく、僕は自殺志願者でも無いし、動機なしに動ける化生でもない。だから逃げた。

 街灯のない暗い道を逃げ続ける僕は、いつも通るはずの道がやけに長くなったように感じた。

 いや、それは勘違いで、進んでいないのだ。同じ場所をぐるぐると回っているかのように、進めば進むほど、元の位置に戻ってきているのだ。確かに進んでいる感覚はあるのに、視界に映る景色に変化がない。

 横目に見える「あれ」の姿は暮れの闇の下で朧げ、しかしはっきりと消えることはなかった。

 今の状況を例えるならば直線の迷路。真っ直ぐ道を進んでいるのに、ルームランナーにでも乗せられたかのようにその場から動けない。

 動いているのに動いていない。

 この状況でも、パニックに陥ることなく考えられる自分に感謝しつつ、僕は諦めて走る脚を緩める。どうせ抜けられないのなら、歩いても一緒だ。

 かと言って立ち止まるのも少し違う気もするので、僕の頭の中にはいろんな考えが浮かんでは流れていく。

 今の状況は一語で言えば「緊急事態」、二語で言うならば「異常な緊急事態」。あるいは、こういうのを現実を侵食する狂気とでもいうのだろうか。「宇宙的恐怖」じゃあるまいし、勘弁して欲しい。

 僕は歩きながらも、首を巡らせて改めて「あれ」を観察する。それは人型ではあるが完全な人の形であるとは到底言えない代物だった。真白い巨体はアンバランスで、今にも崩れそう。しかしそれでも形を保ってそこにある。今直ぐに動き出すような気配はない。が、それらは僕の「常識的な見解」であるゆえ、あの「非常識」を前にして、常識を当てにする方が間違っているような気もする。

 常に最悪を想定して動くのが、僕のやり方。

 もっとも、こんな状況に陥ることなんて、今の今までありやしなかった訳だが。

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