第6話
とりあえず今日は帰ることにした。
保健室でいかにも具合が悪そうな演技をしつつ、早退の申請をして担任に挨拶して学校を後にする。流石に教室に戻る気は出なかったので、かばんも置きっぱなしだ。
思わずため息が出る。
「どうした、辛気臭い。昨日のあいつのことなら心配いらねぇって言ったろ」
「そっちじゃない。明日から、どんな顔して教室の扉を開ければいいかってことを考えるとため息も出るわよ」
あの時の私はどうかしていた。思い出すと身悶えする。
正門前の壁に寄りかかり頭を抱えた。穴があったら入りたいという気分を人生で初体験中だった。
「ああ……、なにあの痛々しい態度は」
昼は特にひどかった。
「まぁ気にすんなって。ありゃちょっとした精神異常みたいなもんだ。グールになるまではその人間の中身がちょっとずつはみ出しちまうのさ」
「それって、私の本性があんな痛い子ってこと?」
「痛いかどうかはわかんねぇが、まぁそういうことだな」
なんということだろう。もう死ぬまで自分の本性を出すまい。あんな自分には深く静かに眠っていてほしいと切に願う。
「そんなことより嬢ちゃん、これからどうする気だ。夕暮れ時まではまだ時間がある、出来るだけの備えはしといたほうがいい」
ナイフが言う。時刻は一時を回った辺り、午後の授業はもう始まっている。日没まではあと五時間といったところだろうか。
いい加減に壁から身を離して歩き始める。カバンも何も持っていないはずなのに、妙に体が重かった。
気を取り直してナイフの声に対した。
「準備って、あなたがいればどうにかなるんじゃないの?」
「流石になんの準備も無しにとはいかねぇさ。嬢ちゃんが力ずくであの男をねじ伏せられるんなら別だが、そんなことが出来るならこんな状況になってねぇだろう」
それは確かにそうだが、このナイフならもっと簡単に対処できそうな気がしていた。ちょっとがっかりする。
「しょうがないわね。で、その準備の前にちょっと聞きたいのだけど」
「なんだ?」
「あなたの声って、周りの人間には聞こえているの?」
脳に響いているような、それでいて耳元でささやかれているような声。今は周りに誰もいないからいいが、聞こえているにせよいないにせよ、どう聞こえるかは知っておかなくてはいけないと思った。
「さっきから質問ばっかりだなぁ」
「いいから答えなさい」
「へぇへぇ。まぁ答えはどちらでもあるしどちらでもない、だな」
「どういうことよ。もったいぶらずに簡潔に話なさい。捨てるわよ」
「あー、お前はそういうやつなんだな。ともかくも言ったとおりだよ。聞こえるやつがいるし、聞こえないのもいるってことだ。これはようするに、波長の合う奴かそうでないかってことだ。電波の周波数みてぇなもんだよ」
ずいぶん適当な表現だ。だが、理解はした。
つまり、異常な聞こえ方をするってことだろうか。
「聞こえたり聞こえなかったり、面倒ね。どっちかにしてくれたらやりようはあるんだけど」
電話してる風に装うとか、そういう感じに。
「つっても聞こえない方が大分多いとは思うがな。聞こえるかどうかってのは相性だ」
「相性って……それ、私とあなたの相性がいいってこと?」
ケタケタと笑う声が聞こえた気がした。
「ああ、俺たちの相性はここ数百年でも見なかったくれぇいいぜぇ。こんなにはっきりと魂の形が見える奴は久々だからな」
「魂の形?」
耳慣れない言葉をナイフが言った。
「それこそ、嬢ちゃんにはわからねぇ感覚だろうよ。まぁともかくも、抜群に相性がいいってことだ」
「気持ち悪い」
「ずいぶんばっさりいうねぇ。まぁ、そういうわけだから嬢ちゃんとは仲良くしてぇんだよ。あんまり冷たくしてくれるな」
こんな人ですらないものと相性がいいといわれても、当然だがうれしくはない。むしろ、普通の世界からかけ離れた場所の住人のような気分になって、より一層の孤独を感じる。
「私は穏やかに人生を過ごしたいのよ」
「そいつは無理だ。嬢ちゃんみたいな性質の人間は、どうあっても波乱含みだよ」
ナイフが嗤う。聞こえないはずの笑い声が、全身にまとわりつくように肌を撫でた。
色々と準備をした。といっても百円ショップで大体のものは揃ったのだが。
まず、猫缶を買った。
「何で猫缶……?」
「まぁ、身近な野生動物っていや野良猫だからな。あとはカラスとか野鳥の類だが……、あいつらの方が警戒心は強いからな。少し弱いが、まぁしょうがないだろう。数で押すしかねぇな」
「何でそんなことを……」
「いいからその猫缶をナイフ使って開けな。んで、公園に適当に撒いてくれ」
「猫への餌付けはマナー違反よ?」
「気にしてる場合かよ。急がねえと日が暮れちまうぜ」
仕方なしに、ナイフを突き刺した後に開けた猫缶をそこら中に置いた。ここいらの野良猫は大体この公園に集まるので、数匹の猫がすぐにあたりの猫缶に口をつけた。いくらなんでも、野良猫にしては食いつきすぎだと思ったが。
「猫は敏感だからな。霊薬の匂いに釣られてすぐに食いつく」
見渡すと、さっきの猫缶に数匹ずつ猫が食らいついている。こんなに野良猫がいたのか。一匹ずつみると可愛いのだろうが、群がっている姿を見ると少し怖い。
「それで、この猫たちをどうしようっていうのよ」
「まぁ見てな。そろそろ支配が効いてくる」
猫たちが猫缶から離れる。缶はすでにからっぽだった。猫はこちらに向かってトコトコと寄ってきた。
「とりあえず、これでこいつらは全部支配下にある。しばらくの間は俺がこいつらを操れる」
数えてみると猫は十二匹、色とりどりの猫が私の目の前に行儀よく座っていた。
「操ってるって……、あの猫たちはあの霊薬を口にしたせいで操れるようになったってこと?」
猫はそこを動こうともせず、まるで命令を待っているようだった。
「そうだが」
「じゃあ、わたしは……?」
わたしもこのナイフが操れるようになっているのだろうか。
「いや、そこらの動物と違って人間は我が強いからな。ちゃんとした術者がいなけりゃ支配は上手くいかねぇ。安心しな、俺が嬢ちゃんを操ったりは出来ねぇし、する気もねぇよ」
幾分か真面目なトーンで、ナイフは言った。信用していいのだろうか。今のわたしは、ちゃんと正気なのだろうか。
「言っとくが、昼に嬢ちゃんに霊薬呑ませたのは支配の解呪のためだからな。支配されかかっていたのは昨日のあいつと、あいつに術を施したどこかの術者のせいだ。文句はそいつらに言え」
「つまり、昨日私を噛んだあいつと、もう一人危ない人間がいるってこと?」
「そうだ。だからこそ、迎え撃つ準備は万端にしねぇとな」
「二人いるなんて聞いてない」
「今言った。っつうか、教えたところでやることは変わんねぇぞ。準備して撃退するだけだ」
そりゃそうなんでしょうけど。精神的な余裕が大分減った気がする。
昨日私を噛んだあいつがただの操り人形だというのなら、もう一人は、どれだけ狂った人物なのだろうか。
確かに私にとって、その情報はあまり意味がない。どのみち、対処法を知っているのはこのナイフだけなのだから。
だとしても、
「隠し事はやめてほしいものね」
「俺だっていろいろ考えてんだよ。考えてて、話すのを忘れちまった。まぁ許してくれ」
「……本当でしょうね」
「嘘はつかねぇさ」
信用できるか怪しいが、ほかに私を助けてくれそうな何かに心当たりもないのだ。
結局はこのナイフの言いなりだと自覚する。
猫たちが集う。目の前に整列した猫たちがこちらを見ている。
まるで犬のよう。
私のことを棚に上げ、私は思う。
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