第5話

 流石に目立ちすぎるので、手に刺さったナイフは抜いて、制服の裏ポケットにしまいこんだ。ダサイダサイと悪評高い紺のセーラー服だが、今はこれに感謝している。ナイフ一本程度ならさほど目立たず隠すことができた。

 不思議と落ち着き払っている。

 抜いたナイフの痕はもう既に消えていた。昨日の出来事、いや、これまでの通り魔の事件で何の物証も得られなかったのはこのせいか。

 妙に頭が回る。

 とりあえず、ひと目の付かない場所に行こうと思う。幸い、教室から出て行った私を追いかけてくる人間は一人も居なかった。

 この時間、どこも人で溢れている。昼休み、昼食をとり終えた生徒が騒がしい時間。さて、どこへ行こうかと思ったがイマイチ人の居ない場所、というのが想像できなかった。昼休みだって普段は寝ているばかりだったし。

 その時、声が聞こえた。

「向かいの建物に行きな」

「誰?」

 周囲を見渡す。教室の並ぶ廊下には生徒がまばらに歩いているが、私に話しかける素振りをする生徒はいなかった。

 ついに幻聴まで聞こえ始めたのだろうか。

「幻聴でもいいだろう? 向かいの建物には人が居ねぇ場所が多い。落ち着いて話そうぜ、幻とな」

 ますますはっきりと、その声が響いた。その声が耳に届いているのか、頭に届いているのかもわからない。

「よくわからないけど、なんだか……。胡散臭いって言葉がぴったりね」

「ありがとよ。まぁ、鵜呑みにしないだけの慎重さがある方が俺好みだ」

 響く声が笑った気がした。


 声に従い、辿り着いた場所は旧図書室だった。

 旧図書室というのは、学校敷地内に新たに作られた図書館によって役目を終えた、この学校設立当初からある図書室だ。今は古い本や傷んだ本などを収納する倉庫となっている。もしくは本の墓場か。

 埃っぽくて、古びた紙の匂いが充満した場所だ。掃除もろくにされていないのだろう。この実習棟には他に快適な場所はいくらでもあるので、幸いここには誰も居ない。そして、私はこの雰囲気が、嫌いではなかった。

「さて、幻の君は一体誰なのかしら。まぁ、大体予想は付くのだけれど」

 セーラー服の中からナイフを取り出し、呟く。刃物に話しかける女なんて、怪談噺にでもなりそうだ。そして、どこからか返答が響く。

「ああ、そりゃ目の前のいい男がその幻だよ、嬢ちゃん」

 ナイフの刀身が妖しく光る。これは、刃紋だろうか。その刃紋がゆらゆらと揺れていた。まるでニヤニヤ笑うように。

「さて、このままの状態で話してもいいんだが……、最初から支配を受けた状態じゃフェアじゃねぇよな」

「支配?」

「言ってわかるもんでもねぇよ。今嬢ちゃんは自分の状態に違和感も感じねぇだろうしな。ともかく、少し言う通り行動してくれ。まず、俺を机の上に置きな」

 特に疑問も抱かずに、その場に置いた。

 刀身が、ドロリと溶けた。机の上に溶けた金属と柄の部分が残される。

 流石にちょっとびっくりして飛び退った。

「引くなよ。まぁいいが、ともかくこいつを舐めな」

「舐めるって……」

「そのままだよ。指先に一滴、それ以上はやめときな」

 金属質の液体を舐めるのは抵抗があるが、何故かものすごく美味しそうにも見えた。

 小指に一滴、掬って口元に持っていく。

 甘い。

 それと同時に何か、しびれが……。頭の中が、急に晴れていく感覚が駆け巡った。それと同時に、これまでのことに大して自分がとった行動に戸惑う。

「なに、なんなのよこれは!」

 思わず、叫び声を上げた。記憶が頭をかき回す。

「おはようさん。ようやくお目覚めか」

 机の上に広がった金属が集まり、またナイフの形をとった。

「少しは落ち着いたかい、お嬢ちゃん」

 未だ響く声が、整えた息をまたすこし荒くさせてた。

「…………、この声は、なんなの……」

「さっき自分で言ってたじゃねぇか。俺は目の前のナイフだよ。まぁ正確にはナイフそのものじゃねぇけどな」

 机の上に置かれたナイフは微動だにしていない。さっき溶けた刀身を口に入れたことが夢の中の事みたいに感じられた。

「さっきのは……」

「夢じゃねぇよ。お嬢ちゃんが舐めたあれのことなら心配しなくていいぜ」

 甘い銀色の液体。今のところ体に異常はない。むしろ、だんだんと頭も体もすっきりとしてきた。それでいて、とても眠い、いつも通りの状態。

 少し前の記憶の中にいた自分よりも、いつも通りの自分。

 それでも、やはりわけがわからないものに違いはない。

「あんな得体のしれないものを口に入れて、心配しないわけないじゃない」

「得体が知れないのはわかるが、そんなに心配するもんでもねぇよ。嬢ちゃんにとってはただの気付け薬みてぇなもんだ」

「クスリ?」

「ヤバイもんじゃねぇっての。むしろこの世界で最高の秘薬だぜ。あらゆる病に効く万能の霊薬だ」

 霊薬……、やはり得体がしれない。

「ともかくも、俺は嬢ちゃんを救ってやったんだぜ。感謝されこそすれ、敵意を向けられる謂れはねぇよ」

「救った?」

「ああ、救った。あのままなら、嬢ちゃんは間違いなく人では無くなっていたんだからなぁ」

 ナイフがカタカタと揺れた。あれも、笑っているということだろうか。結構わかりやすい感情表現なのかもしれない。

 そして、少しだけ分かってきたこのナイフの言葉。

 このナイフが言うには、私が人ではなくなっていた、と。

「一体何になるっていうのよ」

「人喰いだよ。グールって言ったらわかりやすいか? そして、それを通り越せば生ける死者となる。こっちはゾンビと言うのがいいかね」

 グールにゾンビ。そして目の前のしゃべるナイフ。まるでB級映画のようだ。

 だが、それを信じるにせよ信じないにせよ、今はもう大丈夫、らしい。

 たしかにさっきまでの私は異常だったのだ。

「ともかくも、そうなる前に対処は出来たわけだ。あとは代償だけだな」

「代償?」

「ああ、世界最高の霊薬を嬢ちゃんに分け与えたんだ。たったひとしずくと言えど、その価値は嬢ちゃんの体をいくら売っても足りねえくらいだ」

 ずいぶん失礼な物言いだと思った。それに、勝手にそっちが分け与えておいて、何かを要求されても困る。

「そんなこと言われても、私はお金なんて持ってないわよ。売れるような体でもないし」

「いやいや、嬢ちゃんは地味ながらも結構いい体してるぜ。俺としちゃあもうちょっと肉付きがいい方が好みだがな」

「なんか普通のエロオヤジ相手にしてるみたいで不快なんだけど」

「まぁ俺の好みはさておき、ともかくも代償は払ってもらうさ。それに、金や体でどうこうしてもらおうってんじゃねぇよ。少しばかり協力して欲しいのさ」

「協力?」

「ああ、俺をお前の側から離すな。それだけでいい」

「なによ、それ」

 正直、こんな不気味なナイフは早く川にでも投げ捨てたいのだが。

「そんな要求私が従う必要はあるの? ナイフのあなたは自分で動けもしないし、適当な場所に投げ捨ててもいいんじゃないかしら」

「そうだな。それでもいいぜ。別に俺も捨てられて困ることはねぇ。いつか誰かが拾うまで気長に待ってりゃあいい。無限の時間があるからなぁ。だが嬢ちゃん、あんたを襲ったあの男はまた必ず嬢ちゃんの前に現れるぜ」

「また来るかどうかなんて分かるの? ただの通り魔でしょう」

「いいや。昨日嬢ちゃんを噛みかけたからな。ナイフを引き抜いたことで力が弱まっただろうが、支配が完全に解けたわけじゃねぇ。昼間はおとなしくしていても、日が暮れりゃどうなるか。あいつは嬢ちゃんの匂いと味を忘れねぇだろうよ」

 匂いと味。その言葉に。昨日噛まれた肩の感触を思い出して震えた。

「……あなたが居れば、対処できるの?」

「出来るさ。嬢ちゃんにやったみてぇに、治療してやればいい。それで当面はなんとかなる」

 あまり信用はしたくないが、昨日のように襲われたくはない。今度は無事に逃げおおせるとは思えない。

 それに、信用ができないとしても、このナイフ自体にはあまり害はないのかもしれない。ただ、薄気味悪いだけだ。

 結局、そのナイフの条件を呑むことにした。

「わかったわ」

「いや、物分かりが良くて助かるね」

 ケラケラと笑い声をあげるナイフが、机の上で躍った。

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