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柴田彼女

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 近所の中学校指定のセーラー服を着たその少女はきっと思春期真只中で、だから大人の女性のような背伸びをしてみたくて、けれどそれを正しく手に入れるためのお金がなかった――どうせそんなところだろう。どこか怯えた様子で少女がポケットに一本の口紅をしまい込むのを見ながら、私はそんなことを考えていた。

 少女が店を後にしてから、彼女が盗んだ口紅のテスターを自らの手の甲にこすりつけてみる。安物の不透明絵の具のように赤くちっとも品のないその色が、地味で貧相で頼りなげなあの少女に似合うはずはない。


 *


「ねー。大畑さんさあ、金曜日ヒマ?」

「え?」

「だあから。金曜日、あさって。ヒマですかーって訊いてんだけど」

「え……ええと、なぜですか?」

「んー? ふふふ。だって、合コンするからさ。合コン」

 ネイル用品コーナー、優香さんは【新商品!】と書かれたポップがつけられたマニキュアのピンク色だけをピックアップし、繰り返し瓶を光に翳してはその色味をじっくり確かめていた。合コン、と聞き、一瞬彼女が私をそういった場に連れていこうとしているのかと思い、けれどすぐさまそんなはずがないだろうと自ら思考を切り替える。地味で、貧相で、頼りなげで、どこをとってもつまらない私のことを、彼女のような派手な女性が合コンに誘うわけがなかった。どうせ優香さんの狙いなんて休日の交換に決まっている。

「ああ、合コン……それでマニキュアを?」

「そうそう! 爪ってさあ、結構見られてるもんじゃん? 普段はサロンでジェルやってもらってるんだけど、こないだ行ったら“ちょっと爪薄くなっちゃってるから、しばらくお休みしないとだめですよー!”とか言われちゃって。もうめっちゃショックー、すっぴん状態の爪とかさ、恥ずかしすぎて死ぬ、耐えらんない! こう、パンツ穿いてないみたいっていうかね、おかげでここしばらくずっと具合悪いもん」

「はあ」

 どっちの色がいいかなー、などと言いながら優香さんは極めて自然な流れで二つの商品を開封した。思わず「ええ……」と呟いてしまうが優香さんは気にする様子もなく、左手の人差し指と中指にそれぞれの色を塗り、

「ねえ、大畑さんはどっちがかわいいと思う?」

 私へ反転したピースサインを向ける。

「…………人差し指のほう、ですかね」

「え、ほんとに? 大畑さんセンスなくない? あたしはこの色、地味でダサいなーって思ったあ」

 優香さんが無許可で開封した商品のキャップに油性ペンで【テスター】と書く。このドラッグストアでは、マニキュアにはテスターではなくメーカーから渡される色見本を設置することになっていた。彼女は三本目のマニキュアを手に取り、それをエプロンのポケットにしまうと、

「店長には万引きされたってことにしといてね」

 そう言い残し、ひとり休憩室へと行ってしまう。

 安物のマニキュア独特のつんとした臭いがあまりにも不快だ。私は優香さんの姿が見えなくなったことを確認したのち近くにあった消臭スプレーのテスターを辺りに振り撒いた。甘ったるく、べたべたと鬱陶しい「いかにも」な合成香料の花の香りは私の澱みを悪化させる。



 帰りしな、私よりも先に優香さんへ声をかけたのは店長だった。猫なで声で返事をした彼女へ店長は淡々と、

「帰る前にさ、お金だけ、払ってもらっていい? 三本分。千三百二十円」

 右手を差し出しながら言う。優香さんの目は泳ぎ、「え、なに、どういうことですか?」と明らかな動揺を見せていた。

「兎にも角にもうちは人手不足だし……ちょっとくらいならって目をつむってたんだけどね。さすがに多いわー。君、今までのバイトの子でも断トツでひどかったよ。誤魔化し方も雑だしさあ……何? テスターって。誰が許可した? そんなん」

 優香さんが舌打ちをする。水色の長財布から二千円を取り出し店長へ抛ると、何も言わずに置きっぱなしの荷物を全て鞄の中へ強引に詰め込み始める。

「ああそうだ、ポイントカード。出してくれればつけるけど? きょう三倍デーだし」

 優香さんは店長の言葉を無視し、香水の瓶を鞄に押し込む。

「あ、それもうちの商品だよねー。あのう、お会計前ですよねえ?」

 優香さんが再び財布を開く。五千円を放り投げる。店長が笑いながら「へえ、今までのぶんあわせて七千円で足りると思ってるんだ? ホント面白いねー君! 最高だよ。さすがさすが!」と、優香さんを指さし大袈裟に手を叩く。優香さんが店長を睨む。

「んー? 何、その顔。警察呼ぼうか? 防犯カメラの映像、うちは長めに保存しておくルールだから結構面白いことになると思うけど」

 優香さんが財布の中の札を一枚残らず店長に投げつける。店長は「これでも足りないんだからすごいよねー、俺には理解できないわー」などと言いながらそれを自身のエプロンのポケットへしまい込む。優香さんが裏口から出ていく。彼女はすれ違いざま私へ、

「チクってんじゃねえよ。死ね」

 と吐き捨てた。こういう子は合コンで男性からどのような扱いを受けているのだろうか。私には何の想像もできなかった。


 優香さんの足音が全く聞こえなくなったころ、再び店長は口を開き、

「さてと……」

 鍵穴のついた引き出しから一冊のファイルを取り出す。どうやらそれは従業員の契約書類などをまとめたもののようで、中には優香さんの履歴書もしっかり収められていた。店長は優香さんの保護者欄を確認し、電話番号と彼女の父親らしき男の名前を適当な紙に書き写す。やけに画数の多いその名前は、結局一文字目以外片仮名で書かれた。

「子の不始末は親が責任とらないとねえ。それが世の道理だから。採用時はまだ未成年だったから親に連絡もつくし、それだけが救いだわ」

 メモ用紙を乱暴にポケットにしまい、店長が出ていこうとする。私も退店してしまおうと「お疲れさまでした」と言いながら頭を下げると、そのタイミングで店長が、

「しかし大畑さんもさあ……なんで止めてあげなかったの? あの子と違って私は悪いことしてないしー、とかって思ってるのかもしれないけど、俺それは違うと思うんだよね。目の前に万引き犯がいて、しかもその子はバイト仲間でさあ。犯罪は犯罪なんだって、せめて俺まで情報あげてくれないと困るよ。大畑さんの、なんかそういう……事なかれ主義? みたいなところ、マジでよくないと思うわ。それって結局無関心なだけ、我関せずなだけじゃん。今回だけはまあ許してあげるけど、そういう在り方ってさあ……なんていうか人として、下劣だよね。正直ないわ」

 私だけを部屋に残し、ドアが閉まる。

 人手不足だし。

 ちょっとくらいならって目をつむってたんだけどね。

 先ほどの店長の台詞が当てもなく宙に浮いている。


   *


 優香さんが辞め、できた穴は全て私が埋めることになった。このまま八日連続勤務、一日休みを挟んでその後はまた八連勤、さらに一日休みを挟んで十連勤。

「働ける場所があるだけありがたいと思わなくちゃね!」

 と笑った店長はきょうと明日二連休だという。


 入り口近く、先ほど女子高生グループに荒らされたリップクリームのコーナーを整えていると、再びあのセーラー服の万引き少女がやってきた。彼女は店員である私に気がつくとわかりやすく身を縮め、薄く口を開いて、しかしそのまま踵を返そうとする。

「ねえ」

 私は彼女の背に声をかける。彼女が、はい、と返事をする。

「さっきの口紅のことなんだけど」

「…………はい」

「まだ持ってる?」

 少女がスカートのポケットに手を入れる。ゆっくりと引き抜かれたその手には先ほどの口紅が握られていた。少女はその手を私に近づける。私は無言でそれを受け取り、口紅が置かれていた棚のほうへと歩き出す。少女も大人しく私の後ろをついてくる。

「ねえ、なんでこの色にしたの?」

 陳列された口紅を指さしながら、私は少女へ問う。少女が盗んだ口紅は他にも十種類以上の色味があった。少女はしばらく黙っていたが、観念したのか小さな声で、

「お母さんが……」

 と言った。

「ああ、そう」

 おそらくは母親が引く真っ赤な口紅を見てあのような衝動に駆られたのだろう。私は彼女の顔をちらりと見、それから、

「あなた、肌白いし黒髪だし、確かに赤い口紅も悪くはないと思うよ。でも、もし私の見た目があなたみたいだったらこっちを選んだと思う」

 少女へ薄いサーモンピンクの口紅を手渡す。

「あの……」

「レジはうまく誤魔化しておくから。でももうこんなことはやめた方がいいよ。特にこの店では。私も、次は見逃してあげられない」

 少女は私に何かを言いたげな様子でパクパクと口を開いては閉じ、けれど年老いた女が入店し「店員さあん、ちょっとお願いしてもいいかしらあ」と私へ向かって声をかけた瞬間、少女は私へ深く頭を下げ、そのまま店を後にした。


 私は老婆の元へと駆け寄り、彼女に言われるがままケースの缶コーヒーを担いでレジを通し、車まで運び入れる。

 老婆に執拗なまでの礼と興味のない世間話を伝えられる最中、ふと斜向かいのコンビニエンスストアの駐車場に先ほどの少女の姿を見つけた。少女は三十代後半ほどの女から大声で詰られていて、女は「へたくそ」「馬鹿」「出来損ない」などというわかりやすい暴言と「色が違う」「これじゃない」「何度も間違いやがって」という台詞を交互に発していた。

 少女が俯いたままじっとしていると、女は少女の後頭部を力任せに叩き、思わずよろけた少女の顔面に何かを投げつけた。コンビニの中には店員が、近くのバス停にも複数人の大人が立っていたが、誰も二人を止めようとはしなかった。

 その後少女は髪を鷲掴みにされ、近くの車の後部座席へ押し込まれる。女は乱暴にドアを閉めながら「死ね」と少女に向かって叫び、苛立ちを隠そうともせず運転席に乗り込むと、周囲を確認することもなく勢いよく走り去っていく。



 バイト終わり、私は少女が詰られていたコンビニの駐車場へと立ち寄った。彼女が立っていた場所には私が手渡したあの口紅が落ちていて、しかしそれは車に轢かれてしまったのだろう、砕けたケースからはあの綺麗なサーモンピンクが吐き出されていた。

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