死に際の友人

ノリコY

第1話


じんわりと汗がにじむ。 勝手口から静かに帰宅した美香は、喉が渇いていた。 キッチンの窓を開け放つ。 夜の間にこもった熱気を逃がす。 冷蔵庫のモーター音だけが、背後に聞こえる - 静かな朝だ。


カタッ


はっ。 一瞬ドキッとしたが、美香はすぐに落ち着きを取り戻した。 娘だ。 早く目を覚ましたのだろう。

「お母さん? おはよう。 早いね。 散歩に行ってきたの?」

「そうよ。 朝は気持ちがいいでしょう?」

母の返答には興味を示さず、大きくあくびをし、

「暑いね。 水分補給して、私は二度寝する。」

「夏休みが始まったからって、ゴロゴロしていてはだめよ。 遅くとも九時には朝食にしなさい。」

冷蔵庫のウォーターディスペンサーから水を注ぎ、冷えた水を一気に飲み干した十七歳の娘。 無造作にコップをテーブルの上に置き、二階の部屋へ戻っていった。 一人キッチンに残された美香はほっとした。 一人になりたかった。 まだあの余韻が残っている。 心を取り乱すことはめったにない美香。 いや、取り乱してなどいない。 いつも通り平常心を保てていたはずだ。 ただ、わずかに気分がざわついている - そう言ったほうが正しい。

腰を上げ、美香も水を飲もうとした - そして手が止まった -

「冷たくておいしい!」

そう言ったあの老女の声が耳に響く - さっき死に別れた、あの -

口をさっぱりとしたかった。 だが、水を飲む気にはなれない。 気がつくと、ドリップ式のホットコーヒーを入れていた。 広がるコーヒーの香り。 現実の世界が戻ってくる - (ううん、あの体験だって現実じゃない…。)

夏休みでよかった。 次女もしばらく起きてこないだろう。 今は静かな時間を過ごしたい。 


昨夜。 深夜 - 美香はダークグレーのスポーツTシャツと黒のトレーニングパンツに身を包んでいた。 勝手口をそっと抜け出し、夜道を歩く。 隙だらけだ。 今日も熱帯夜が続く。 窓を開けたまま夜を過ごしている家があちこちにあった。 街には防犯カメラが多く設置される時代。 それでもなお、美香には分かる - “どこが死角なのか”


誰にでもある、自然な感覚だと思っていた ― 見られているのか、見られていないのか。 美香には手に取るように分かる。 それが年齢とともに、自分にのみ存在する特別な感覚だと気がつき始めた。 テストの時のカンニングだって、しようと思えば簡単なこと。 なのに他の子供たちはしようとしない。 

(誰も見ていない瞬間が分からないの? みんな、なんておバカさんなんでしょう!)

自分の特別な感覚を熟知すればするほど、他人より上だと感じるようになった美香。 と同時に、それを生かせない自分を悔しくも思った。 共感する相手すらいない。 美香はこの感覚を“第六感”と呼んでいた。 第六感のことはだれにも言わない。 普通の人間を演じる。 そうしないと、変人扱いされてしまうと思ったからだ。 いや、変人ならまだいい。 何かが起こるたびに自分のせいにされそうな気がして - それに早いうちに気付いた己のスマートさに、(確か小学生低学年のころだ)更なる優秀さを感じた。 美香には冷めた感覚とプライドが育ち、同時に、内に秘めた、どことなく謙虚な姿勢が育っていった。 もともとソフトだった喋り口調も手伝って、美香が周囲に与える印象は、真面目で好印象なものとなっていった。


アパートの一階の窓が開いたままになっている。 掃き出し窓だ。 掃除がしやすく、解放感がある。 日本では人気の窓だ。 しかし、防犯面から考えれば、なんと呆れた窓だろう! こんなに侵入しやすい窓はない。 泥棒にお入りください、と言わんばかりだ。 美香は意識を集中させ、周囲を感じ取る - 大丈夫だ、誰も見ていない。 人の気配もない。 防犯カメラも感じ取れない。 美香は堂々と侵入した。


ワンルームアパート。 暗闇に慣れた目は、差し込む街頭の灯りだけで十分に室内を観察できる。 床はフローリング。 洋風にリフォームしたのだろう。 奥にはキッチンとユニットバス、玄関が続く、典型的な間取りだ。 家に上がって数歩歩いたところで、美香ははっとした。 ごく小さな気配を感じたからだ。 部屋の右側に布団があるのは分かっていたが -

(まさか!)

人がいた - 人が寝ていた。 タオルケットが無造作に置いてあるだけだと思ったのに。 人。 小さい。 細い。 こんな小さな存在は見たことも感じたこともなかった。 

(人の気配を感じ取ることができなかったなんて、初めてよ!)

幸い、この小さな人間は眠っているようだった。 が、違った。

「あら。 まあ、まあ。」

か細い女性の声がした。 女性 - 高齢のようだ。  美香の胸が大きく波打つ、冷汗が体を包む - 今まで何度も窃盗を繰り返してきた。 滅多なことでは動揺しない美香だったが、足がすくんでしまって動けない自分がいた。 逃げようものなら、冷静さを失い、物音を立ててしまいそうだ。 近所に聞こえるかもしれない - 様々な考えが頭をよぎり、キッチンのほうを向いたまま、体はますます固まってゆく。

「いいのよ、いいのよ。 嬉しいのよ。」

嬉しい… - 確かにそう聞こえた。 体はなお固まったままだが、眼球だけを動かすことはできる。 女性を見た。 


ああ! この女性は間もなく死ぬのだろう! そう見て取れた。 美香は人の死に立ち会ったことはない。 弱った人の介護をしたこともない。 だが、人の直感として、この人はもう先がない、ということだけは感じ取れた。 あと数時間の命だろうか。 女性の体は、見れば見るほど細い。 干からびてすら見える。 枕元には水差しとコップがあって、どちらも空だった。 コップは倒れたままだった。

美香の脳が瞬時に計算する - この女性は、警察に行く時間も、体力も残っていないだろう。 少し気が楽になった。 ああ、それにしても情けない! どうしてこの女性の気配を感じ取れなかったの?  それは… 消えそうな命だから? そうだ、きっとそうだ!

「あなた、泥棒さん?」

返事をすべきだろうか - 立ちん坊を続ける。 

「大丈夫よ、私はもうじきお迎えが来るから。 誰に見つかるってこともなくてよ。 でもね、嬉しいのよ。 私、ずっと一人だったから。 ああ、最後、誰か人に会えただなんて。」

老女はここでいったん言葉を区切った。 話すのもやっとだ。 それでも、誰かに会えたことがよほど嬉しいようで、何とかしゃべろうとしている。

「あなた、女性? そうよね、もう、目はあまり見えないんだけど… 分るわ。 物腰で。」

女性はそれっきり言葉を失った。 死んだのだろうか? いや、まだかすかな気配を感じる。 ごく小さな咳をやっとの思いでして、それから、

「お水を…。」

美香はとっさに反応してしまった。 キッチンまでサッと歩く。 シンクには、何日も前に使ったであろう、食器が入ったままになっていた。 水切りにあった湯のみ茶わんに水道水をつぎ、急いで女性の脇へかがみこんだ。 自力で起き上がることは無理だろう、左手を女性の背中へ回し、起こそうとする。 コツコツとした女性の背骨が美香の手のひらへあたった。 なんて軽い! 湯のみを彼女の口にあてた。

「冷たくておいしい!」

ほんの一口しか飲んでいない。 それでも老女は生き返ったような、安心の笑顔をたたえた。 一口がやっとのようだ。 ゆっくりと女性を横にした。

「ありがとう。」

まるでしおれた花が蘇るよう…。 最後の力を振り絞って、精一杯、残りの時間を生きようとしているように見えた。 

「私の娘くらいの年かしら、あなた。 優しいのね。 手の添え方で分かってよ。」

さっきより声がしっかりとしている。

「よくできるお方なのね。 そうでなければ、泥棒さん、やっていられないでしょう?」

…まさかこんな言葉を聞くなんて! 泥棒を前に、この人は何と言うことを言うのだろう! 息が一瞬止まった感じがした。

泥棒であることは人に打ち明けられない。 苦労も達成感も自分の中にすべてしまっておく。 それが、今、こんな形で人から認められるとは!

美香の心境の何かを察したようで、女性は、

「…率直過ぎたかしら?  …こんなふうにねえ、一度でいいから率直にしゃべってみたい、って思っていたんですよ、おほほ。」

ほんのちょっとの軽やな笑い声 - 間をとりながら、女性は話を始めた。


「大体ねぇ、犯罪者になる方はできる方なんですよ。 できない方は、すぐにつかまってしまいますものね。 観察力、俊敏性、臨機応変性、どれも大切よねぇ。」


「…お声を聞かせてもらってもいいかしら?」


「大丈夫よ、私はもう長くはないわ。」


「…言えないのね。 あなた、しっかりしているわ。 私がもし、生き延びてしまったことを思えば、声を明かさないほうが賢明よね。 死にそうな老婆を前に、すぐ感情的になるようじゃあ、プロ、じゃないですからね。」

女性は少し考えてから、


「最後のわがまま聞いてくれるかしら。」

わがまま? 美香は不意を突かれた - こんな状態で、今彼女が言えるわがまま? 思いつかない。 頭の切れの良さでは自信があったのに - 


「自分のことを話したいのよ。」

そんなこと…。


「…私は今までずっと聞き役だったんですよ。 家族の中でも存在感がなくて…。 縁の下の力持ちで…。 主人も娘も、私の話なんて聞いたことがないのよ。」


「言いたいこと、いっぱいありました。 でも、私も古風だったのね、黙っている方が女性らしいと思って。」


「お母さんはほおっておいても大丈夫 - そんなふうに思われていたんでしょうねぇ。」


「大丈夫じゃない時だってありましたよ。」


「気がついたら、なーんにも言わないまま、おばあちゃんになっちゃった。 お迎えもすぐそこまで来ているだなんて。」  


「主人は頑固で、昔風で。 それでいて、借金作って。 私がみんな返したわ。 娘に心配させたくなかったから、娘には言いませんでした。」


「でも。 それがいけなかったのかしら。 娘はね、何の苦労も知らずに育って、どこかのお金落ち探してきて、結婚して、ハワイに嫁に行っちゃった。 あっけなかったわ。」


「私とは正反対な子だったねぇ。 ちっとも真面目じゃなくてね。 いつも楽することばかり考えていた。」


「まったく…。 おおざっぱさんは困りますよ。 主人の借金だって、元はざる勘定が原因ですからねぇ。 娘だって無駄遣いしたり、やれ忘れ物だって騒いだり…。 今だって、おちょこちょいのままでしょう、 世話好きな旦那さんが色々手を焼いていることでしょう。」


「ほんと、世の中は、人に頼り切って生きている人が多いこと。 それを助けちゃった私もいけないんでしょうね。 持ちつ持たれつ、なんて言いますけどね。 それはいいことなのかしら?」


…彼女の言うとおりだ。 美香は町内会の班長を務めている。 正直、要領が悪く、迷惑な人もいる。 そんな班員を美香は優しく助けてしまう。 知らん顔はできない、助けなければ、もっと面倒なことになるから - 言い換えれば、単なる面倒回避だ。 それだけのこと。 本音を言えば、優しさなんてない。 いや、むしろ、自分のために、他人に優しくしているんだ。 


「私は甘え下手でしたねえ。 人に頼るのが苦手で。 人付き合いも上手じゃありませんでした。」


「家出しようか、とも思いましたよ。 そうすれば、主人も娘も、私のありがたみが分かったでしょうからね。 でもそうする勇気はなかった、なんて意気地なしだったのかしら!」

…娘さんは嫁に行き、今は一人…。 一人になってどのくらいなんだろう。 旦那さんはどうなった? ここに住んでいる様子はない。  


「あなた、私と似ているわ。 いいえ、あなたの顔はよく見えないし、私は泥棒をやったことはないですよ。 でもね、泥棒をしているということは、秘密が多いでしょうから。 言いたいことを、言わずじまいにしてしまうことが多いんじゃないの? ああ、普段はおとなしい方なのね。」


「お子さんはいるの?」

うなずく美香。


「そう。 でも。 お子さんは、あなたとは似ていないのね?  似ていたら、子供が同じ道を歩まないように、あなたは足を洗っていたんじゃないかしら。」

そんなふうに考えたことはなかった。 娘たちには明らかに第六感がないからだ。 でももしあったとして…それを泥棒業に使い始めたら… 心配事が増えて、泥棒業そのものがもう魅力的ではなくなるだろう、と美香は思った。 娘たちのために足を洗う、と言うのはちょっと違う - もっとも - 娘たちが賢ければ、第六感の事は秘密にして、こっそりと行うはずだ。 そこまで察せなきゃプロじゃない。 でなきゃ、すぐ見つかる。 ならば私が知ることはないか…。 …ああ、それは。 せっかく持った共通点を共感しあうことはない、と言うことか。 ふとした寂しさが込み上げた、と同時に、


「良かった半面、残念ね。 お子さんが似た感性を持っていたら、もっといろいろな話ができたでしょうに。」

この女性は何と鋭い察知力を持った人なんだろう!


「分かるわ。 私も娘とそうだったから。 話が合わないって、寂しいことよ。 罪よ…!  …変ね、私も娘も悪くないのに。」


「あなたは聡明すぎるのね、きっと。」


「これだけ生きてもね、まだ腑に落ちないの。 なぜ、のんきな人のほうが幸せそうに見えるの?」


「私はねぇ、泥棒が悪いだなんて思っていないですよ。」


「あなたもそう思うんじゃないの?  私は戸締りをしなかった。 悪いのは私なんですよ。」


「おかしな考え方だと思う?」


「でも、閉まっているのをこじ開けて入ったのなら、それは泥棒が悪いですけどね。」


「いったい世の中、何が良くて、何が悪いんでしょう。 私はちっとも悪くなかった。 一生懸命だった。 ええ、勤勉でしたよ、そうしなきゃ、幸せになる資格がないと思って。 それなのに、主人は最後、愛人の元へ行ってしまって。 愛人に看取られることを選んだ -」


「でもいいのよ。 好きじゃなかったんだから。 介護しないですんでよかったわ。 でも、こんなこと言うあたくしも、よくなくてね。 ただ… 何も認めてもらえなかったみたいで… あっけなくて… ぽっかりとして…。」


…ああ、彼女はこんなふうに、自由におしゃべりをしたことがなかったのだろう! これが最初で最後のわがまま、自分らしさなのだろう! もうすぐ死ぬというのに、なんと平穏で満ち足りた表情を浮かべているのだろう!


「無関心だったのよ、主人も娘も、私に対して。 借金を除けば、暴力も、家族げんかも、介護地獄も何もなくて。 はた目には、平和な家庭に映ったでしょうね。 でも。 幸せとは、いったい何なんでしょう。 あんまり、幸せだったとは言えない気分よ。」


話が続く。 ふと、このまま元気を取り戻してしまうような気がして不安がよぎった。 もしそうなら彼女が警察へ… いや、それはない。 どう見ても彼女はもう…。


「みんな最後は死ぬじゃない?  ならば、自分が楽しければいいんじゃないかしら。 他人のために善意を施す人もいるけれど、それは、自分がいい気分になりたいからよ。 主人の借金を返したのだって、自分のためだったんですよ - 自分の達成感が欲しかったのよ。 借金を理由に離婚だってできたのにね。 結局、自分さえ納得すればいい。 人は自分のために生きているのよ。」

女性は一息にしゃべった。  さすがに疲れてしまったようだ。


自分がいい気分になりたいからよ… そうだ、美香だってそういう気分になりたいから窃盗をしている。 彼女の話をもっと聞いてみたい -


「…こんな話、誰に言えまして? あなただから言うのよ。」


「私が言うことが間違っていて? いないでしょう? なのに、“人のために”って世間では言うんだから、世の中の人は不思議ね。」


「泥棒をしていると、言えないことが多くてさぞ大変でしょう…?」


(ええ。)

思わずそう答えたくなる。 ああ、決して得ることのなかった、窃盗に対する共感! こんな機会は二度とないだろう、なんと貴重な‼ でも…


女性は考えを巡らせたような、呼吸を整えたような - そんなふうに見えた後、口調を変えて、


「きっとうまくやっているのね。 普段は、いいお母さんをしているんでしょう。 家庭内がうまく回っていなかったら、家を空けてお仕事に出られないでしょうしね。」


「ああ、きっとそうね。」

それっきり、沈黙に包まれる。 女性はどこか納得したようで、その沈黙を破ろうとはしないでいた。 静かな夜だ。 ずっと先の大通りの車の音が聞こえてくる。 


「…久しぶりにおしゃべりをしたわ。 おしゃべりって、なんて楽しいんでしょう。」


「そろそろ来る…。」

女性は落ち着いていた。


「ありがとう。 お礼をさせてね。」


「私の通帳とハンコがね、そこのタンスの二番目の引き出しに入っているわ。 それはあなたのものよ。 私の娘の心配はしないで。 お金持ちの男と一緒になったんだから。 彼が彼女をきっと甘やかしていることよ。 うちにもめったに来なくてね。 最後に会ったのは三年前だったかしら。」


「通帳が盗まれたことは、いずれ警察か娘が気がつくことでしょう。 でもあなた、捕まらないでしょう? そんなへまをする人じゃないでしょう?」 


― あなた - この女性を知るほどに、「あなた」という言葉がよそよそしく感じられてきた。 喉が詰まった感覚がする。 ああ、自分の名前を言おうか。 いや、美香は窃盗のプロだ。 感情に流されてはいけない - 感覚が鈍る。 だが気がつけば、やせ細って折れてしまいそうな指先をそっと握っていた。 


「聞き上手なあなた… 」


また あなた…。


「…名前は、なんていうの?」

聞き取れないほどかすれた声だ - 


「……みか…です。」

「…みかさん。 みかさん。」

何度か美香の名前を呼んだ。 息絶えた - 何の苦しみもなく。 顔には安らぎが浮かんでいた。

死んだ ―

女性の手を静かに放した。 部屋を見渡す。 病状が重くなって以来、片付けができなかったのだろう、少し散らかっている。 が、部屋にはまとまりがあった。 それだけで、住んでいる人のひととなりが分かる。 


…なんという体験だったのだろう! が、いつまでもここにはいられない。 早く用事を済ませて出なければ。 美香は言われたとおりにタンスの引き出しを開けた。 


あった。 


通帳とハンコが、律義にそこへしまってあった - シルクのハンカチがふわっとかけられて。 すべての貴重品がこの引き出しにまとめてあるようだった。 高齢者宅でよく見かける光景だ。 置き場所を忘れないためだろう。 

収納はその人の性格を表す。 一か所にまとめてあっても、ごちゃごちゃに押し込むだけの人もいる。 女性の引き出しの中は、種類別に整理され、引き出しの辺と平行になるように並べてあった。 (そうよ。 こうあるべきなのよ。) 美香は思った。 無造作に物を放り込む人が理解できなかった - 娘や夫はそのタイプだ。 


>人に頼るのも苦手で

女性の言葉を思い出す美香。 そうだ、しっかりした人は、片付けひとつをとっても、人を頼る必要がない。 


盗む価値のある物を手短に見分け、ジャージのポケットに入れる。 欲張ったりはしない。 

窓の一歩手前に立ち、周囲に人の気配がないか確認する。 

「ない。 よし、出よう。」

最後にもう一度、亡くなった女性の顔を拝まなくてはいけない気がした。 美香が看取ったのだから。 だが、捕まるか捕まらないかは、ほんの一瞬の差で決まることを、美香は本能として知っていた - 振り向きもせずに、アパートを後にした。


コーヒーがまだ半分ある。 すっかり冷めてしまった。 午前七時。 女性のもとを去ったのが、ついさっきのようにも、ずっと前のようにも感じられる。 彼女の遺体は、いつ発見されるのだろう。 美香は気を緩め、感情の思うままにさせていた。 一人の時間は無防備でいい - 残ったコーヒーに、氷と牛乳を足してアイスコーヒーにした。 ジャージのポケットから通帳を取り出す -

“吉川久恵”

「吉川さん… 久恵さん…。」

借金を返したと言っていた吉川。 ただ、預金残高を見る限り、貧困とは程遠い。 通帳は三か月前に新しくなっていて、それ以前の取引は分からない。 お金持ちと結婚した娘が仕送りした額なのだろうか。

ベッドだって買えただろうに。 フローリングに布団を直接敷かずとも…。 ベッドが好きでなかったのだろうか… それとも、借金を返していた時、相当つつましい生活をして、その名残なのだろうか。 …いや。 そうではない。 


ベッドなんて必要ないと思ったのだ - 部屋の配置を見れば分かる。  彼女の言葉を思い返せば分かる - 吉川は合理的な人だったのだ。 


“ずっと”一人だったと言っていた。 家族と一緒に住んでいたこともあったのに。 合理性のなかった娘さん。 話が合わなければ、一緒にいたって一人に感じる。 ああ、吉川はどんなにか話し相手を求めていたのだろう!


(吉川さんも、第六感を持っていた?) 美香の脳はあれこれと吉川を推測したがっていた。 (いえ、広い視野を持っていた、というほうがしっくりする?)

>戸締りをしなかった方が悪い - 別視点で物を見れた吉川。 もし、「窃盗に入られた人はその後、戸締りを厳重にするようになるからいいことをした。」と言ったら? 吉川なら、「そういう考え方もできますね。」と返事してくれしそう。


広い視野であろうと、第六感であろうと、自分と共通する何かを感じる -    

彼女の正直な思いを聞ける人がいただろうか。 いなかったと思う。 さぞ孤独だったことでしょう! 


頼る必要がなかった ― 近所の人に世話を焼いてもらう必要もなかった - 合理的で、何でも自分でできる人だっただろう吉川。 しかし、頼らないということは、人付き合いがおろそかになってしまうとも言える - 孤立を促進してしまう - ああ、なんと皮肉な! - 良かれと思ってしっかりしているのに! 


美香に会えて、やっと頼ることができた - やっと、本当の人付き合いができた - 死の直前のあの表情がそれを物語っていた!?


もしあの時、美香が口を開いていたら…。 

(興味を持って聞いてくれたかしら?)

「人は何でも欲しがるから、窃盗が成り立つんです。 みんながつつましい生活をしていたら、盗めるものが限られてしまいますから。」

そうですねぇ。

吉川はそう答えてくれた気がする。 

「物がたくさんあるから、盗まれたことに長い間気がつかない。 だから窃盗犯がつかまりにくくなる。 物がなかった昔なら、鉛筆一本なくなったって、すぐに気づかれてしまいます。」

「人の発想は、たいてい偏っています。 でき上がった一般のイメージが正しいと決め込んでいる。 だからその隙をついて盗むことができるんです。」

(ああ、言ってみたい! 日頃思っていることを言ってみたい!)


この特異な感覚のせいで、自分は人と違うことを強く感じてきた。 黙っていれば分からない。 しかし、黙っているのは思った以上に苦痛だ。 高校生の時、クラスメートが万引きで捕まった。

(どうして人に見られているって、分からないのかしら。)

第六感を持ち合わせない人間が劣って見えてしまう。 気がつくと、人を見下していた。 そういう自分もまた、人である。

窃盗のニュースを聞けば、言いたいことがたくさんあった - 「こうすば捕まらなかったのに。」と。 でも言えないのだ。 

「私はなんて優秀なのかしら。」

美香は優秀な窃盗犯だ。 盗みが成功するたびにそう思う。 しかしそれを人に認めてもらうことはない。 だが、数時間前に会った吉川がそれを見通しただなんて!


>よくできるお方なのね。 そうでなければ、泥棒さん、やっていられないでしょう?

>大体ねぇ、犯罪者になる方はできる方なんですよ。

>あなた、しっかりしているわ。   

>すぐ感情的になるようじゃあ、泥棒さんやってられないわね。

>泥棒をしていると、秘密が多くて大変でしょうねぇ。


そうだ、吉川になら、言ってもよかったんだ、長い間、誰にも言えなかった秘密を-。


>自分のことを聞いてほしい。 - 吉川最後のわがまま。 自分の事を話して、穏やかにこの世を去った吉川。

わがままであろうか? 人の話を聞いてあげるのも、人道の一部ではないだろうか? 


おしゃべりが楽しかったと言っていた ― 美香は強い共感を覚えた - 美香自身、自分の心の内を明かしてみたいのだ! 

>お声を聞かせてもらってもいいかしら - ああ、吉川は、会話がしたかった! なのに自分は聞いていただけ。 美香の話に興味を持ったはずだ、お互い、合理思考なのだから。 

分かり合えたかもしれない唯一の人 - もうこの世にいないだなんて!


熱帯夜だから窓を開けていたのだろうか。 それとも、寂しさがつのり、近所の人がひょっこり窓越しに来てくれることを期待していたのか、「最近見ないね。」と…。 …立ち上がる体力さえ失い、窓が閉められなかった - ああ、そうだったんだろうな。 


最後にあった人が近所の人だったら、吉川は何と言ったのだろう。

その人に会話を合わせたのだろうか -

たぶんそうだ。 吉川ならできる、どんな会話でも。 そうやって、長年、人に合わせてきたんだから、彼女は。

ならば、最後に会った美香にも、話を合わせてくれたのだろうか?  そうは思いたくない。 


美香を聡明だと言った彼女。 吉川こそ、聡明だったのではないだろうか。 それならば… 吉川も、人を見下していたのだろうか、美香のように。

…いや。 彼女が若いころは、夫に黙って尽くす時代だった。 辛抱強く、良き妻、良き母 - それを幸せになる資格だと思っていたのだから。 古風で。 素朴だけど、覚悟が決まったような、勇敢さ…。 人を見下していた、と想像しては申し訳ない。


つつましい妻をしていたら、考え方までつつましくないといけないのだろうか - 優しい母なら、どんな時でも優しくなければいけないのか - いや、人はそういう生き物ではない。 ふとした時に、ふとした考えが湧く、そういう生き物だ。 それを口にできたら - 表向きを気にせずに。 


死に際に言った、ありがとう。 心からそう言っていたと思う。 社交辞令ではない。 そうなら、通帳のありかを教えたりはしないはずだ。 

もしあの時、あのアパートに侵入しなかったら、彼女は寂しいまま死んでいった…。  


もしあの時 - それが美香の頭の中を繰り返す - (もしあの時、話をしていたら - ) 


みんな悪い心を隠しているだけなんですよ。 みかさんはお水をを飲ませてくれたでしょう?


なぜ、泥棒さんをやっているの? そのお仕事が好きなの?


(そんなふうに聞いてきた?) だとしたら、どこから話を始めればいいのだろう。 第六感を持ち合わせていることからか -


人は見落としてばかりいる。

じれったい。 人を見ていると情けなくなる。 

劣っているのに、何もしようとしない - それが情けなさに拍車をかける - 気を付けようと努力すらしない。

だから私がカツを入れるのだ。

隙だらけの人間を見下せる瞬間。 優越感。 達成感。 そして味わえる自分の優秀さ! そう、私は優秀なのよ!


みかさんが捕まったとしたら、その捕まえた人も聡明な方なんでしょうね。 そんな人になら、捕まってもいいんじゃないの?


そうだ、私を捕まえられる人は、自分と同じレベルの何かを持っている…! そんな人に会ってみたい、会うためなら捕まってもいい…!?


美香が逮捕されたら世間の人はこう言うだろう - 「まさかあの班長さんが? いい人だったのにねぇ。」 ああ、身震いする。 口先だけは一丁前の一般人よ。  何でも表面上で判断する - 分かったようなふりをする - だが、そう言う人たちこそ、隙だらけなのだ!  


東京の街を歩く - 下見だ。 計画のパズルが幾通りにもでき上がる - 完璧なパズルほど、合理主義の美香にはたまらない。

夜の東京。 美しい。 裏道の小さな街頭、高層ビルの窓明かり、高速道路の作る光の線…。

亀裂に生えた小さな雑草、排水路から流れる水の音、塀の間に隠れている猫…。 

それを見過ごしてしまう人たち。 それがどんなにもったいないことなのか、分かろうともしない人たち。

ああ、人の視点というのは、なんと限られたものなのなのだろう。

狭い場所も見えて初めて広い視野になる。 

…こんな話はだれともしない。 話された方も困ってしまう。 ああ、吉川と同じだ。 自分だって何も言えない!  そうやって黙っているうちに得てしまった世間の評判 - 「美香さんはつつましやかな奥さんね。」 つつましいなんてあるものか。 私をよく見よ、ずるい部分だってあるのだ。 どうして疑うことなく、表面上のイメージだけで決めてくるのだ!?


私も気がついていましたよ、亀裂に咲く小さなお花は素敵よねぇ。


吉川なら、そう言うだろうか。 - ああ、世の中の多くの人が吉川のようだったなら…!


…私のようだったら、なんだって言うの? 窃盗を始めなかったとでも言うの? 


もしかしたら… 彼女は、私以上に私を分かっていたのかもしれない -

みかさん。 あなたは、いつどこで生まれたって、窃盗をすると思うの。 いえ、優しい心も持っているのよ。 誰だって、優しさと悪さの両方を持っているのものです。 大抵の人は悪い部分が、悪口とか、いじわるとか、怠け癖とか、そういう行動となって表に出る。  それは「楽な」出し方。 危険を伴わないんだから。 すごいわ、捕まらずに窃盗を続けるって。 素直に生きていて羨ましい。 窃盗でしか味わえない、独特の感覚ってあるんでしょうねぇ。 犯罪者は黒い心だけって、決めつけるのは残念ね。 みんな、他の面から見てくれてもいいのにね。


窃盗は悪い。 だが、美香は立派に母親業をしている。 妻としても立派に努めている。 いったい、何がいけないというのだろうか。 いじわる - モラハラやパワハラのほうが、もっと陰湿ではなかろうか? 被害を受けた人だって、言葉の暴力は証明しにくい、窃盗に比べて。 そう、モラハラやパワハラの加害者には、逃げ道がいくらでもあるのだ。 楽な腹黒だ。 ああ、よっぽど悪質だ、卑劣だ。 そうだ、みんな持ち合わせている、悪い心を。


おばあちゃんになってしまったと言っていた。 鋭い感覚を生かすことなく、一生を終えてしまった吉川。 おとなしい妻。 - 良き妻としてお手本のような存在。 頑張りは自分で認めるしかなかった - 自分のために夫の借金を返したと言っていた。  それしか実感する方法がなかったんだ。 見よ、彼女を! 旦那は去り、娘も来ない - 結局最後は一人! 存在感さえなかったなんてなんて惨めな‼ 彼女を覚えてくれている人はいるのだろうか。 だが、彼女は犯罪者ではない - ただそれだけだ。 一方、才能を生かせている美香。 盗品と言う、功績を手に取り、実感することもできる。 自己満足ができる - いったいどちらが不幸なのだろうか。 

夫の借金 - 美香の家は借金などない。 だが。 もしあったとしたなら、美香もそれを返すために必死になったかもしれない。 それが返し終わった時、達成感を得るだろう。 …分かっている。 美香には窃盗以外、達成するものがないのだ。 家事をしなくても問題ない。 お手伝いさんだって雇える。 何もしないでいたって、困ることなどない身の上なのだ。 持ちつ持たれつと言った吉川。 ああ、吉川さん。 そうよ、持ちつ持たれつなんて厄介よ!  単に、助ける側、助けられる側、になるだけよ。できる人はいつだってベビーシッターなのよ!


神様にお願いしたんですよ、誰かに会いたいって。 そうしたら、あなたが来てくれて。 神様も、粋なことするわね。


吉川はそんなことを言うだろうか - だがすぐに、


天国なんてありませんよ。 人は皆、土に還るんですよ。


その方が吉川らしいと思う。 美香自身、ずっとそう思っていた。 しかし、人を亡くしてみて初めて分かった。 それでは寂しすぎるのだ。 後に残された人のほうが、神様を、あの世を、信じたくなる。 あの世があれば、吉川にもう一度会える! そして今度こそ、言いたいことを言うんだ - 彼女の話ももっと聞きたい。 分かり合うんだ! 彼女の話なら、興味を失うこともないだろう、見下すこともないだろう!


ふと、我に返った。 あの世か。 想像が行き過ぎた。 自分らしくない。 そう思ってから、美香は突然小さく笑った。


(“ふと” ねえ、吉川さん。 どういう時に人って我に返るの? 脳のコマンドって不思議ですね。 何のきっかけもないのに、“ふと”。 これってどこから来るんでしょうね。)

こんなつまらないことすら、吉川なら聞いてくれそうだ。 それを遠慮せずに言い合える、それが友人 -


吉川に、友人と呼べる人はいたのだろうか。 本当の友達はいなかったと思う。 吉川は、相手に話を合わせていたのだから。  

「苦しいから来て。」

そうやって、人を呼んだ形跡もない。 空っぽだった水差し。 携帯電話、固定電話、どちらも枕元に置いていなかった。 差し入れとか、見舞い品とか - こざっぱりとした部屋にはなかったと思う。 

痛みに、苦しみに、すべて一人で耐えていた - 一緒に過ごしたい人がいなかった - 聞きたい言葉をかけてくれる人はいなかったのだろう。 美香だったら - ああ、吉川の聞きたい言葉をかけてあげることができたかもしれない。


美香自身、孤独死を選ぶ勇気があるだろうか。 娘だって呼べただろうに。 あえて孤独死を選んだのだ。 あえて一人でいたのだ。  その勇気が美香にあるだろうか。 (ないわ。)すぐそう答えた自分がいた。 

自分の娘たちは素直過ぎて、こちらが気を使ってしまう。

いや、身内ほどわがままを言ってしまい、醜い会話をしてしまうかもしれない - それも嫌だ。


入院するお金だってあった。 ただ、変な延命措置をとられたくなかったのかもしれない。 人の体は死の準備をするらしい。 入院すると、延命措置をされ、それをさせてもらえなくなる。

どのくらい闘病していたのだろう。 何の延命もしていないなら、その期間は短かったのかもしれない - 寂しさを早く終えることと引き換えに、その道を選んだのだろうか。 覚悟の決まった潔さ - そうも取れる - だが。 (ああ、寂しくてよ、それじゃあ。 最後はあがいてもいいのよ! 吉川さんの潔さはそんなことでは崩れない、ああ、私は受け止めてあげられたかもしれないのに。 ううん。 吉川さんは、納得したんだ。 満足したんだ。 あがく必要なかった?) …吉川の娘。 なによ。お金持ちなら、いつだって飛んで来れたのに。 

吉川の娘は、今でも“お母さんは大丈夫”と思い込んでいるのだろうか。 吉川が丈夫で働いていたのはもう何年も前のことなのに。 ああ。 私は嫌いだ、おおざっぱな人が。 おおらかな人が! 状況を読むのが遅い人が! いつも不完全で、どこか人に頼っている - なのに、チームワークだとか言っている! 美香にとってチームワークほど面倒なことはない - できる人にとっては、メンバーは自分より劣っている、ということになるのだから。 同等の話にならない - いつもレベルを下げてばかり…。 個人のほうが効率が良い時だってあるのに、それを見極めようとしない人々…。 


「おはよう、お母さん。」

次女だ。 現実に引き戻された。 いつも通りを装い、「おはよう。」と返事をする。 吉川のことは頭の中から追い払う。 アイスコーヒーに切り替えてから体が全く動いていなかった。 マグカップには結露がつき、テーブルには水が溜まっていた。 


九時半。 まもなく長女も起きてきて、朝食用シリアルを用意する娘たち。 

「ねえ、グラノーラにスイカをトッピングしてみない?」

「以外~!」

最近、姉妹でフルーツをシリアルにトッピングすることが流行っていた。 夏休み中は朝食を急ぐ必要はない。 何でも遊び感覚だ、はしゃぎたい年頃なのだから。 素直な子供たち。 現代っ子のようにひねているところもない。 普通に見ればかわいいはずだ。

もし捕まったら…この子たちは。 家族や親せきは…

驚くだろう、迷惑だろう。 家族全体の面目丸つぶれだ。 だが、美香にはもっと恐れていることがあった - 自分の優秀さがくじかれること。 「捕まったら悔しい。」 


今朝の娘たちがより幼く見えた - 世間が作り上げた、幸せの枠組みの中でのみ生きている - ごく普通のいい子で満足している - 別の角度から物を見ようとしない。 別の角度から物を見たら、変人だ。 一緒に住んでいて母親のことを分からなかった吉川の娘…。 自分の娘だって、私のことはよく知らないのだ。

娘たちから愛されている。 慕われている。 信用されている - だが理解はされていない。 自分の考えをストレートに述べて、関係を崩す勇気もない。  

美香は吉川を愛してはいない。 しかし理解することはできる。  愛。 理解。 一方だけなのは虚しい。 ああ、虚しい。


「お母さん、大丈夫?」

はっ。 

「疲れ?」

私としたことが。 娘の前で気を抜くことはなかったのに。 長女が、

「お母さんて律義だよね。 今朝も早起きだったんだよ。」

「やっぱりね、そんなことだと思った。 たまには息抜きしなきゃ。 そうだ、旅行は?」

次女がそう言うと、二人は夏休み中の旅行について話を始めた。 

どうして旅行が息抜きになるのだろう。 旅行はいいこと、気晴らし、という一般論が染みついている、なんとも無垢な娘たち - 

悪気がないのは分かる。 しかし、娘の言葉は美香が聞きたい言葉ではない。

ああ、吉川なら! そんなことは言わないだろう。 律儀のままでいいと言ってくれる、旅行などはかえって疲れると言ってくれるだろう - より隙だらけの、間抜けな旅行者を見てしまうのだから。 


単純な人ほど、幸せを感じられる?  それじゃあなんだか不公平だ。 複雑な考えができる人ほど、実力がある人ほど、それに比例して幸せになる資格が増すべき - そう思うのは、間違い? 

>のんきな人が幸せそうにみえるのは腑に落ちない そう言ったんだ、吉川は。 そうよ、そうよ。 私も腑に落ちないわ! ああ、あの時同意の言葉を発していたら、お互いどんなにか胸のつかえがとれたことでしょう!


>「泥棒をしていると、言えないことが多くてさぞ大変でしょう…。」

聞いてくれようとしてくれていたのに、何も言わなかった私…! 悔しい、だって、出かかっていたのよ、「ええ。」と。 あと一言だけ「そうでしょう?」と念を押されたら、私は返答していた。 でも - ああ、死が迫っていた、時間がなかった! お礼を言うのでもう精いっぱいって、分かっていたんだ! そして間もなく死んでしまった!



今日もまた一日が始まる。 普通の人間を演じる。 それも一種の幸せ。 楽な幸せだ、何の不自由もしていない。  夫は今日、出張から帰宅する。


夫、次の出張はいつだろう。 



吉川が生きていたら、窃盗をやめろ、と言うだろうか。 ― 言わないと思う。 だが、続けろ、とも言わないと思う。


もし、吉川にもっと早い段階で会えていたら - 自分は窃盗をやめていただろうか。 分からない。


キッチンを後にし、美香は寝室でシャネルの香水をつけた。 気分が切り替わる。 仕事中の香水はご法度だ。 匂いは気づかれやすい。  

人はなぜ、安物を買いだめるのだろう。 そして溢れかえる所有物。 多すぎて、何を持っているのか把握しきれなくなる。 あきれてものも言えない。 衝動買い - それは先の見通しが出来ない、愚かな人間のやることだ。 高級なものを少しだけ持って、十分堪能したほうがよっぽどよかろうに。 少しだけ - 必要な物だけで生活していただろう吉川… ああ、こんな話すら、彼女となら、分かり合えただろう。


あの窓はいつから空いていた? あの地区を数日前に歩いていたら…。 美香は悔やんだ。 涙が出るほどに、だ。 だが、数日前と今日では状況が違う。 吉川だって、今日よりかは体力があっただろうから、気配に気づいてそもそも入らなかったはずだ。  ならば、死に際の友人、 ほんの短い間の真の友人 - これが運命だったのだ! 

存在感が薄いと言っていたことを思いだす - それは違う! ああ、それだけでも撤回してあげたい! あなたの存在感はこんなにも大きくてよ!

もっと聞きたかった、ああ、本当に聞きたいわ! 

「まあ、そんなに悔やんでくれるの?」

ふと、吉川の声が聞こえた気がした、すぐ耳元で。 だが、気のせいだ。 彼女のことで頭がいっぱいなのだから、空耳したっておかしくない。

「ええ、悔やんでいます。」

ベッドに座り、ポツリそう返事をした美香。

ありがとう、これで天国へ行けるわ。

だが、そう答えたのは美香の回想。 もう空耳は聞こえなかった。

吉川久恵 - 死に際、 美香を友人だと思ってくれただろうか。


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死に際の友人 ノリコY @NorikoY

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