その廿四 黒

 何やら夢を見ていた。

 夜明け前。常夜灯のごく淡い光の埒外らちがいは、まだ闇が支配している。

 つい今しがたまで見ていた夢なのだが、内容は一向に思い出されない。目を瞑って、暗い頭の中を探ってみる。夢の記憶が映像となって形を結ぼうとするのだが、どうも朧に曖昧である。何やら色が見えるようにも思うのだが、判然としない。

 何でも好い夢でなかった事だけははっきりしている。肚の底から怖ろしく、頗る厭な心持に苛まれた、その情緒の記憶のみが反芻される。

 枕許まくらもとの目覚し時計を見ると、四時半を指している。あと十分もすると、鐘がけたたましく鳴り響く筈である。ボタンを押して鳴鐘の作動を解除し起き上がった。無闇に欠伸ばかりが出る。

 隣の布団を見ると、さいも目を覚まし、何も言わずにじっとこちらを見ている。

「ああ、いいよ。そのまま寝てなさい」

「でも…… ご飯は?」

「何、食べなくったっていいのさ…… ああそうだ、食パンが残っていたね。あれを食べて行くから大丈夫」


 駅で列車を待っているのはいつも十人程。一所ひとところに固まる事なく、長い歩廊にぽつりぽつりと散らばって、皆寒そうに外套の襟に顎をうずめ、幾分背を丸めるようにしている。天井からぶら下がる時計の短針は間もなく真下を示し、長針はいぬいの辺り。

 歩廊の裏は小高い山になっている。有明の月の下、黒い闇がこんもりと蹲る。

 その山から、ひぃーという、泣いているとも笑っているともよく判らぬような、何とも不気味なこゑが聞こえてきた。二声、三声―― 周りの人の様子を見遣ったが、誰も気にしている風ではない。人の声のようだったが、違うのだろうか。獣とも、鳥ともつかぬ聲。


 数分後、列車が到着し自働扉が開いた。

 先頭車両の先頭扉から足を踏み入れる。

 さっと一瞥すると、ほんの三、四人が、あちらこちら分かれて座っているのだが、中央の扉の前寄りにある長椅子の真ん中付近、私からすると左前方正面――ああ、矢張り今日も黒ずくめの男がいる。

 毛糸の帽子、マスク、襟巻、ジャケツ、ズボン。いつ見ても、どれもが闇のような色。

 足許あしもと、登山靴のような、古びて傷だらけの革靴だけは、くすんだ赤茶色である。又膝の上に置いたリュックサックも黒ではない。柿色と言おうか狐色と言おうか、何でもそういった類の色褪せ擦り切れ薄汚れたものを抱え、正面の窓をじっと見据える体で座っている。

 男の姿を認めて私は席には座らない事にした。そのまま車内を横断して反対側の扉の前で立止った。二駅先が乗換である。

 窓から見える空は、大半が藍に黒を溶かしたまま。下の方が朱に灼け始めているが、暖色の背後に寒色が控えているためか、妙に冷え冷えと冴えている。

 ふと、窓硝子に映る自分の顔に意識が向いた。

 随分と老けたものだ。

 一昔ひとむかし前であれば、最早隠居でもしている年頃なのだろうが、子も無く、貯えも乏しい身の上。二人暮らしの所帯で、しかも家人の体調がこのところどうも思わしくない。

 まもなく還暦だというのに、まだまだ、遊んでいられるような境遇とは行かない。毎日こうして人が動き始める時間より前から、活計たずきの算段に向わねばならぬのである。

 世間はもうすぐ正月だという事で、慌ただしくも華やかな雰囲気が横溢しているが、私の休みは大晦日と元日のみ。この年齢としになって、このようなありさまとはどうにも遣り切れない……

 そんな事を鬱々と考えているうちに、電車が乗換の駅に近付いてきた。今しも左目の端に、あの黒ずくめの男がすっくと立ち上がった様子が映じた。こちらの方にまっすぐ歩いて来て、私のすぐ左後、くっ付くようにぴたりと立止まる。扉の窓硝子に、暗い男の影も映っているのだが、帽子を目深に被り、顔の下半分を黒革のマスクで覆っているものだから、顔付はほとんど判らない。

 認め得る人相としては、憂鬱そうに濁った、胡乱な印象の眼付ばかり。


 駅に着いて自働扉が開くと、歩廊の向い側に平行に停まっている車両へと真っ直ぐ歩いて行く。男もぴたりと後を付いて来る。

 先程乗って来た列車は、窓を背にして腰掛ける横長の座席だったが、乗り換えた車両は四人が向かい合わせに座る形式である。

 ただ、この車両で運転席直近の先頭座席のみは、対面式にはなっておらず、前方を向いた二人掛けの椅子が右と左に一つずつある。

 厭人家の傾向がある私は、どうも知らぬ人と向かい合わせになるのが苦手なため、この先頭の席を選ぶのが常である。それも、運転手に視界を遮られず、進行方向を見渡す事ができる右側を最も好しとしている。

 今日も私は足早に目当ての席に進んで窓際に腰を下した。黒い男はと言えば、これだけ空いている車内だというのに、最後まで私にくっ付いて来て、私の左隣、反対側の先頭座席に座ろうとしている。

 男が腰掛ける際に、どかりと大きな音がした。どうやら、二人掛けの真ん中に座を占めた模様である。


 乗り換え駅は、新しい列車の始発駅となっている。早朝という事もあろう、車内はがらがらに空いている事が一般であって、一つの車両の中に自分一人しか乗客がいないという事もまれではなかった。したがって、私はいつも難なく気に入った席に着く事が出来ていたのだが、この黒い男の出現により、いささか状況が変わってきた。

 この男が姿を見せる前まで、私は乗換前の列車でも座席にゆったりと座っているのが常であった。ほんの二駅の束の間ではあるけれども、非常に空いている時間帯なので一つの長椅子をほぼ独り占めの形で腰掛けて、一休みしていたのである。

 それが一月程ひとつきほど前だろうか、まもなく乗換駅に到着するという頃合に、車両の中程からつかつかと歩いて来て、私が降りるべき扉の前に、外を向いて立ちはだかった人物がある。

 上から下まで黒ずくめ――件の男である。

 この時が、この人物の存在を意識した初めであった。駅に到着した後、私は席から立上り男に続いて下車したのだが、先方も私と同様、真っ直ぐ乗換車両に向かっている。

 厭な予感がした。

 懸念を抱えながら、付いて行ったところ、案の定、いつもの私の場所が占拠された。

 そんな事が、二、三度程も続いてからだろうか、私は、最初の乗車の際に車内を瞥見し、黒ずくめを見付けた場合は決して座る事なく、そのまま乗換用の扉の前まで行って立つ事に決めた。


 黒い男とは、毎日顔を合せるという訳でもない。曜日が決まっているという事も無さそうだが、相乗りになるのは二日か三日に一度程。

 私は、男がどの駅から乗って来て、どの駅で降りるのかを知らない。私が乗車する際には、男の姿はすでに車中にあり、乗換の後、私が最終的に降車する駅でも、男はまだ乗ったまま。更に前途にあるいずれかの駅へと去って行く。

 私にとっては男の足取りが全く分からないのに対し、男には私の乗車駅も降車駅もしっかりと押さえられ、把握されている。その事が、何だか不気味に思われた。

 男は決まって乗換駅に着く直前に私の後ろに立ち、私に続いて歩廊を歩き、乗換を行う。そうして、必ず私の席の反対側、左の最前席に陣取る。

 いつも同様の次第ではあるが、このところ、以前よりも私の背中と男との間合いが近付いてきたように思われる。歩廊を渡る間など、靴底に鋲でも打ってあるのだろう、かつかつと足音が響くのだが、その音が近頃まさにすぐ後で、私のかかとを蹴り上げんばかりに聞こえてくる。腰を下す時の、殊更どかりと車体を揺らす程の勢いも然り。

 何とも厭な心持がする。

 男の年恰好は、私より二回り近くも若い三十半ばから四十位であろうか。上背もあり、骨太らしく堂々たる体格である。貧相な私の矮躯とは、まったく比べ物にならない。

 そのような大柄な男に、背後を取られるというのは、どうも気味が悪い。しかも、初めからあまり友好的とは言えないような素振が窺われたので、どうしても、何やら不穏な事を想像してしまう。

 或る時などは、乗換前、後から男が何やら舌打ちのような音をさせた事があった。ぎくりとして、恐る恐る目の前の窓硝子を鏡に男の様子を検分したが、特段の変わった所は認められなかった。尤も、大きな黒革のマスクで顔の大半が覆われているので、もとより表情などが判然する訳も無い。

 ただ、その後特に何をされたという訳でもなく、舌打ちのような行為自体、その時の他には無かったので、もしかしたら、あれは私の聞き違いか勘違いなのかも知れない。

 それでも、当座の私にしてみれば、にわかに鼓動が高まり、股の間から肚の底へわくわくと突き上げるような怖ろしさを味わった。


 そのうち、年が改まった。

 年末年始の十日程の間、例の男の姿を見かける事は無かった。その事が、私の精神に安定をもたらした。剰え、世間の正月気分も心の平穏に良性の影響を及ぼしたのかも知れない。


 それが、寒の入りを過ぎて数日経った頃、入り組んだ路地を歩いていると、自分の行く手に黒い人影を見付けた。どうやら、こちらに歩いてくるらしい。私はすぐに例の黒ずくめを思った。

 誰だか判らないけれど、どうもこのまま真直ぐ行って、すれ違うのは非常に厭な心持がした。何だか空恐ろしいように思われる。そこで最寄りの角を右に折れた。遠回りになるけれども仕方がない。そうしてしばらく進んでいると、又行く手に黒い人影。

 避けようとして、再び最寄りの角を曲ると、そこの先にも黒い影。どうも切りがない。

 私は運命の悪意を思い知った気がして慄然となった。肌が粟立ち体中の毛という毛が一本立ちをするかのように思われる。

 私は踵を返すと少し後戻りをして、別の角を曲った。

 ここは大丈夫だろうか?――恐る恐る歩を進めて行くと、今度は先でお上さんが立ち話をしたり、子供が遊んだりしている。いささかほっとするような気持ちでその横をすり抜けて進んだ。

 あと少し行けば大通りだ――そう思ったところ、突然背後から、もしもしと呼び止められた。

 ふり向くと、あの黒ずくめの男である。

「どんなに逃げたって仕方がない」

 甲高い厭な聲。

 私は思わず駆け出そうとした。しかし、体の節々が固まったように、その場から動く事が出来ない。

「ふん、仕方がないと云うたに―― 己の業をよく考えてみる事だ。覚悟はあるのか?」


 覚悟はある! こうなったら、やるかやられるかだ!――思わず、そう叫んでいた。

 ――否、実際のところは、叫ぼうとしたのだが出来なかった。

 必死で声を絞り出そうとするけれども、顎が強張り、舌は縺れる。

「かるおや、ある…… やるらからや……」

 焦って上着の衣兜ポッケットに手を突込んだところ、折畳式の刀子ナイフに指が当たった。


 やるかやられるか、やるかやられるか……


 そこで、はっと目が覚めた。その直後、突然目覚し時計が鳴り響いた。

 朝か――時計を止め、さいを見遣ると、怯えたような目付きで私を見ている。

「どうかなさったの? 随分とうなされて……」

「知っていたのなら、起こしてくれたらよかったのに」

「起こそうとしたんです。そしたら、あなたが目を開けて、時計が鳴って……」

「ああ、そうか―― 厭な夢を見たんだよ……」

「夢? どんな?」

「いや、まあ、何でもない……」

 私には夢の内容をさいに打ち明けるのが憚られる気分だった。何やら自分に後暗いところでもあるような、妻にも言えぬような……

 ――否、そんな筈は無い。そんな筈は無いのだが……


 その朝から、現実においてもまた、男を目にするようになった。

 或る時は、私が乗車すると、いつもは長椅子に座っている筈の男が、早々はやばやと乗換の扉の前に立っており、こちらに背中を見せてその場を塞いでいた。そうして、危惧したとおり、乗換先の車両では私の定位置を侵してきた。


 その次の日には、乗換前の列車に男の姿が無かった。私はほっとして長椅子に腰を下したのだが、そのうちにだんだんと胸騒ぎが込み上げてきた。どうも厭な感じがする。

 果して、駅に着いてみて愕然とした。

 乗換の列車に足を踏み入れると、既にそこに男の姿があるではないか。

 忌々しい事に今日も私の定位置にどっかと座っている。いつもより、早めの列車でやって来たのだろうか。


 そうかと思えば、以前のように、初めの列車で男は長椅子に座っていて、乗換の際に、私のうしろにぴたりと移動し、そのままあとを付いてくるという場合もあった。

 勿論、その時は定位置を確保できるのだが、気分としてはむしろ何だか落ち着かない。


 男の現れ方は、その時々で変化し、いつも翻弄されるような気分を味わい続けている。

 しかも、このところ男とは毎朝顔を合わせるようになっている。以前は、週に二、三度程だったのに。

 私が望むような安寧は、最早決して叶わぬという事、どうやらそれは間違いないらしい。

 その忌むべき事実を常に突きつけられているという事が、非常に腹立たしくもあれば、又薄気味悪くもある。


 その頃、仕事場の方でも何やら不穏な空気が生まれ始めていた。

 長らく続く不景気から、近々大幅な人員整理が行われるという噂が出回りつつあったのである。本当だろうか? そうなると、年寄の私などは、真っ先に俎上に上ってしまうであろう。

 社交嫌いの私は、普段は同儕どうせいとも言葉を交す事はすくないのだが、この時ばかりは不安を一人で抱え込む事ができなかった。


「人を減らすような話が出ていますな」

「ああ、今度は満更噂ばかりとは限らぬようですな」

「私なんぞは、随分年も行っているので真先にお払箱入りでしょうな」

「いえいえ、まさかそんな事も無いでしょう…… むしろこちらの方が心配です」

「あなたはまだお若いから……」

「いえいえ……」


 そうして、或る日突然、漠然たる懸念は冷酷なる現実へと切り替わった。

 思ったとおり、私は人員整理の対象となり、猶予を与えられる事も無く、馘首かくしゅを言い渡されたのである。

 退職の手当と称する、薄っぺらな封筒が上役から手渡され、そのまま仕事場を追い出されてしまった。


 体調のすぐれないさいとともに、これからどうやって生きて行けばよいのか?

 この年齢としで新しい仕事を探すのも難しかろう。

 貯えもほとんど無いというのに……


 頼る事が出来る身寄りと言っても、取り敢えずは、妻の弟位しか思い浮かばない。しかし、普段は温厚で快活なあの弟も、このような仕儀になってしまった以上は、今後どのように態度を改めてくるかも判らない。

 それ以前に、さい自身はどうなのだろう?

 先般、私があの夢にうなされた朝以来、さいの態度に何とはなしの変化が生じている事が気に掛る。私に向ける眼差しに、なぜだかいつも怯えるような色を浮かべている。

 どうもよそよそしく、私に信を置いていないようなそぶりが窺われる――


 ともかく、今は家に戻ろう。全てはそれからだ。

 さて、妻にはどう切り出したものか――そんな事を考えながら最寄りの駅を出ると、真直ぐ自宅に向かった。

 やがて地面がいしだたみになっている道へと差し掛かる。


 かつかつかつかつかつかつかつ――


 後ろから聞き覚えのある靴音。

 振返ると、あの黒ずくめの男が三間さんげん程離れた所を付いてくる。

 なぜこんなところで?――私は、足を速めて先を急いだ。が、靴音の方もそれに合わせたように速くなる。


 直ぐ先の辻を曲った。曲るなり、目に付いた喫茶店に跳び込んだ。

 奥の席に座り、窓から表の様子を観察したが、どうやら黒い人影は見当たらぬようである。

 少しほっとして、卓上の献立を手に取った――うしとら喫茶室? はて……

 すると、給仕ボイがやってきた。


「いらっしゃいませ。いかが致しましょう?」


 慌てて、一番やす可否コーヒを頼んだ。廉いと言っても普段の一食分を越える程に値が張る。

 首を切られた自分にとっては、非常に手痛い出費である。しかし、あの男から逃れるのに、背に腹は代えられない。

 やがて、黒い服装の給仕ボイ可否コーヒを運んで来た―― 黒い服?


 何と、例の男である。


 がちゃんがちゃんと大きな音を立てながら、可否コーヒの道具を卓子テエブルに並べると、おもむろに革のマスクを外し始めた。


 ああ、この顔は……

 そうだったのか……


 頭から水を浴びせられたような気がした。


 何もかもがいっぺんに諒解された。

 これはもうどうにも仕方がない。最早、逃げも隠れも出来ない――


 私は上着の衣兜ポッケットに手を突込んだ。指先に触れる固くて冷たいもの。


 やるかやられるか、やるかやられるか……




                         <了>





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