その廿 豆
夜中、突然に激しく咳込み、闇の中に半身を起こした。
胸が灼けるように苦しく、いつまでも咳が止まらない。
体を折り曲げるようにして、胸郭の奥から生じる、繰り返しの衝撃に耐えていた。
独り暮らしの狭い部屋には、助けてくれる人も、心配してくれる人も、いたわってくれる人もいない。布団の横の火鉢や小机の輪郭が、闇にもおぼろげに浮かぶのを意識しながら、ひたすらに咳込むばかり。
ようやく少し落着いて来たので、鉄瓶の湯冷ましを茶碗に注ぎ嚥下した。荒れてひりひりとする食道や胃が、いささか楽になる。
このところ、こういう目に遭うことが続いている。
寝ている間に胃酸が食道を逆流し、一部が気道に流れ込むのである。
一旦、これが起きると、しばらくは横になることが出来ない。横になれば、又、同様の発作が起こる。
壁に背をもたせかけて、ぼんやりと宙を眺めている。外には月が出ているのだろうか、窓の障子が仄明るい。
その時、うっすら白い障子紙を背景に、下の桟を何やら豆のような小さなものが渡って行ったように思われた。
ぎくりとした。
蜘蛛だろうか? よもや、あの虫ではあるまいか?
あれは、何でも子供の頃だったが、学校に上っていたのだったか、どうだか――否、学校に上る前だったのは間違いない。
田舎の祖父母の家に、半年ばかり預けられていたことがある。
どういう経緯があってそうなったのかは、今に判らない。
祖父は笑わない人だった。祖母もそれほど孫を可愛がるような人ではなかった。
人よりも体の大きな牛は怖かった。怖かったけれども可愛かった。茅などの草を取って来ては、柵の中へ差出すようにして食べさせた。牛は舌で巻き取るようにしながら、草を食べた。牛が草を食べているすきに、そっと立派な角に触れてみたりもした。
お祖父さんの家からほど近く、村の道の辻の所に、セメントで四角に囲った、大きな貯水槽があった。セメントの囲いは、子供の自分の腰ほどであったが、その上に更に金網の塀がぐるりとしつらえてあり、赤く錆びた網の目から覗く水の色は、黒々としていた。農業用水だったのか、消防用水だったのか。
セメントの囲いの、四つある角のうちの一つには、一尺四方ほどの、これもセメントで拵えられた四角の柱のようなものが出っ張るように立っており、その高さはセメントの囲いよりも更に四、五寸ほど上回っていた。
柱の上には、恰度の大きさの木の板が蓋をするように載せてあり、板はすっかり古びて乾いていた。少し反ったようになっているが、その上に重しとなるような石が三つばかり置いてある。その様子から、この柱は中が空洞になっているものと思われた。
何のためのものかは判らない。判らないからこそ、板で蓋をされたその内側がどうなっているのか、気になって仕方がなかった。
しかし、お祖父さんからもお祖母さんからも、水槽には近付いてはならぬと厳しく戒められていた。また、水槽のそばの田んぼや畑には、いつも一人、二人、お百姓の姿があり、辻を通るたびに、危ないからあれへ行ってはいかんぞえと注意されるのが常であった。
ある昼下がり、辻に差し掛かると、いつもいるお百姓の姿が見えなかった。あちこち見回してみても、どこにも人の姿は無い。
このような僥倖はめったにない。
さっそく、件の柱に近付いた。蓋の上の石は、子供の力でもそれほど苦労もなく、動かすことが出来た。
両手で蓋を持ち上げ、中を覗いてみる。
ぞっとした。
怖ろし気な虫たちが、うじゃうじゃと動き回っている。
慌てて蓋を閉ざし、元のように石を載せると、走ってその場を離れた。
沢山の
しかし、一旦は走って逃げたものの、すぐに怖いもの見たさのような気持ちも湧き上がり、おそるおそる再び元の場所に近付いてみた。
そうして、たちまち自分の行為を後悔した。
木の蓋の上を、豆のような体に、きわめて細くて長い手脚が生えた
何という蟲かは判らない。さっき、蓋を開けた時に、中から出てきたものだろうか?
生まれて初めて目にする厭らしい蟲だった。
手脚があまりにも細いため、豆のような体でも、目方が重すぎるのか、半ば沈んだような恰好になりながら歩いている。
その仕草に、髪の毛のみならず、産毛も含めて体中の毛という毛が一本立ちするように思われた。
まさに、虫唾が走るという表現が
それ以後、大人に戒められるまでも無く、あの貯水槽に近付こうなどとは、二度と思わなかった。
そして、今に至るまで、その蟲がたびたび夢の中に出て来る。
寝ている枕もとを、何匹とも知れぬあの蟲が這い廻っている夢である。
細い脚の先端で畳の目を捉えて進む時に、ぱりぱりと音をたてるのが、ごくごく小さな音ながら耳につき、気味が悪くって仕方がない。
そうしているうちに、一匹が段々と近付いてきて、今にもその細い脚をこちらの顔に掛けようとする。
ぞっとして目が覚めると、おびただしく汗をかいているのが常である。
しかし、実際にその蟲を目にすることは、子供の頃のあの日以来、絶えて無かった。
更に幸いなことに近頃では、夢に見る頻度も段々と間遠くなっていた。
本当にあのような蟲が、現実に存在するものかどうか判らない。あの子供の頃の記憶は、実際に自分が経験した出来事だったのだろうか――そんな疑念も湧き始めていた。
つい、先だってまで――
あの日は数日雨が降り続いた後の日曜だった。
自分は、近くに住む、学生時代からの友人と連れ立って、少し離れた所にある森林公園まで散歩の足を延ばしていた。
まだ湿り気が残る林の中の少し薄暗い道を歩いている時だった。
「おや、こんなところに座頭虫がいる」
突然、友人が道端にしゃがみ込んだ。脚を止めて振返り、友人の視線を追った。
何やら動くものがある。
ぞわりとした。
あの蟲である。大方二十年ぶりのあの蟲が、細くて長い脚で、こちらを差招いている。
「何だい、一体? 何という虫だって?」
「座頭虫さ、知らないかい?」
「座頭蟲? 座頭というのは、盲の……?」
「そうだよ。でも、それは名前だけで、この虫は目明きだよ」
「何だか、どうも、気持ち悪いね」
「そうかい? 僕にはむしろ可愛らしく見えるがね。――何、毒虫などではないのさ。噛みついたりもしないので、安心したまえ」
そう言いつつこちらを見上げた友人の笑みには、少し意地悪そうな色が混じっていた。
全く厭になった。矢張りあの蟲は、この世の中に現実に存在していたのだ。
あの蟲が触れたところを、自分が思わず触れてしまうことがあるかも知れない。あの蟲が呼吸した空気を、自分が吸い込むこともあるかも知れない。
それどころか――
その先を考えることは、どうにも怖ろしかった。
その日から、またしばしば夢に見るようになってしまった。
寝ている間に、胃酸が逆流するようになったのも、その頃からだっただろうか。
駅の待合所だった。
昼近くになって、人が込み始めている。汽車の時間まで、まだずいぶん間があるので、暇つぶしに円本を出して読んでいた。何でも、漱石の夢十夜であったように思われる。
「時計が二つ目をチーンと打つた」という記述で一区切りがついて、次の話に移る折に、ふと隣が気になり、同じ長椅子にさっきから座っている人を見遣った。
横顔だが、頭を剃って目を閉じている。袋に入れた琵琶のようなものを抱え、杖を携えているところから察するに、どうやら目が不自由であるらしい。
顔は少し赤く、つやつやと輝いているが、目尻や口元にはいささか皺もあり、若いのか歳をとっているのかちょっと判断がつかない
すると、待合所の柱時計が恰度十二時を打った。
その音を聞くや、隣の人は急にそわそわして、何やら風呂敷包みをごそごそと探り始め、
開いたところを見ると、アルマイトの弁当箱である。どうやら、ここで弁当を使う気らしい。
中には、鶉豆を煮たようなものがびっしりと詰まっている。
隣の人は、目が見えぬ筈なのに、豆を一粒ずつ器用に箸で摘まんで口に運んでいる。
口の中は、闇のように黒い。
相手から見られる気遣いが無いのをいいことに、目を凝らしてまじまじと覗き込んでみたが、男の人ながら、しっかりと
「さっきから、こちらを見て御座るようぢゃが、何か面白いですかな?」
ぎくりとした。
「いえいえ、見てなどおりません。どうか……」
「おや、そうでしょうかな?――」
そそくさと目を逸らし、再び円本に視線を移したが、隣が気になって中々先に進まない。
そうするうちに、隣の人の動きがぴたりと止まった。
どうしたのだろう?
恐る恐るそちらに目を向けると、しっかりと閉じられた唇から、何やら細長いものが二、三本外に飛び出している。
はっとして、よくよく確かめた。
その飛び出したものが、わななきながら苦しそうに
<了>
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