その三 手
父は数年前に他界したのだが、父からその話を聞いたのは、もうずいぶん前。まだ子どものころだった。
自分が高校か大学あたりから、父はその話をするのをなぜだか急に嫌がるようになったのだが、子どものころは、何度となく耳にしたものだった。
父は、若いころ、無類の釣り好きだったらしい。もの心ついてから、川や沼に糸を垂らすことが、父にとって唯一無二と言ってもいいほどの楽しみだったという。
しかし、そのことがあって以来、父はすっぱりと釣りを止めてしまったようだ。
たしかに、家には、釣り竿を始め、釣り道具はまったく置いてなかった。また、自分自身をふり返ってみても、釣りをした記憶が一切ない。誰かに連れて行ってもらったことも、自分で行きたいと思ったことも、あらためて考えれば、全くない。それは、固い意志で、釣りを断絶しまった父の念が、知らず知らずのうちに自分達にも投射されていたのかも知れない。
実際、そのことがあってから、父は、釣りどころか、魚を口にすることもはばかっていたようだ。子どものころから家の食卓には、焼き魚にしても、煮魚にしても、刺身にしても、魚料理が供されることはまれだった。それでも、一月か、二月に一度ぐらい、魚が出てくることもあったように思うが、父の前には決まって何か別の料理が置かれていた。父は肉などもあまり口にせず、蒸した根菜類や、薄味の煮物、サラダなどを少量食べるのが常だった。わりと骨太でずいぶん背の高い体格だったが、そのような食生活のためもあるのだろう、肉付きは良くなく、かなり痩せていた。
さて、そのことがあったのは、何でも、父がまだ独身のころだったという。その時分、釣りの中でも、川での夜釣りに入れこんでいたらしい。何人かの釣り仲間がいて、その夜も、一人の友達と、少し町から離れた上流の釣り場に出かけた。
うっすら曇った空ながら、奥に月明かりがぼんやり透けるような晩だった。
近くで釣るのは具合が悪いので、それぞれ離れた場所に散らばって、糸を垂らした。初めのうちはなかなか引きがなく、いくつかポイントを変えたところ、今度は面白いように釣れはじめた。夢中になっていると、下流で釣っていた仲間が近づいてきた。
「だいぶ釣れとるようじゃな」
「おかげさまでのぅ」
「おれはもう少し上の方に行ってみようかのぅ」
小声での会話が済むと、友達は上流へとゆっくり歩いて行った。
友達の気配が消えてからも、しばらくは釣果が続いた。小一時間ほども経った頃合いだろうか。少し下流にある灌木の茂みから、ポキッ、ポキッと木の枝を折るような音がかすかに聞こえてきた。何の音だろう? それは、聞こえるか聞こえないかというほどの、ごくごく小さな音だった。音は川岸に沿って
あっちには友達がおるが――。ぼんやりと何か気になる気がした。そして、なぜだかそのころから、当りがまったくなくなってしまった。
そろそろ場所を変えようか、そう思い始めたとき、おーい、おーいと、甲走ったような友達の声が聞こえた。はっと見やると、ひどく慌てた様子で、バシャバシャ音を立てながら、川の浅瀬を下ってくる。
「おい、ここはあかんぞ。もう、帰ろうや」
「どうしたんな? 何があったのや?」
「ええけん、帰ろう。お前、このままおったら―― 否…… もう、何でもええがな、帰ろう! とんでものうなるぞ、知らんぞ」
ただならぬ様子に、父も竿を納め、急いで帰り支度をすると、友達と一緒に歩き始めた。
「一体何があったんぞ?」
いくら訊ねても、友達は無言のまま、停めてある車をずんずん目指した。
「ラジオ、つけてくれんかの」
車の中で、助手席の友達は、そうひとことかすれ声で呟いた後、黙りこんだ。横目で様子をうかがうと、口をぎゅっと結び、見開いた目で、じっと自分の膝を見つめている。
ラジオからの陽気な音楽とは対照的に、二人とも無表情で沈黙したまま、車を走らせた。そのうち、ぽつりぽつりと家の明かりが見え始め、やがて家並が続く明るい町中に入っていった。
友達がようやく重い口を開いた。
「あののぅ、さっきのぅ……」
「うん」
「さっき、川で……。何か――、出たんよ」
「何かって、何がじゃ?」
「わからん。じゃけんど――、出た」
話を聞いてみると、友達も川で、父と同じように、木の枝を折るような音を耳にしたのだそうだ。その音は、下流からだんだんと近付いてきたのだが、みるみるそばまでやって来て、釣りをしているすぐ横の岩の上に、ぺたりと座った。はっと見ると、何やら黒いものがいる。ぎょっとして、思わず声を上げそうになったが、必死にこらえた。
間もなく、黒いものは、細い二本の脚で岩の上に立ち上がると、あたりをきろきろ見まわし、友達の顔をぴたりと見すえた。
そうして、そのまま、岩の向う側にのそりと動いたと思ったら、もう姿が見えなかったという。何でも、大人の背丈の半分ぐらいのものだったらしい。
「何じゃいね、そりゃ?」
「ようわからん」
「サルでも出たんとちがうのんか?」
「――サルか……。サルだったら、ええがな……。ほんに――、サルだったら……」
それから何日かして、例の友達に会ったところ、父を見るなり、何とも言えない嫌な表情を見せた。何でも、あの晩、家に着いて釣り道具を整理しているときに、川で着ていたゴム引きの合羽の背中に、いくつか泥の手形が付いているのを見つけたらしい。
「おれはもう、しんから嫌になった。ほんに、ろくなこたぁない……」
友達は、ぼそりと呟くと、下を向いて頭を振った。
その様子を見ながら、父の胸中にも、何やら嫌な予感が、確信的に湧いてきた。居ても立ってもいられず、急いで家に帰り、自身があのとき来ていた合羽を、おそるおそる出してみた。
やっぱり――
予感は的中した。
果して、そこにも三つばかり、手形らしいものが、うっすら認められたのだ。それは何の手形とも言いかねた。長さは人の手ほどなのに、幅が極端に狭かった。親指はずんぐりと短く、その他の指は妙に細長かったという。
それ以来、父も友達も、二度と釣竿を手にすることはなかった。釣り道具もすっかり手放した。
「おおかた、あんとき、あれが通りすぎたんじゃろな――」
この話をするたびに、最後に決まって、父は妙な表情をして呟くのだった。
「ほんに、あれが、ただのサルだったらの……」
<了>
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