その二 靴
「ええと来週―― 来週からね、しばらく来なくていいですよ。申しわけありませんが。ほら、こんな状況で先が見えないでしょう。おたくの後藤さんとは、すでにお話させていただいてるんです」
頭の中が真っ白――いえ、真っ黒。
その黒い背景の前に、〝ハケンギリ〟と赤く光る文字が、ゆっくりらせんになって回っています。
「あの、休んでる間、お給料とかは――」
やっとそう口にしたものの、すぐに言うべき相手を間違えたことに気づきました。「おたくとの契約では――」「破棄というわけではないですから――」「不服の申し立ては――」「後藤さん――」、そんなフレーズが断片的に耳を通りすぎるだけ。でも、未来がものすごく不利な方向に曲りつつあることは、はっきりと理解できました。
気がつくと、娘の保育所のある駅に降りていました。たくさんのマスクが行きかう中、その流れの一つに乗ってロータリーのある広場に出ると、すっかり暗くなった空に大きなクリスマスツリーの派手なイルミネーション。今年のクリスマスは、いつの年にも増して自分の手から遠く離れたところにあると痛感されました。
ストールに首をうずめ、考えるともなしに考えます――ほかに身寄りもなく娘と二人だけの生活が、これからどのように転がっていくのか――でも、頭に浮かんでくるのは、不安で嫌なイメージばかり。
保育所へは、路地を抜けていきます。
一つの角を曲ると、警察官がひとり。道のはしのみぞのところ。
そこだけコンクリートのふたがない場所にうずくまって、というより、はいつくばるようにして。
あれ?と思ったのもつかの間、ヒールの音に気づいたのでしょうか。こちらを振りむき、制服のひざやひじをはたきながら、立ちあがりました。街灯の光の中、マスクの上に出た目もとがにっこり笑っています。
「この側溝にね、犬が入っていったんです。首輪していたから、近くの飼い犬だと思うんだけど……」
彼は親しげに話しかけてきました。三十歳前後でしょうか。同年配ぐらいの男性。
優しそうな目のあたりの雰囲気は、どこかで会ったことがあるような、なつかしいような、それでいて――なぜだか少し不安な予感。
そう、それは、忘れ去られた意識の向う側。
もうずいぶん昔に、複雑に絡んで、歪な毛糸玉のようになって、放っておかれていた記憶の糸。
それが、少しずつほどけかけて、絡んだ糸の間から、だんだん何かがあらわになって、見えそうで見えずに、ゆっくり左右に揺れている――そんな感じ。
「ほら、ここの奧から鈴の音が聞こえるでしょう。首輪に鈴がついてるんです」
お巡りさんはそう言うと、また、しゃがみこんでみぞの奧を懐中電灯で照らしはじめました。
「来ーい、来い、来い――」
たしかに、鈴の音。その音が、初めのうちは、近づいたり、離れたり。
そのうちだんだん小さくなり、とうとう聞こえなくなってしまいました。
「行っちゃったか、しょうがないな……」
お巡りさんは、さらに頭を下げて、みぞの奧をのぞき込みました。
すると、ぜんぜん違う方向、むこうの道の角から、鈴の音が近づいてきます。
「あ、あそこ、犬が……」
路地を曲って現れたのは、柴犬みたいな白っぽい日本犬。
「え? あ、いたいた。よーし、よし。来ーい、来い、来い――」
お巡りさんは立ち上がると、手招きしたり、手を叩いたり。
犬は、何かをくわえて走ってきます。
近づいてくると、お巡りさんは片膝をついてしゃがみ、その胸めがけて、犬が飛び込みました。
「よーし、よし、よし――いい子だなぁ」
「それ……、靴ですね。くわえて来たの……」
「ああ、これ? これね――」
「片一方だけ……」
「そう、これね。――これは、僕の足なんです。靴の中にまだ残っててね――」
え?
――足? 靴の中?
街灯の光が不意にちらついて、お巡りさんがゆっくりふり向きかけた、その瞬間――
モノトーンに点滅する光に浮かび上がる、硬く乾いて白けた横顔――
その頬のあたりで、斜めに――
断層のように景色が食い違ったと思ったら、大きく上滑りをするようにずれて――
ああ、そうでした! 今日なのです。
――きっと、あれが通りすぎるのです。
<了>
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