食い足りない
古新野 ま~ち
食い足りない
チキンマックナゲットのバーベキューソースが指についていた。彼女はそれに気がつかず、一滴、フリルブラウスの襟に垂れた。
それを指摘すると彼女は自分の指についたソースをなめとってから、バーキンより取り出したハンドスプレーで手を執拗に濡らす。テーブルに雫が垂れていた。
「化粧水ですか」
「消毒液です」
なるほど、と理解する前にアルコール臭が漂いはじめた。
「すみません」
「何を謝って?」
「いえ、その」
狼狽する彼女はどこか弄びたくなるスキがあった。
とにかく、と彼女は濡れた指を絡めながら、まだ渇かないうちにナゲットを手にした。咀嚼しながら同意書を回収した。
「お待たせしました。では柳下さんがそれを」彼女は私のハンバーガーを指差した「召し上がったら行きましょうか」
10個目のハンバーガーを急いで貪った。
彼女の運転は可もなく不可もなくといった腕前である。信号で止まるたびに除菌シートで手汗を拭っていた。ハンドルが黒光りしていた。
「もうすぐですから」
遅々として進まない繁華街付近の交差点で言うから虚を衝かれた。
それからすぐに停車した。私一人で降りるように言い付け、彼女はどこかに去っていった。
貸しビルの前であった。まだ昼飯時であり、財布だけを持った会社員が歩いている。
することがないので、ふと、ビルの中に入った。郵便受けから察するに、きちんとした勤め人たちが居るのだろうと判断した。つまり暴力団のような―彼らが分かりやすく○○組やら○○会などと掲げるはずはないが―ものはない。飲食や風俗や金融業でも無さそうだ。星雲企画だとか、えるむ会計事務所とか、真人間たちの郵便受け。
エレベーターが到着する音がした。きっとこのビルで働く人が昼食に行くのだろうと思った。扉が開いた瞬間にアルコール臭が漂った。そして聞き覚えのある声がした。
「もう準備は出来てます」
「車を停めにいったのでは?」
「まぁいいじゃないですか」
じっとりした手で私を招く。エレベーターに乗るよう促しているが、このビルが、大食いチャレンジを開いているとは到底思えなかった。
緩慢なエレベーターが到着をつげる音を鳴らして三秒たち扉が開いた。
生臭かった。獣臭に近い。
想像していたよりも、人間の共喰いは地味であった。飛び散る血なんてほとんどなく、女が、太った男の腹を一心不乱に口に運んでいる。
「まぁ映画じゃないですので」
彼女はいつの間にかマスクを着けていた。
「さっきまでいっぱい召し上がってましたが、体調はどうですか」
彼女は除菌シートを差し出してくれた。手や口を拭った。
とりあえず、目玉を食べてみようと思う。
食い足りない 古新野 ま~ち @obakabanashi
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