27 - 単純

 午後五時、最上家では快気祝いの準備が進められ、家族が揃っていた。


 真希が得意の料理をし、美奈と麗奈はその手伝いをする。


 俊哉は無事に帰ってきた息子の圭とビールを楽しんだ。


 左手が使えない圭は、ビールの缶を開けることも苦労し、何をしていても楽しくなさそうな表情をしている。



 「どうだ? そのビールうまいだろ」


 「さあ、いつものとそんなに変わらない」



 息子と酒を呑む日が来たことは、とても喜ばしいことだが、すべての因縁から解放された圭は、左手に障害が残ったことで不自由な生活を強いられた。


 親としては、命があるだけで感謝している。


 食事の準備が完了し、テーブルに豪勢な料理が並んだとき、インターホンが鳴った。



 「麻衣ちゃん来たのかな? 圭、お願い」



 美奈に言われ、圭は渋々玄関に向かう。長い廊下を進み、広い玄関の扉を開けた。



 「こんにちは」



 麻衣は他人行儀で挨拶をした。招かれた側として礼儀を重んじるのは、彼女の育ちが良いためだ。



 「来てくれてありがとな。上がってくれ」



 圭は麻衣のためにスリッパを床に置き、廊下を進んでリビングに戻る。


 麻衣はその背中を追って同じペースで歩いた。


 リビングに入ると、いつも通りの広い空間で彼の家族が笑顔で出迎える。


 テーブルに豪勢な食事が準備されており、この瞬間はいつも生きている世界が違うことを実感させられる。



 「招待していただいてありがとうございます。これ、皆さんで召し上がってください」



 麻衣は、瑠璃と芽衣咲に協力してもらって選んだカヌレが入った紙袋を麗奈に手渡した。


 若い女性に人気の洋菓子で、購入するために人気店の行列に並んで手に入れたものだ。その苦労は伝わらなくても、気持ちが大切なのだ。


 最上家の女性陣はとても喜んでくれた。


 俊哉は仕事の関係でもらったことがあるそうで、見ただけで「カヌレ」とわかっていたが、案の定圭は「これはなんだ」という表情をしていた。



 「さあ、いただこうか」



 六人がテーブルを囲み、それぞれのグラスを持って乾杯から食事は始まった。圭と俊哉はすでにビールを呑んだあとだが、二度目の乾杯だ。



 「あー、美味しいな」



 真希は目の前に並ぶ料理に達成感を覚えながら、喉をビールが通る感覚を楽しむ。



 「最初に、圭に言っておきたいことがあるの」



 食事に手をつける前に、麗奈が圭に向き直った。



 「左手のリハビリは、うちの病院ですることになるけど、この前検査した結果だと神経に傷はついていないから、きっと治るって、担当の先生が言ってた」



 圭は左手を見た。


 そうか、治るのか。時間がかかっても、いつか治るならリハビリに対する意欲も上がりそうだ。



 「急がなくていいから、ゆっくり治そう。私たちもサポートするから」



 美奈の申し出で、圭の心は楽になった。


 ひとりじゃない。


 いろいろあって、生まれてこなければ良かった、あのとき死んでいたら良かったと思うことはたくさんあった。だが、こうやって生きているからこそ、家族と再会でき、大切な人と出会うこともできた。



 「ありがとう」



 心から出た感謝の言葉だった。この言葉を当たり前に使えることが、何より幸せなことだった。



 「じゃあ、改めていただこう」



 それぞれが真希の自信作を小皿に取って口に運んでいく。どれもが非常に美味しく、母の気持ちが込められていることが感じられた。


 お酒が進むと、全員が陽気になり、圭は食事を終えてソファに向かう。


 家族と麻衣が楽しく話している姿を見ると、麻衣も家族の一員になったようで、心が温かくなった。


 しかし、それには超えなければならない壁がある。そして、それを麻衣に背負わせることは、したくない。


 圭は誰にも知られずに黙ってリビングを出た。


 それから数分して、圭がいなくなったことに俊哉が気づいた。



 「あれ、圭はどこ行った?」


 「ソファにいたのに」


 「風に当たりに行ったんじゃない?」



 俊哉、真希、美奈、麗奈は呼吸を合わせたように同時に麻衣を見る。



 「ちょっと見てきます」


 「よろしくね」



 麻衣が行動に出ることを期待していたのだろう。ふたりきりで話すことができる時間を作ってくれたのだ。


 麻衣は玄関の扉を開けて庭を見渡したが、どこにも圭の姿はない。


 もしかして・・・。


 不安になった。圭が黙っていなくなるときは、いつもひとりで抱え込んで姿を消そうとする。


 麻衣は庭を駆け抜け、門の取手に手をかけた。



 「麻衣」



 左うしろの方向から声がして、驚いて飛び跳ねる。



 「もう帰るのか?」



 圭は庭の壁際で足を抱えて座り込んでこちらを見ている。



 「違うよ。圭くん探しに来たの。いつも何も言わずにいなくなるから」


 「そうか、ごめん」



 責めるつもりはなかったのだが、経験から言葉がきつくなってしまった。



 「隣、いい?」



 ひとりになりたいのであれば、麻衣が同じ空間にいることは苦痛だろう。一緒にいても良いか確認を取るためにまずは質問した。



 「ああ」



 許可を得て、圭の隣に同じ姿勢で座る。



 「いろいろ考えてな。これからのこと・・・」


 「聞かせてくれる?」



 彼の考えを知る良い機会だ。彼は頷いた。



 「ずっと自由になりたかった。けど、実際に自由になったら、何をしたらいいのかわからなくて」


 「うん」


 「考えてみたら、俺は復讐のために刑事になったけど、刑事以外にできることなんてないんだよな。生きていくなら仕事をする必要があるけど、俺にできることなんて何もない。それに、左手が動かないんじゃ余計に仕事なんて見つからない」


 「ゆっくりでいいんじゃないかな」



 ゆっくりで良い。


 その言葉を何度もかけられた。家族にも、仲間にも、彼らは励ましてくれたが、障害を持った仕事をしない男なんて、恋人と一緒にいる資格はない。


 もちろん、同じ条件の人間が悪いと思っているわけではない。ただ、圭はすべてを終え、すべてを失った。新たな人生を歩むだけの気力も能力も持ち合わせていない。



 「麻衣に別れてほしいって言ったけど、結局麻衣からの返事は聞いてない。だから、はっきりさせようと思ってた」


 「私は別れたつもりはないから」



 一方的に別れを告げられて、納得できるはずがない。


 だからこそ、今ここで、麻衣を開放したい。



 「この左手がいつ治るかわからない。仕事だって、何ができるかわからない。ごく普通に生きて、当たり前の幸せを手に入れるには、遅すぎたんだ」


 「当たり前の幸せって何?」


 「え?」



 麻衣の質問に答えは見つからなかった。


 当たり前の幸せ。誰もが手に入るはずのもの。だが、それを手に入れることは、想像以上に難しい。



 「もっと、麻衣にとっていい人がいると思うんだ。だからさ・・・」


 「嫌だよ。私のためにそんなこと言ってるなら、別れるつもりはない。私は当たり前の幸せなんていらない。だって、私の幸せは、圭くんとじゃなきゃ手に入らないんだから・・・。誰だって手に入る幸せなんて、ないんだよ。私にしか手に入らない幸せ、それは、圭くんと一緒にいることだから」



 圭は俯いた。


 違うんだ。そうじゃない。


 説明が苦手で、正しい気持ちが伝えられないことがもどかしい。



 「俺が言いたいのは・・・」



 その先は言葉にならなかった。


 顔を上げた瞬間、麻衣の唇が圭の動きかけたそれを塞ぎ、言葉を喉に押し戻す。


 ほんの数秒、その時間が、数倍にも長く思えた。


 お互いの顔が離れたときの彼女の顔は、暗くてよく見えなかった。



 「私の気持ちは変わらない。それに、私が働いてるから、仕事なんて急いでしなくても大丈夫だよ。まだ給料は安いけどね」



 難しく考えすぎていたのかもしれない。


 仕事がなくても、貯金は残っている。どんなお金であれ、自らが仕事で稼いだことに変わりはない。


 頭が良くないことは自覚している。どれだけ考えても、結局複雑な思考に迷い込んで迷子になるだけだ。


 ならば、素直に感情に従ってしまうことも悪くない。



 「本当にそれでいいのか? 後悔しないか?」


 「私が選んだことだから。圭くんがいてくれるだけで、幸せ」



 当たり前じゃない。この娘と一緒じゃないと、手に入らない幸せがある。


 圭が麻衣の肩に腕を回すと、彼女は彼にそっと頭を預けた。


 随分と暖かくなった。


 梅雨が近づき、その後は夏がやってくる。


 幸せな時間は流れが早い。


 これから春夏秋冬を共に生きていこう。


 君がいれば、あの日の選択が正しかったと確信するときが訪れるはずだ。

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