21 - 献杯

 もう涙はすべて出しきった。


 どれだけ辛くても、立ち止まっていることはできない。


 私は彼に誓ったのだ。もし、彼に何かがあっても、私は生き続けると。


 陽は沈み、外は次第に暗くなっていく。もうすぐ迎えがやってくる。麻衣は支度を整えてリビングのソファに座っていた。


 トレーラーが海に飛び込み、巨大な水柱を上げた映像をニュースで観た。


 関係のない人間にとっては、映画のような非現実的なことが起こったと驚くだけのことだろうが、麻衣にとって、それは愛する人の最期を知らされる残酷な映像であった。


 凛から連絡を受け、その夜はずっと泣き続けた。身体の水分がすべて消えていくほどに。


 翌日は銀行に出勤し、瑠璃のメンターとして業務を遂行した。何か他のことを考えている方が、まだ精神が安定するような気がした。


 それでもふとした拍子にあの無愛想な顔を思い出す。


 最初は苦手だった彼は、いつしか生活の一部になり、彼なしの人生は考えられないほどにその存在は大きくなっていた。


 彼がいない今、麻衣にできることは、彼の分も人生を全うすることだ。いつまでも引き摺っていては、彼に会ったときに、怒られてしまう。


 インターホンが鳴った。迎えが来たようだ。



 「行ってきます」


 「気をつけてね」



 麻衣は詩織にひと言告げて、玄関の扉を開ける。



 「大丈夫?」



 凛が顔色の優れない麻衣を見て、心配する。


 敷地の前には捜査車両が停まっており、運転席に藤が乗っていた。



 「はい。もう、気が済むまで泣きました」



 凛は無言で麻衣を抱き締める。こんなに小さい身体で、愛する人を失っても強く生きようとする麻衣の姿は、彼の意志が宿っているように思えた。



 「行きましょうか」



 麻衣は捜査車両の後部座席に乗り込むと、凛はその隣に座った。きっと助手席に乗ってやってきたのだろうが、麻衣に気を遣ったのだ。



 「本当に、悪かった」



 車両を走らせる藤がルームミラー越しに麻衣と目を合わせて言う。病院での約束を守ることができなかったことに対する謝罪だった。



 「謝らないでください。最後に運命を決めたのは彼自身ですから」


 「すまない」



 藤はそれっきり喋らなかった。隣に座る凛は麻衣の肩に腕を回して、ずっと窓の外を見つめている。


 この車両が向かう場所は、警視庁。地下の駐車場に入り、車両を降りると三人はいつもの部屋に向かう。


 犯罪対策課のメンバーの各々が初めて出会った場所、彼が麻衣と初めて出会った場所だ。


 刑事部捜査一課の部屋の前を通り過ぎ、さらにその奥の廊下の先、何も表札がない無機質な扉、その中に目的の場所はある。


 すでに全員が揃っているようだ。



 「お邪魔します」



 麻衣は凛と藤のあとに続いて室内に足を踏み入れた。


 山本は麻衣の顔を見るなり、その悲しみを無理に閉じ込めたような表情に絶句する。


 どうしてこんな娘を残していなくなったんだよ。


 どれだけ苦言を呈しても、もう彼に直接伝えることはできない。


 俊哉との話を終えた山本は、再び警視庁に戻ってきた。この場所で、最後にメンバーと集まるために。


 机の上にレジ袋が置かれてあり、その中にお酒が入っている。


 古いしきたりなのかもしれないが、日本にまだ武士や侍がいた時代、この世を去った仲間のために酒を呑み、杯を捧げたそうだ。


 これは斗真が提案したことで、どれだけ悲しくても、志を遂げた仲間のために、皆で酒を飲んで、彼の魂を空へ送ることにした。



 「それじゃ、ひとつずつ酒を取ってくれ」



 袋の中にあったのは、缶ビールや酎ハイで、酒に強い山本や凛はビールを持ち、それ以外は酎ハイを取った。お酒が苦手な斗真と桜は、ノンアルコールビールを選ぶ。



 「皆、これまで危険な仕事を共に乗り越えてきて、頼りない課長の俺についてきてくれて、本当にありがとう。俺は部下を守ることもできない無能な上司だ。どうか、向こうで笑って過ごしてくれることを祈ってる」



 山本は歯を食いしばった。


 桜はすでに大粒の涙をこぼし、凛はこぼれそうな涙を拭い、アリシアは何もない天井を見上げる。



 「献杯」



 山本が缶ビールを高々と掲げると、それに倣って他のメンバーも酒を天に突き上げた。


 いつもは美味しいビールが、今回はただ苦いだけだった。こんなに美味しくない酒は生まれて初めてだ。


 誰も口を開かず、ただ静かな空間に大きな音が鳴り響いた。



 「すみません、私の携帯です」



 麻衣のポケットで大きな音を立てているスマートフォンをマナーモードに切り替えようとしたが、その着信は麗奈からだった。



 「少しだけいいですか?」


 「ええ」



 麻衣は凛の許可を得て、電話に出た。



 「もしもし」



 右耳から入ってくる麗奈の声は、とても興奮しているようだった。話を聞いても、何を伝えたいのかがわからなかった。



 「麗奈さん、落ち着いてください」



 電話の向こうで麗奈が大きく深呼吸をしている。


 麻衣の様子に気づいたメンバーは黙って彼女を見ていた。



 「え⁉︎」



 突然、麻衣は脚の力を失って床に崩れ落ちた。



 「おい、大丈夫か⁉︎」



 藤が慌てて麻衣を支えようと腕を掴む。


 麻衣はただ、もう出ることがないはずの涙を流してその場に座り込んだ。

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