1 - 辞令
日本全国にある警察署の本部、警視庁。桜が散りはじめた頃、東京は日に日に気温が上がり、冬が遠ざかっていく。空は雲ひとつない快晴であった。
捜査一課所属の刑事、
今年五十歳になった。仕事柄同年代の人間よりは体力があると思っていたが、少しの運動でも息が上がる。
生きている以上歳を重ねることに抗うことはできない。白髪のない綺麗な黒髪を整え、体型は痩せ型で背も男性の平均よりは高いため実年齢よりも若く見られることが多い。
ベテランで経験豊富、その上若い刑事との関わりも広く持っていることで後輩からの信頼は厚い。
息子と言ってもおかしくない年齢の同僚と捜査に奔走する日々だ。
山本はある部屋の扉の前に立つとネクタイを整えた。プレートには捜査一課長と書かれてある。大きく深呼吸して扉を三度ノックした。
「失礼致します」
扉を開けると、グレーのスーツを着た中年男性が立っていた。髪はグレーに染めており、鋭い眼光を持った細身の中年男性だ。
「突然お呼びして申し訳ありません」
彼の名前は
捜査の手腕が山本より優れていていることは山本自身が身近にいて、もっともよく知っていた。その感覚は間違っていなかった。権藤は現在捜査一課長に昇進、山本にとって上司になった。
「構いませんよ。何か急用ですか?」
担当事件で聞き込みに出ている最中に呼び出しを受けることなど過去に経験したことがない。緊急のことに違いないと急ぎで警視庁に戻ってきたため、話を聞く前に深呼吸をして息を整えることから始めた。
「実は、あなたに是非お願いしたいことがあるのです」
「お願い、ですか」
何か重要なことがある、そう思わせる部屋の空気と権藤の雰囲気に山本はもう一度大きく息を吸った。
「先ほど警視庁内にある部署を新設することが決まりました。山本さんにその部署のリーダーとして異動をしていただきたいのです」
山本は落胆した。
この歳になって長年働いてきた捜査一課を離れることになる。捜査一課にはもう居場所がないと宣告されているように感じた。
しかし、これは決して権藤が決定したことではなく、さらに上の人間から下りてきた命令だろう。いわば左遷だ。使えなくなった道具はダンボールに詰めて倉庫に仕舞われる。
「申し訳ありません」
権藤の表情を見ると、彼も苦心していることがわかった。
「一課長が悪いわけではありませんよ。辞令とあれば、私は従います」
若い刑事が増えてきて、山本も体力面で同じ行動をするのが難しいと感じはじめていた。
もちろん、期待されているのであれば捜査一課で自らに与えられた仕事を全うするつもりであった。
権藤に罪悪感を与えたくなかったというのもあるが、山本は現状を冷静に分析して辞令に従うように自らに言い聞かせた。
「これを」
権藤が差し出した資料を手にとった。
「新たな部署の名前は犯罪対策課です」
「対策・・・ですか」
捜査するのではなく、犯罪を防止することを目的としているらしい。
捜査課はすでに起こった犯罪を捜査し、犯人を逮捕することで治安を維持する。
対して対策課は、軽犯罪などで実被害がないと捜査を開始できない捜査課とは違い、被害にあう兆候がある場合に捜査を開始し、起こりうる犯罪を未然に防止する。
「警察にとって初めての試みになります。我々もまだまだ試験段階として部署を新設するので、上層部から指示があれば山本さんにお伝えします。あなたの経験が活かされることを祈っております」
権藤は深々と頭を下げた。きっと山本にその役目を押し付ける形になることで、奥歯を噛み締めているのだろう。
山本もまた、頭を下げてから部屋を出た。
山本は気持ちを整理するために喫煙室に入った。
煙草に火をつけ、煙を肺に入れる。健康のことを考えて普段は深く吸うことはないが、精神を整えるために健康を犠牲にしなければならないこともある。
山本は煙草を片手に反対の手に持っている資料を読みはじめた。これからの取り組みについて書かれてあったが、まだまだ手探りで進めていることは理解した。
殺人事件を追うことが多かった捜査一課であったが、異動後は軽犯罪に対応することになりそうだ。
年齢のこともあるが、家族のためを思うと悪くないのかもしれない。あとは定年退職まで形だけの課長として刑事人生を終えることになりそうだ。
資料の最後には新設部署に配属される人物のリストがあった。リストには山本を含めて七名の名前があった。
詳しいことは書かれておらず、名前と年齢、簡単な経歴がわかった。
そこから判断できることは皆が若いこと、うち二名が女性であること。聞き覚えのない名前が並んでいて、警視庁の人間でないこともわかった。
経験が長いため所轄の刑事と合同で捜査をしたことも数えきれないほどあるが、その記憶のどれにも該当する人物はいなかった。
山本は短くなった煙草を灰皿に押し付け、喫煙室を出た。
窓から見える外の景色はいつもと変わらない、綺麗な青空とその色を映す川。なぜか山本には、その景色がいつもと違って見えた。
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