第80話 仕立て屋兎の懐中時計

 向かいに座る夢野Q作を名乗る男が言う提案はとてつもなく魅力的なものだった。

 あのゾンビだらけの世界から抜け出せることができる。

 

 いつ死ぬかもしれない世界。


 まともな精神を保つことができない恐怖と狂気の世界。


 そこから抜け出せる。


 見たところこの世界はゾンビが支配するようになる前の世界に酷似している。

 あの平和な日常がだらだらとながれる、死を意識せずにすむ世界。


 でも彼はこう言った。

 君だけだ。

 その言葉を意味するのはあのゾンビだらけの世界から逃げ出せるのは私だけということだ。

 百合ちゃんや美咲、安藤さん、セイレーンさん、そしてあいつ。

 彼らを見捨てて、自分だけ安全な世界に逃げ出すということだ。


 私のなかでもう一人の私がささやく。


 あんなつい最近出会った人たちのことなんて忘れて、こっちで平和に暮らしたらいいじゃない。

 あんな世界に戻ったらいつ死ぬかもしれない。

 そんな世界にとどまるより、こっちで魂をわけた兄弟と平和に楽しく暮らしたらいいじゃない。

 ここにいればいつ死ぬかも知れないという心配はしなくていい。


 私はうんとうなずきかけた。


 でもそれはできなかった。

 私がいなくなればどうなるのだろうか。

 あっちに残した人たちはあの不気味な巨人に殺されてしまうだろう。

 しかし、私が戻ったところであの巨人に勝てるのだろうか。 

 私もろとも全滅してしまうことだってありえる。 

 しかし、戻らなければ彼らが死に絶えるのは確実だ。

 あのまま幼い百合ちゃんが無惨に巨人に食われる姿は想像するだけでもおぞましいものだった。



「私、やっぱりここにはいれない……」

 私は言った。

 あー言っちゃった。

 自分でも馬鹿だなと思う。

 夢野Q作の言う通りにするのが一番なのは頭ではわかっている。

 でもあっちに残した皆を見捨てるほど私は非情になれなかった。


 その言葉を聞いたゴシックロリータの少女、モヨ子が目を細めてにこりと笑った。

 私の手をその小さな手で握った。

 そのモヨ子の手は驚くほど冷たかった。

 

「いやあ、やっぱりそうですか。そういうと思ってましたよ。あなたは優しい人だ。でもその優しさが時として命とりになることがありますよ。いいでしょう、兄妹のよしみです。あなたに一つ餞別をさしあげましょう」

 夢野Q作がそう言うと、突然、私の手の中に何か固いものがあらわれた。


「手を開いてみてお姉ちゃん」

 とモヨ子が言った。


 私は彼女の言う通り私は手を広げた。

 私の手のひらに銀の懐中時計が乗っていた。

 蓋にベストを着た白兎がデザインされていた。


「こ、これは……」

 私はモヨ子に訊いた。


「これはね、お姉ちゃんがもっている魔書グリモアール不思議の国のアリスの能力の一つ仕立て屋兎の時計よ。それ使えばもとの世界に戻ってもかなり有利に戦えるはずよ」

 モヨ子はにこにこと笑みを浮かべながら、そう言った。


「もう一度聞くが、本当にいいんだね」

 夢野Q作は私の目をじっと見て言った。

 なんだか鏡に写った自分自身に見つめられているような気分だった。


「ええ、いいわよ。戻してちょうだい。戻って百合ちゃんたちを助けなくちゃ」

 私はそう答えた。

 速く戻って百合ちゃんたちを助けなくては。

 私はぐっと手にのる懐中時計を握りしめた。


「了解しました。あなたを元の世界に戻って差し上げましょう。忘れないでくださいね。あなたは私どもの魂をわけた兄妹なのです。あなたが危地に陥ったときは必ず残りの十七人も駆けつけるでしょう」

 夢野Q作はそう言うと私の手を握った。

 モヨ子と違って血のかよった温かい手だった。

「さあ、目をつむってください」

 私は夢野Q作まぶたを閉じた。

「次に目を開けたとき、あなたはあの世界に戻った瞬間あの巨人にやられないようにね」

 Q作はそう言い、さらに手を強く握った。

 ちょっと痛いぐらいだ。


「それではあなたを元の世界に戻します。私どもはあなた方の勝利を願っております」

「がんばってお姉ちゃん」

 モヨ子が冷たい手を重ねる。

「それではドグラマグラ、ドグラマグラ。三千世界の扉はかくして開かれる」

 Q作が言うと、私は奇妙な浮遊感に救われた。

 キーンと耳なりがする。



 耳なりがおさまり、まぶたを開けると私は元の世界に戻っていた。

 手にはあの懐中時計が握られたままだった。

 かすかにQ作の手の暖かさとモヨ子の冷たさが残っている。


「ちょっとちょっと何ぼけっとしているのよ!!」

 美咲がそう叫び、私の腕を引っ張った。


 あの巨人がハンマーを振り回し、ついさっきまで私が立っていた場所に下ろしたのだ。

 地面におおきなクレーターが開けられた。


 これは危なかった。

 戻ってすぐにしんじゃうところだったわ。

 ありがとうね、美咲。

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