第72話 二つの心

 冷たい目でラファエロは海老原の死体を見ていた。

 だが、海老原を無惨に殺したすぐ後、ラファエロは頭を抱えだした。

 膝をつき、苦しんでいる。


「なんてことを……」

 それはもとのセイレーンの高い女性の声だった。


「やつは生き残った人間の中でも生きる価値のない人間だ。おまえの庇護がなければすぐにでも地獄に落ちていたのだ」

 それはラファエロの声だった。


「それはあなたが決めることではないわ。人間のことは人間が決めなくてはいけないのよ。私はあなたのプログラムなんかにはしたがわないわ」

 セイレーンはそう言うと、自分の左の乳房に手をかけた。

 爪をたて、ぐっとそれを握る。

 爪先がくいこみ、白い柔肌に赤い血が流れる。


「やめるのだ。この体はおまえのものでもあるのだぞ。私はおまえでおまえは私なのだぞ。それにその行為は神がもっとも忌み嫌うものだ」

 ラファエロが言った。

 彼が話している間だけ、手の動きが止まる。

 どうやらひとつの体に二つの魂が宿り、せめぎあっているようだ。


「嫌よ。私のことは私が決めるの。それはたとえ神様でも邪魔させないわ」

 セイレーンが言った。

「ごめんなさいね。せっかく助けてもらったのに。きれいな体に体に戻してもらったのに。でもあなたと一時でも一つになれて幸せだったわ。最後に人の暖かさを知ることができたわ」

 セイレーンはそう言うとさらに左の乳房に突き立てた指に力をこめた。

 爪はずぶずぶと皮膚の中にめり込んでいく。

 ぼとぼとと赤い鮮血が床を汚す。


 ダメだ。そんなことをしちゃあダメだ。このままでは死んでしまう。

 僕は彼女の行為を止めようとしたが、体がうまく動かない。

 足を前にだそうとするが、ずるりと床に倒れてしまった。

 僕は這って、彼女の体に手を伸ばす。

 だが、僕の手はセイレーンに届かない。


 セイレーンは自分の胸から心臓を取り出した。

 血が床と天井に舞い飛ぶ。

 僕の顔にもその血がかかる。

 手のひらに乗せられた心臓はまだ動いていた。

 セイレーンは心臓を持ったまま、仰向けに倒れた。


 僕は自分の体に鞭打ち、這いながら彼女のもとに近づく。

 驚くべきことにセイレーンの心臓から金のメダルがこぼれ落ちた。

 まさか。

 僕は床に転がるそのメダルを掴んだ。

 そのメダルを見た。

 そのメダルには心臓ハートがデザインされていた。

 これは心臓ハートのアルカナか……。

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