第6話 桂太陽 始動する
【桂 太陽 3】
そうして成長していった北翔高野球部は1年の県大会はピッチャー太陽抜きでベスト4まで勝ち上がり甲子園出場を決めた学校に惜敗した。
秋季大会は同じくピッチャー太陽抜きで県大会準優勝し九州大会であと1勝すれば春の選抜が内定という準々決勝で、これまた優勝チームに敗れてしまった。
テレビでは、九州大会で戦ったチームが甲子園で躍動している中、いよいよ満を持して、エースピッチャー桂太陽が始動していた。
太陽は、弥生から1年の間は投げさせないと言われ、その利を説かれて納得して監督指示に従ったが正直なところ半信半疑と部分がないわけではなかった。
しかし、1年間指示通りにしてみて弥生の慧眼には脱帽するしかないと思っていた。
1年間キャッチャーとしてピッチャーを支えてみて、野球観が何倍にも広がったように感じていた。
マウンドに立てない欲求不満は、ピッチングに対する飢餓感を増大させ、1年後に投げる日を夢見て直向きに体力作りに没頭することができた。
その成果は見事に体つきに現れていた。
自分でも中学生の身体から高校生の身体に変わってことがわかった。
こうして投げてみて球の勢いが1年前とは明らかに違っていた。
それでいて、この1年間はキャッチャーの目を通じて投球術やバッター心理を考える習慣も身についていた。
1年前とは数段階高い位置にいることが実感でき、改めて監督の指示を信じてやって良かったと思いながらキャッチャー目がけて投げ込むのだった。
太陽がピッチング練習を再開して数ヶ月、待ちに待った地区予選が始まった。
中学時代から数えて1年半ぶりの公式戦であった。
7番ピッチャー桂くん、という場内放送に地区予選1回戦というのに大勢集まった観客から大歓声が沸き上がった。
太陽は予定していた3イニングをパーフェクト、しかも9者9三振というド派手な高校野球デビューを飾ったのだった。
その年、北翔高は太陽の目を見張るピッチングで甲子園初出場を果たすのだった。
北翔高は、地区予選無失点という記録を残して優勝を果たした。
一部の関係者では知れ渡っていた太陽であったが九州に凄いピッチャーがいる、という噂は高校野球のスターに飛びつくマスコミの知るところになり、各テレビ局が甲子園大会を前に太陽フィーバーの様相をていし始めていた。
甲子園初出場を決めた北翔高の勝ち上がりを特集した記事に
「桂投手のピッチングにばかり目が行きがちであるが、北翔高の打撃陣は最少得点であった決勝戦でさえ5点を取っており桂投手がいなかったとしても決勝戦に勝ち上がっていたことは間違いないと断言しても言い過ぎという批判はないであろうチームであった」
と記載されていた。
しかし、この強力打線の陰に毎日バッティングピッチャーを買って出た獅子狼の存在があることは北翔高ナインのほかに知る者は皆無であった。
ついに北翔高ナインは甲子園球場にやってきた。
長崎県代表に凄いピッチャーがいるという前評判に加えて北翔高にはマスコミが飛びつく要素がいくつもあった。
甲子園出場チームとしては初めての女性監督、それだけでも話題性十分なのに、その女性監督が若くて美形とくれば野球ファン以外にも関心は高まっていった。
その監督はお飾りではなく北翔高の初出場に導いた数々のエピソードが取材で明らかになったことから各マスコミは挙って弥生のことを報道した。
そんな北翔高フィーバーを社会現象にまで引き上げたのが太陽であった。
注目度満点の中、初めての甲子園のマウンドを踏んだ太陽は初戦でノーヒットノーランを達成したのだった。
出したランナーは初回、先頭打者に与えたフォアボールの一人だけであった。
フルカウントから太陽が投げ込んだ直球は外角低めいっぱいで太陽もキャッチャーも、会心のコースに決まった、三振だと確信したが主審のコールは無情にボールという判定であった。
このことが太陽のノーヒットノーランに付加価値を与えて報道されることになった。
各社は「幻の完全試合」と見出しを打って報道した。
試合後のインタビューでも監督や太陽に対して「あの6球目はストライクだったと思っているではないか」という質問が相次いだが二人とも異口同音に「審判の判定どおりです今日は個人のことより、チームの勝利が一番嬉しいです」と答えたのだった。
その受け答えが「高校生らしい」と好感を持って報道され北翔高フィーバー、太陽フィーバーは社会現象と言われる程、加熱して行くのだった。
【山口秀明】
太陽の初めての甲子園はベスト4をかけた戦いで大阪の野球名門校導院学園に0対1で惜敗した。
その年のドラフト1巡目指名間違いなしと評判の大会№1左腕投手を北翔高ナインは打ち崩せず9回まで0が並んだ。
その裏、太陽は、これまた大会№1の強打者にツーベースを打たれた。
太陽は、それまで大会最高打率と最多ホームランを打っていた、この4番打者を完璧に抑え込んでいたが最終回に初めて打たれてします。
解説者曰く「今の打席も桂投手が打ち取っていたのですが飛んだコースが良かった。導院学園に付きがあったようです」という太陽から見れば不運なヒットであった。
超満員の球場全体が異様な雰囲気になる中、太陽が5番打者に投げ込んだ渾身の直球は、打者のバットを押し込み、当たりそこねの打球が弱々しくライト方向へ飛んだ。
ファーストの佐久間源とライトの山口秀明が打球を追った。
打球はその中間付近に落ちてきた。
「落ちるか」打球を見つめる観衆の大歓声の中、ライト山口が俊足を活かして打球に飛び込んだ。
山口はグローブの先を確認した。
「入っている」素早く立ち上げり、小さくガッツポーズをする山口に球場全体に大歓声が響いた。
同時に、別の歓声が沸き上がったのに気付いて山口がセカンドを見るとランナーがタッチアップをしてサードに走っていた。
『まさか、この距離でタッチアップ? 4番は足は遅い方だったろう』
そんなことが頭に浮かびながら山口はスタートを切ったランナの予想外の行動に虚を突かれボールを握る手が不十分なまま送球をしてしまう。
投げた瞬間、山口は『しまった!』と心で叫んでいた。
その後の光景が山口には途切れ途切れのストロボ映像のように見えた。
サードの頭上に伸びるボール、それに飛びつこうとジャンプするサード、腕をグルグル回して走れと叫んでいるサードコーチャー、三塁を蹴ってホームに向かうランナー、三塁側フェンス方向に飛んでいったボールを追いかけるサード。
そんな山口の耳に導院高校スタンドからの大歓声が飛び込んできた。
山口はホームを駆け抜けたランナーの方を確認することなく、その場に崩れ落ち立ち上がることができなかった。
呆然とグランドに蹲る山口は一つの足音が近づいてくるのに気付いた。
しかし、身体が反応しなかったのだった。
呆然と視線を合わせるでもなくグランドの一点を見ていた山口に足音の主が
「まだ、春と夏がある。先輩には悪いが俺たちは雪辱の機会が残されているんだ。蹲って時間を浪費する暇はないぞ」
と言った。
山口は顔を上げた。太陽が右手を差し出していた。
山口はその手を握りしめ太陽と一緒に駆け出した。
『悔しいのは俺だけじゃない。この炎天下導院の強力打線相手に投げ続けていた太陽は打ち取っていたのに俺の暴投で負けてしまい俺以上に悔しいはずだ。クソぅ、見てろ。この借りは絶対返していやる』
そう心に誓いながら走る山口の目からは止めどなく涙が流れ続いたのだった。
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