世間 2

 翌日の夜、浦和は速いペースで飲んだ。おごるからお前も飲め、と何度も言った。あまり飲めないという赤羽のグラスに繰り返しビールを注いだ。お前はバカだけどいい奴だ、と言って、いい奴だけどバカだ、とも言った。赤羽は、喜んでいいやら怒っていいやらわからなかった。

 そして浦和はそっと口を開いた。アッチャン、俺はね、若い頃は官僚だったんだ。ずっと官僚でやってくつもりが、ある時ワイロを渡されて、断ったら翌日から仕事がやりにくくなったんだ。

「え、どうしてですか? 立派じゃないですか」

「ワイロをもらった連中がオレをいびり始めたんだよ」

「なんでですか? もらえなかった人がもらった人をやっかむなら、わかるんですが」

「告げ口されるのが怖かったんだよ」

「え…」

「職場に居辛いづらくしてめさせたのさ」

 そういうことか。そういった世界なのか。世間は広い、と赤羽は妙なことを思った。世界には僕には想像もつかないところがあるんだ。


 いつしか浦和も赤羽もロレツが回らなくなっていた。閉店となる頃には二人とも爆睡していた。弱り顔の店員に起こされ、代わりに赤羽が支払いを済ませ、何とか駅まで歩かせてうのていで電車に乗り込んだ。親切な浦和は、オレが起こしてやるから寝てなさい寝てなさい、と繰り返していたので、信じやすい赤羽はついうつらうつらとしたら、たたき起こされてみたら終点で、しかもたたき起こしたのは、これまた困り顔の駅員だった。浦和はすでに正体不明だった。肩を揺すったら、アッチャンは寝てなさい、って相も変らず酒臭かった。感謝していいのか迷惑がっていいのか、わからなかった。改札を出てふと夜空を見上げると、あでやかな満月が二人を見下ろしていた。


 浦和をかついで最寄もよりのホテルまでようやくたどり着いてみたらラブホだった。やむなくチェックインして、ダブル・ベッドに倒れこむと、すぐに浦和はいびきをかきだした。やれやれ、と思って赤羽もベッドにもぐると、浦和の顔が目と鼻の先にあり、いまにも唇が触れんばかりだった。慌てて背中を向けると、何を勘違かんちがいしたのか浦和から何度も背中から抱き着かれたので、何度も蹴飛けとばした(ちょっとすっとした)。それから記憶が飛んで、次に覚えている場面といったら、時計の針が正午を指していることだった。カーテンの隙間すきまから柔らかい白昼の光が差し込んでいた。何の因果で男二人で泊まったラブホテルの追加料金を払わにゃならんのかいな、しかも会社はとっくに遅刻だし、と赤羽はまだいびきをかいている初老のオヤジを見下ろしながら思った。あ~あ、とつい大声を出したら、その拍子に三浦が目覚め、きょろきょろとして、口をあんぐりと開け、サッチャン、ついにオレたち男二人して男女の関係になっちゃったの? と頓狂とんきょうな声を上げた。


 その日、あきれた三浦の上司から残業を命じられた二人は、遅くまで書類整備をしていた。

「昨日はごめんな」

「いえいえ。浦和さんはもう大丈夫ですか? 酒臭い、って女子社員から敬遠されてましたよ」

「あれは恥じらっているのさ、オレがあんまりいいオトコだから」

「そのジョークって、何か昭和すよね」

「令和がナマ言ってんじゃない」

「ナマってなんすか?」

「おい、明日はまた飲みに行くぞ」

「え、また行くんですか?」

「明日は得意先の接待だから。お前も来い」

「しょうがないっすね。でも明日はラブホには行かないっすよ」

「昨夜のはちゃんと払うから」

「ありがとうございます。ラブホの領収書、浦和さんの財布に入れておきましたから」

「そんなとこに入れんじゃないよ。オレの奥さんが見たら、どうすんのさ」

「ちゃんと言えばいいじゃないですか、ボクと一緒に泊まったって」

「オレの奥さん、卒倒そっとうしちゃうよ」

「だからちゃんと言えばいいじゃないですか、お互い信頼しあっている関係だって」

「お前はオレの家庭を壊す気か」

「決して恥ずかしい関係なんかじゃない、って説明すればいいじゃないですか」

「正直が人間関係を壊すってことも、世間にはザラにあるんだぞ。お前、わかってて言っているのか?」

「全然わからないっす。何が問題なんすか?」

「こうだからお前は…」

 こうして職場の夜はけていった。

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