世間 1

 赤羽は新卒社員だった。直属の上司は浦和だった。右も左もわからなかったので、浦和のいうことは疑いもしなかった。呼ばれたら駆け足で出向いて転んだ。落ち着け、って言われたので次に呼ばれた時にのっしのっしと歩いたら、もっと急げとしかられた。コーヒーを買ってこいって命じられたら一階の自販機で(ホットしかなかったから)ホット・コーヒーを買って持っていき、真夏にバカがいるか、って怒鳴られたので、もう一度自販機におもむいて、フーフーとやってことにした。何事にも空回りの赤羽を、浦和は徹底的にしごいてやろうと決意した。くだんのコーヒーは終業時まで浦和のデスクに放置され、なぜ飲まないのだろうと、赤羽はずっと不思議がっていた。


 ある日、得意先を電車で一緒に回って帰社きしゃをすると、浦和は赤羽に語りかけた。ウチの会社は大手ではない。大手ならばスマホには業務用のがあるかもしれない。ウチにはない。だから個人のを使うしかない。でもな、と浦和は胸を張った。

「ウチは志だけは大手に負けないからな」

 浦和がまぶしく見えた。すると、

「あ、そのスマホ、忘れてきたっ」

 と、浦和が慌てた。そして、

「アッチャン、取ってきてくれ、すまないが、ほんとに」

「どど、どこに忘れたんっすか」

「いいから、誰かに、いいから、急いで、取られる前にっ。連絡するから、スマホで、後でっっ」

 浦和の慌てっぷりにやられ、赤羽は駆け出した。ひとまず駅に戻るために角を曲がったところで気がついた。後でスマホで連絡するって、そもそもどこに忘れてきたのかを言ってくれなければ、どこにも行きようがないじゃないか。善は急げ。盗られたら一大事。すぐに赤羽は浦和のスマホに電話した。粗忽者そこつものどうしの電話が始まった。

「スマホ、忘れたんすよね? ウチには業務用スマホがないんすから、浦和サンの業務用スマホにラインはできませんよね?」

「そうだ」

「だから浦和サン個人のスマホに電話しました」

「了解」

「頭が混乱してるので、現状をまとめつつ確認します」

「了解」

「スマホには業務用と個人用があります。が、ウチには業務用スマホがありません。だから、浦和サンが紛失したのは浦和サンの個人用スマホですね?」

「そうだ」

「で、業務用スマホがないんだから、僕が電話しているのは浦和サンの個人用スマホに、ですよね?」

「そうだ」

「その浦和サンの個人用スマホを忘れてきたんですよね? そもそもどこに置き忘れたのですか?」

「いま思い出しているから、もう少し待て」

「急いでいます。盗まれたら一大事です。浦和サンの個人用スマホから僕の個人用スマホに、浦和サンの個人用スマホをどこに忘れてきたのか、できるだけすぐに教えてほしいんです」

「も、もうちょっとで思い出す、と思……」

「急いで下さい」

「……アッチャン、もういい」

「え、どうしてですか? あきらめちゃいけません。僕、ダッシュでとってきます。遠くても頑張ります」

「いや、いいんだ、すまなかった」

「謝らなくてもいいです。ほんとにダッシュで行ってきます」

「いや、ほんとにいいんだ、ほんとにすまなかった。そのまま直帰ちょっきしてくれてかまわない。後はオレがやっておく」

「遠慮しないで下さい。僕は腐っても浦和サンの部下です。電話、見つけるためならできることはすべてやりたいんです」

「いや、それが、君にはできないんだ」

「そんなこと、ありません。浦和サンだって、いつも仰ってるじゃないですが、目標達成を決して諦めるなって」

 不毛なやり取りがしばし続いた。やがて浦和は怒り出した。折角せっかく取りに行くと言っているのに怒るなんて、と赤羽は理不尽りふじんに感じた。

「なんで怒るんすか!?」

「だから、オレのスマホ、あったんだ、皆まで言わせるな!」

「ご自分で取りに行けたんですか! 部下を使わずにご自分でやるなんて。よかったじゃないですか!!」

 赤羽は心から喜んだ。電話の向こうでは浦和は、バカな奴だと苦笑いした。

「明日は取引先と飲む予定がある。お前も連れていくから、忘れるなよ」

「え、あ、はい、わかりました! ところで、は僕は着ていませんが、どうすればいいんですか???」



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