栗鼠 2

 やがて次郎は塾では鬱々うつうつとなり出した。自宅にいれば悶々もんもんとした。授業には出ても放心状態となり、成績は徐々に下り始めた。母にも塾長にも、それに友人にも心配された。次郎は「師も友も知らで責めにき謎に似るわが学業のおこたりのもと」という啄木の短歌でもって答えた。そして黙り込んだ。年が明けようとしていた。


 塾長の提案で、受験生は合格祈願を兼ねて初詣に行くことになった。次郎も引っ張り出された。寒がりなので何枚も厚着をして迷惑顔をしながらも、次郎は弘子に会えて喜んだ。弘子は寒さで頬を赤らめていたので、いっそう次郎はドギマギした。神社の帰り道、塾長は用事があるからと先に別れた。友人の一人が正月くらいは飯に行こうとみんなを誘ったが、弘子は勉強がしたいから一人マックすると言い出した(さすがに塾は休みだった)。僕も、と次郎は思わずつぶやいた。呟いた後で心臓の鼓動が早まるのがわかった。頬を赤らめたのは寒さのせいではなかった。二人は友人たちと別れると、マックに向かった。


 向かう途中、弘子は英語の得意な次郎を質問攻めにした。強調構文ではどんな言葉が強調されるのか、英作文でいい問題集はないか、医学部向けのいい単語帳はあるのか(弘子は医学部受験で、作家志望の次郎は文学部だった)、この時期は何をどうすればいいのか、等々。二人きりで最初はどうなるかと思ったが、弘子の真剣な眼差しに次郎は自らを恥じた。学業の遅れを取り戻そうと密かに誓い、そしてブレずに勉強にいそししむ弘子に改めて畏敬いけいの念を抱いた。マックでは会話もせずに、二人は黙々と参考書と向き合った。弘子はいつもと変わらぬイヤホン姿で、いつもと変わらぬ勉強ぶりだった。そしていつもと変わらず可憐かれんだった。次郎は全身が熱くなるのを感じた。


 日が暮れ、風の冷たい冬の暗い夜となった。それでも久しぶりに集中できたこともあって、次郎は気が高ぶっていた。駅まで並んで歩きながら、自分から話し掛けようとした。するとそれをさえぎるようにして、弘子が口を開いた。


 次郎くんて文学部に行くの? 女子みたいだね。気色悪っ! 作家にでもなるの? 無理っしょ。せいぜいカクヨム・デビューするくらいじゃないの? アタシは医学部に行くんだけど医者にはならないわ。え、なぜって? だって、医療過誤とかで訴えられちゃ嫌じゃない。アタシ、患者に興味なんかないし。医学にも興味ないから絶対誤診しそうだし。苦労して医者になって患者に訴えられたりするなんて、バカじゃない。人生、楽が一番よ。アタシね、医者の彼氏をつくって結婚して一生楽して暮らしたいの。そのために医学部に行くの。いまだけ辛抱してるの。勉強なんて、全然つまらないもの。アタシね、ちょっと病弱で色白のイケメンがタイプなの。芸能人で似ている人いるんだけど、写真、見る? 次郎くんもちょっとタイプだけど、心の病気の人はいらないかな。次郎くんて、心も病んでるでしょ? アハハ! え、こんな話をするなんて意外だった? 控えていたけど、大学に受かったらみんなバラバラになるから、もういっかなって。みんなとは二度と会わないし、別にどうでもいいし。あ、アタシ、こっちだから。じゃね。受験、頑張ってね!!


 ……すばしっこい栗鼠りすは人の目から隠れるのがうまく、雑多な物を腹にたいそうため込むという。そんなことをふと思い出しながら、次郎は暗い夜道をとぼとぼと帰った。背中を丸めていたのは冷えていたばかりではなかった。誰かが宴会をしたのか、ビール缶やらおつまみの袋やらが道端に散らばっているのが見えたのはずっとうつむいていたからだった。澄んだ夜空には満月が昇っているのにも気づくべくもなかった。とりあえず受験は頑張ろう、と次郎は切なく誓った。

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