栗鼠 1

 次郎は浪人すると地元のS塾に入った。小さいながらも評判は高く、先輩にも早稲田や慶応に受かった人もいる塾だった。同級生も数人いて、そのうち一人は他校に顔が広く、いつしか次郎は新しい友人グループを形成していた。


 弘子はその中にいた。小柄かつ小顔で、少しばかり浅黒くてニキビがあり、友人の言葉を借りれば「栗鼠りすみたい」だった。塾の帰り道、みんなで駅前のコンビニに立ち寄った際に「栗鼠ちゃん」と呼ばれると、「せめてうさぎにして。そのほうが可愛いじゃない」と、きゃらきゃらと笑った。周囲の者も笑った。いつもは無愛想な外国人店員まで白い歯を見せた。明るい子だな、と次郎は思った。


 花が散って葉桜の季節になっても、次郎はエンジンが掛からなかった。ついゲームをやってしまうし、でなければカクヨムに入り浸っている。意を決してスマホの電源を切れば、父が欠かさず買ってくる「モーニング」に手を伸ばす。そうだ、塾の自習室を使えばいいと思っても、なぜか塾にたどり着くのは授業のせいぜい30分前である。自分はいったい何をしているのだろう。自己嫌悪しつつ着席すると、次郎の前には弘子がいた。次郎の知るおしゃべりな乙女ではない。熱心にシャーペンを走らせている。次郎が授業で席を外し、90分後に舞い戻ってきても、そこには弘子がいる。丁寧ていねいに赤マーカーをっている。その日は塾が閉まる22時まで弘子は自習していた。


 以来、次郎は弘子を目で追うようになった。午前7時から人気ひとけのない自習室に顔を出すと、すでに弘子は来ていた(その塾は塾長の所謂いわゆる「出血大サービス」で、7時から開いているのだ)。窓際の一番眺めのいい席に陣取って、イヤホンをしつつテキストに何やら書き込みをしている。昼休みこそみんなでお弁当を食べながら噂話に興じているが、休み時間が終わるとすぐに自習室にこもる。イヤホンをしながら不得意科目のテキストと格闘している。シャーペンをさあっさあっと走らせる音だけが静寂を破る。ちょっと騒がしい連中がいても、ドアが時に大きな音で閉まっても、何か匂うおやつを食べる人がいても、気にも留めずに参考書に目を走らせている。


 その弘子が、疲れたのか、ふと窓から見える小奇麗に整えられた芝生と、その向こうのレンガ造りの市立図書館に目をやる時があった。その小さく唇を開けた横顔に夕日が当たり、それを盗み見た次郎は、きれいだ、と思った。


 次郎が自習室に入り浸るようになったのは、弘子の側にいたいからだけではなかった。勉強ができないと思われるのが耐えられなかったのだ。素地そじがあったからか、成績が伸びるのは早かった。いつしか模試では、次郎と弘子は塾内で1位、2位を争うまでになった。帰りの夜道に木の葉が散って肌寒くなる頃には、二人は塾で一目置かれる存在となっていた。それ以上に、弘子から気安く話し掛けられるようになったのが嬉しかった。次郎とすれ違うと、弘子は上目遣いになって微笑むようになった(後で知ったのだが、それはたいていの男子に見せる媚態びたいだった)。


 それでも次郎の心は満たされないでいた。外交的な弘子は塾でも帰り道でも誰かしらと一緒である。駅に着けば電車は別方面である。ツィッターやラインではこっそり連絡する勇気がない。ましてや電話なんぞ。二人きりで話ができた試しがないのだ。


 


 


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