千香さん
西湖 鳴
千香さん
――なによ、大っ嫌い!
千香は眉間にしわを寄せてベッドに倒れ込む。
彼の過去も全部受け入れるつもりだったのに、彼は彼女を通して思い出の女性しか見ていなかったのだ。そりゃ嫌になる。
***
彼女が通う大学の講師・都築雅博は、彼女の思い人である。
背が高くて痩せ型で、ちょっと影のある物腰の柔らかな男。当然モテる。千香も入学当初から彼に憧れていた。
しかし、これまで彼を射止めた女性はいない。この大学に通う女子大生はきれいどころが多いというのにもかかわらずだ。
一方千香はかわいいが関の山の、普通の女の子だった。都築に憧れる大勢の中の一人で、目を引くような特徴もない。なのに、都築はその大勢の中から千香を選んで連絡を取ってきた。
最初は資料の整理を手伝ってほしいという、何気ないことだった。彼の講義の準備や資料整理を手伝いたい学生なんてたくさんいるだろうに、あえて彼女に声をかけてきたのだ。
そんなことがたびたびあって、やがて都築は彼女を「お礼に」と言って居酒屋に誘ってきた。
さすがの千香もこれだけの行程を踏めば、彼から好意をもたれていると期待もしていた。よく見れば、彼の自分を見る目もなんだか憂いを帯びているような気がしている。
しかし酒の席でしたたか飲んだ彼が語り出したのは、昔の女の話だった。
「先生、飲み過ぎですよ」
「聞いてくれるかい? 僕には忘れられない女性がいてね……」
優しく介抱しようとすると、赤い顔でテーブルに突っ伏す彼は突然自分語りを始めた。
彼は当時苦学生で、新聞配達をしながら勉強を続けていた。
早朝にバイクに新聞を積み込み、縦横無尽に住宅街を走り回り、各家の郵便受けに新聞を突っ込んでまわる。
早朝ということもあって起きているのは老人くらいなもので、バイクに乗ってまだ薄暗い町並みを一人孤独に走る彼は、しばらくして一軒だけいつも二階の窓からぼんやりとした電気の灯りが漏れていることに気付いた。
その家はこの辺りでも特に立派な外観の建物で、金持ちの家だというのがひと目で分かる佇まいをしていた。
その洋風でオシャレな家の二階の窓が一部屋だけ、いつも早朝から照明が付いている。
当初は特に疑問にも思わなかったが、ある日何気なく通りかかったとき、その窓辺に綺麗な女の子がいて、夜明けを見つめているのが見えた。
「何してるの?」
つい、声をかけてしまった。
彼女が綺麗な子だからというのもあるが、どことなく儚い雰囲気がしたからだ。
彼女は雅博を見つけると、恥ずかしそうに微笑んだ。
「夜明けを見てるの」
彼女の声は柔らかくて優しい響きがした。
名も知らない自分に物怖じすることもなく話しかけてくれる彼女に、雅博は恋をした。
以来、彼は新聞配達のたびにこの窓下の塀で休憩を取るようになった。もしかしたら、彼女に会えるかも知れないという期待を込めて。
大学とアルバイトの毎日を送る雅博にとって自分の時間を作るのはなかなかに難しく、彼女がどんな女の子で、どんな生活を送っているのか知ることは出来ない日々が続いた。
ただ、新聞配達で通りかかるときに窓辺の彼女を見つけられたら、それを糧に一日がんばれた。
彼女と出会った秋が過ぎ、寒くても窓を開けて短いおしゃべりを楽しんでくれるささやかだが楽しい冬が終わり、季節は桜のつぼみが膨らみ始める春にさしかかった。
ある日、めずらしく彼女が雅博をじっと見て言った。
「……アイスクリーム」
彼女の一言が何を意味するのか、雅博にはまったく分からなかった。
仮に食べたいというのならば、これだけ裕福な家だ。雅博に向かって言わずとも良いはずだ。だったらなぜそんなことを言う。
アイスクリームという言葉がアナグラムにでもなっているのだろうか?
しかしいくらアルファベットを組み替えても、意味のあるメッセージは見つからなかった。
次の日、改めて真意を聞こうと彼女の家にやってくると、窓にはカーテンがかけられ、固く閉まったままだった。
それから一ヶ月ほど窓が開くことはなく、心配になった雅博はアルバイトを休み、平日の昼間に彼女宅へ足を運んだ。
やはり窓は閉まっている。
玄関まわりをうろうろしていると、屋敷から小太りの中年女性が出てきて雅博に話しかけてきた。
「何か御用?」
彼女は怪訝そうに雅博を見ている。彼はジーパンとシャツにスタジャンと、決して身なりは良い方ではない。平日の昼間でもあり、不審者に見られても仕方なかった。
「あ、あの、ここのお嬢さんと知り合いなんですが……会えますか?」
思い切って言った。
女は一瞬目を丸くすると、改めて雅博をじっと見据える。
その視線に圧力を感じて一歩後ろに下がる。
「僕はっ、その、近所の大学に通う学生で、べ、別に、怪しい奴じゃ、その、新聞配達の時に朝窓辺にいるから少し話したことがあるだけで……!」
必死に説明する彼を見つめる中年女性の目がだんだんと潤んで、涙がポロリとこぼれた。
――えっ……。
その涙が何を意味するのか、はっきりとは分からなかったが……彼女に何かが起こっているのだろう。
雅博は肩を落として帰った。
しかし数日後、彼女は何事もなかったように早朝の窓辺に現れた。
彼女は雅博を待っていたようで、彼を見つけると元気そうに手を振ってきた。
「しばらく窓開けてくれなかったね」
見上げてそう言うと、彼女は困ったように微笑んだ。
「もう、夏だね。ほら、桜の木が青い葉っぱを付けてる」
彼女に言われて振り向くと、いつの間にか桜の花はとうに散り、枝は青々とした葉を付けている。
「病気なの?」
「……アイスクリーム、食べたいな」
「わかった。買ってくるよ」
雅博は質問するのをやめた。
初めて講義を無断欠席し、店の開く時間を待って駆け込むと、カップアイスを手にして彼女の待つ邸宅まで急いだ。
戻ってくると既に太陽は天高く登っていて、彼女の部屋の窓は閉まっている。
雅博はバイクを道の脇に止めると、道ばたの小石を窓に向かって投げた。
3つほどコツンと当たっただろうか、しばらくして窓がゆっくりと開き、彼女が顔を出す。
彼はそれを見て少し安心し、手に持ったカップアイスを見せた。
彼女の表情がパッと明るくなる。
「あ、でもだいぶ経ったから溶けちゃってるかも」
たしかに手の中のカップアイスは汗をかいている。しかし彼女は微笑みながらゆっくりと首を振った。
雅博はその笑顔を確認し、窓に向かって振りかぶると、アイスのカップを投げた。
彼女は上手くそれをキャッチする。
今までにない子供のような無邪気な笑顔に安堵したそのとき、雅博は気付いてしまった。
彼女がひどく痩せていることに。
その後、窓が開くことはなかった。
数日して、彼は屋敷の前に葬儀の花輪がいくつも飾られているのを見た。
そのときに初めて彼女の名前を知ったのである。
***
酔い潰れた都築を彼の自宅まで送り届けたまではよかった。まだ、若かりし頃の儚く美しい思い出というだけだったから。
しかし、押し倒されてそのまま彼と勢い交わってしまったあと、明け方、布団の中で聞いた彼の呟きに千香は戦慄した。
「チカさん……」
彼女は、一度も名前で呼ばれたことはない。
つまり、そういうことなのだ。
認識した瞬間から、ジワジワと彼女の中を熱いものが登ってくるのがわかった。
「ひどい! 私は身代わりじゃない! もう最低!」
そこからは彼女自身もあまりよく覚えていない。とにかく修羅場だったのは記憶している。
ただでさえ狭い部屋で枕を振り回し、部屋の物をごちゃごちゃに崩した。そのとき飛んできた炊飯器が急所に命中した都築は悶絶して倒れた。
そして一通り暴れた千香は、その勢いのまま自宅に帰ってきたのである。
ベッドで不貞腐れている内に寝てしまったからか、腹が鳴って目が覚めた。
「そういえば朝から何も食べてない……今何時だろう」
携帯電話を手に取ると、通信アプリの通知と着信履歴がいくつも残っている。
途端に今朝のことを思い出し、憮然とする千香。
一体どんな言い訳を……と、通信アプリを開く。
『ごめん、きっかけは名前だったけど、それだけであんなことしないよ』
千香の胸の中を、花びらが舞った。
急に昨夜の痴態と、今朝の暴れぶりを思い出し、二つの意味で猛烈に恥ずかしくなる。
――でも、まだ許さない。
千香は凄烈なスピードで返信を打つ。
『パンケーキ、食べたい』
返信を受け取った都築は、予想外の反応に目を見開いた後、失笑した。
千香さん 西湖 鳴 @tententententen
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