お兄ちゃんの憂鬱

 俺は困り果てていた。自室にてPCを前に頭を抱えている。たった一つのバグがどうしても解決できなかったからだ。


 0.1を十回加算してループを終える、ただそれだけの処理なのだがどうしても上手くいかなかった。バグが出る条件は境界値、そこにピタリと止まってくれることがなかった。


 一応条件式を==から>=にすればループから抜けることはできた。しかしループ回数が合わなかったりする。カウントがあるのでそれが一回の差を出してしまうと困ってしまう。


 俺は脳をリフレッシュするためにコーヒーを飲むことにした。キッチンに歩いていくと睡が紅茶を飲みながらテーブルで本を読んでいた。


「睡、コーヒー飲むか?」


 そう問いかけてみると睡は答えた。


「ああ、お願いします」


 俺はコーヒー豆を入れてミルを回しながらどうした物かと考えていた。朝っぱらから面倒な問題にかかっていたのでついつい豆を多めに入れてしまった。まあこのくらいなら味としては誤差だろう。


 スイッチをマグカップ二杯に合わせて運転を始める。ゴリゴリと豆が砕かれていく。昨日買ったばかりの豆なのでいつもよりいい香りが漂ってくる。


「お兄ちゃん、新しい豆ですか?」


「分かるのか?」


「分かりますよ! 香りが全然違いますもん!」


「そうか、意外とすごいな」


 睡はコーヒーに興味など無いのかと思っていたのでちゃんと違いが分かったことに少し驚いた。まあ封を開けて一日しか経っていないので分かりやすいと言えばそうなのだが。


 コポコポとドリップは進んでいく。その間にマグカップを用意しておく。こういう考えが焦げ付いているような時は思い切りたっぷりと飲むに限るので水は多めに入れている。


 ポポポと全て水が沸いてそれ以上は無いことを知らせてくる。しばらく待ってタンクに無くなった水が全てフィルターを通ってサーバーに落ちるとピッと音がしてドリップの終了を告げる。


 自分のマグカップになみなみとコーヒーを多めに注いでまだ多めに残っていたので睡の方にも少し多めに注いだ。


 当然、睡は砂糖とミルクも入れるのでいつもより多い分、砂糖を二本入れてミルクも二つを入れておいた。


 ここまで来るともはやコーヒーである必要性が薄いとか、コーヒー牛乳を飲めばいいんじゃないだろうかとも思うのだが、睡は満足げにいつも飲んでいる。


 コトリ、コトリと二つのマグカップを置く。


「今日はちょっと多めにしたぞ」


「ありがとうございます、お兄ちゃん、何かお悩みですか?」


 唐突にそんなことを聞かれて驚いてしまった。幸いコーヒーはこぼれなかったが、カップの中身はゆらゆらと揺れた。


「なんで分かったんだ?」


 睡のこの観察眼は時々鋭いので驚く。いつも勘がいいなら分かるのだが、俺に何かあった時だけやたらと勘が冴えている。


 しかし睡は何でもないことのように言ってくる。


「お兄ちゃんは悩んでいる時に刺激の強いものを食べたり飲んだりするでしょう? 今日のコーヒーは濃いですし、何かあったのかなって思いまして」


「かなわないなあ……」


 俺は頭を悩ませているバグについて話して述べた。睡に解決ができるとは思えなかったが話くらいは聞いてくれるらしいので愚痴ることにした。0.1を十倍しても1にならないというよく分からないバグだったので、その事について睡に意見を求めてみた。


「ふーん、大変ですねえ……」


 睡は同情をしてくれているようだった。


「理由とか分かったりする?」


「さっぱりですね、まあ細かい誤差でもあるんじゃないですか?」


「でもprint入れたらちゃんと表示は0.1になってるんだよなあ……」


「へー、それであってるんですかね?」


 睡は疑わしげだった。確かに0.1と表示されていた以上疑っていなかったのだが、そこを疑問に思うべきだったのだろうか?


「うーん……わっかんないなあ……Pythonが悪いのかねえ……」


「よく分かんないですけど、別のやり方があるんじゃないですか?」


「やり方……あっ!」


 俺は重大な見落としをしていたことに気がついた。実数は計算機で表現できないということだった。


 実数値は性格に保存することが出来ない、あくまでも小数点の付いた数でしかない。


 俺は急いで部屋に帰って近似値を比較するように変更して実行をしてみた、今度はちゃんとループが止まってくれて無事終了したのだった。


 俺は睡のところに行ってお礼を言った。


「ありがと、おかげで解決したよ」


 睡は満足そうにしていた。


「ではお兄ちゃん、私にお礼の一つでもしていただけませんか?」


「ええっと……分かったよ」


「よしっ!」


 睡はそう小さく言ってから考え込み始めた。俺が悩んでいた時よりよほど難問であるかのように考え込んでいる。あまり大したものを要求されても困るのだがな……


 そしてしばらく考えてから睡は俺に一つのお願いをしてきた。


「ではお兄ちゃん! 肩をもんでください!」


 実にシンプルなお願いに拍子抜けをした。そんなことでいいのだろうか? 俺としては一向に構わないのだが、睡のワガママにしてはあまりにも控えめだった。


「そのくらい別に構わないぞ」


「言いましたね? ではお願いします」


 言うが早いか、睡は服のボタンを上から数個外して肩をはだけた。


「ちょ!? なんで脱いでんの!?」


「脱いでるわけではないですよ? お兄ちゃんにもんで頂くなら素肌を直接お願いしようと思いましてね」


 確かに睡は肩をはだけただけで脱いではいなかった。


「お兄ちゃん? マッサージはしてくれるんですよね?」


 にこやかに言う睡に俺は反論ができなかった。


「いいんですよね?」


 睡の微笑みに負けて、俺は肩に手をかけた。柔らかくて温かな体の感触が直接手のひらに伝わってくる。ただ肩をもむだけなのになんとも緊張感を覚えてしまう。


 肩をもんで欲しいなどといっておきながら睡の肩はいたって柔らかく、こっている様子は全く無い、マッサージなど不要だろう。


「凝ってるところはありますかー?」


「もうちょい下の方……ああ、いいですねえ!」


 睡はそんなことを言いながらマッサージを受けている。柔らかななので力も全く要らず気楽な作業だったが、それをやっている間、睡がずっとなまめかしい声を出すので気が散ってしょうがなかった。


「ふぅ……お兄ちゃん! ありがとうございます! 明日への活力になりますね!」


「それは何より」


「またお願いしたいのでいつでも困っちゃっていいんですよ?」


「ハハハ……ほどほどに頼むよ」


 睡は締まりのない笑顔をしながら元気よく頷いたのだった。


 ――妹の部屋


「お兄ちゃん! お兄ちゃん! お兄ちゃんの手が私を……」


 ああ、なんて夢みたいな体験だったのでしょう! 素晴らしいです! こんな事は滅多にないですからね! 大事にしなければなりません!


 お兄ちゃんが私に何かを感じていただけたでしょうか? きっと私はお兄ちゃんにとって特別でありたい、いえ、特別に違いないと思います!


 私は眠りながら肩に残る感触を思い出し、まるでお兄ちゃんが肩を掴んでくれているような感覚を覚えるのでした。

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