眠る妹

「平和だなあ……」


 俺はそう独りごちる。ここには一人が足りなかった。睡だ。


 どこまでも俺の人生をかき回し、心を乱して俺の日常に介入してくる睡がいなかった。


 まあ休みなので寝ているだけなのだが、珍しい話だった。いつも朝から元気に俺と関わってくる睡なのに、今日は起きてきていない。いや、正確には起きてきているのだが、早朝に一度起きてきて「お兄ちゃん……おはようございます……ふぁ……ごめんなさい……今日はしばらく寝ます」と言って部屋に戻っていった。


 全くもって珍しいことではあるが、たまにはこんな日もあるだろう。俺は一人分だけコーヒーを淹れて自分だけで飲んでいた。なんだか一人だけで飲むコーヒーはいつもより苦いような気がしたので、普段は入れない砂糖を一本開けて流し込んだ。


 そうして飲んだ砂糖入りコーヒーもやはり苦い物だった。睡を起こしに行こうかと考えたところで、やはり人間眠い日はあるものだし、俺のワガママで起こすのも悪い気がしたのでやめておいた。


「秘蔵のアレでも飲むか……」


 コーヒーを一息に飲み込んで、キッチンの冷蔵庫を開ける、底の方に入っていたはずの物を取り出す。


「おっ……あったあった」


 出てきたコーラ……バニラコーラを飲むことに決めた。コイツは随分前に販売をやめて久しいのだが、思い出したように売ったりするので、売っている時にまとめて買った物の一本がまだ余っていたのだった。


 白いラインの入ったコーラのペットボトルを開ける、ぷしゅりと音がして、開けた時点で甘い香りが漂ってくる。まだ開けただけだというのにその甘さを感じさせるのはさすがとしかいいようがない。


 テーブルに座ってペットボトルに口を付ける、こちらはさすがに甘く感じた。時間が味を取り去ったのか、なんだか甘いだけの液体を飲んでいるような気になってしまう。


 やはり睡がいないと暇だな……暇が悪いことではないが……


 アンニュイな朝だった。一人が欠けるだけでここまで味気ないものになるのかと驚いたし、睡が俺の中で大部分を占めていることを今更ながら思い至ったのだった。


 そんなことを考えていると廊下の方でパタパタと音がした。


「お兄ちゃん! ごめんなさい!!!!! 寝坊しました!!!!!」


「いや、いいよ。誰だって眠い日くらいあるだろうし何より今日は休みだ」


「くっ……お兄ちゃんとの貴重な時間を獲得し損ねました……」


 いつもの調子が戻ってきて俺はなんだか気分が良くなった。


「コーヒー淹れようか? まだ眠いんだろ?」


「あ……ええ、お願いします。私はお昼ご飯作りますね」


 気がついてみると、もう正午に近くなっており、俺の朝ご飯はコーヒーとバニラコーラだけだったことになる。しかし何故だか腹はそれほど減っていなかった。やはり睡に使うはずだったエネルギーが行き場をなくして食欲を満たしていたのだろうか。


 テーブルの上を一瞥して睡は楽しそうに言った。


「お兄ちゃんは私がいないとすぐにジャンクな食事に走りますね?」


「ああ、ジャンク品って美味しいんだぞ?」


「まったくもう……私が食事を作らないとお兄ちゃんの食事事情は破綻しちゃいますねえ」


 睡はキッチンに立って食事を作り始めた。どうやら昼ご飯はフレンチトーストらしい。朝食に食べるもののような気もするが、睡からすればこの朝食が朝一の食事なので朝食みたいになるのも当然だろう。


 じゅうじゅうとパンが焼ける音と糖分たっぷりの甘い香りが漂う。心地のいい音だった。


「お兄ちゃん、コーヒーをお願いしますね」


「了解」


 俺はコーヒー豆を出してミルに入れる。睡の方は昼まで寝たので眠気はすっかり覚めたらしく、シャキシャキと動いているのだった。


 そうして本日二度目のコーヒーが淹れ終わる頃に睡の方も出来上がったらしい。そうして昼食となった。


「ではいただきます」


「はい、どうぞ」


 そして俺は一口フレンチトーストを口に含んで甘さを噛みしめる。なんだかとても甘い気がする。あの甘いと評判のバニラコーラよりも甘いような気がした。


 そしてコーヒーを一口飲むとさっきとは違いブラックで砂糖も入れていないはずなのになんだか味がマイルドになった気がした。


 睡が上目遣いでこちらを見ながら言う。


「美味しいですかね?」


 俺は決まりきった答えを返す。


「美味しいな」


「そうですか……フフ……」


 楽しげな睡を眺めながらいつもの味を食べている。いつも通りの味でとても心地のいい味だった。


「お兄ちゃん、今日は寝坊してごめんなさい」


「謝るようなことじゃないだろ? 休みなんだしな」


 睡は少し考えてから答えた。


「まあそうなんですけど、やっぱりお兄ちゃんと一緒にいるチャンスを減らしたのはやっぱり申し訳ないような気がするんですよ」


「難儀な性格だなあ……」


 俺は食事を終えてシンクに食器を置いて洗い始める。睡の方はまだ食べきっていないようだった。美味しい食事はやはりゆっくり味わう主義なのだろうか?


 洗い終えて睡のところに戻って聞いてみた。


「睡、今日は珍しく寝坊してたが何かあったのか?」


「ええまあ……ソシャゲのキャンペーンやってましてね、報酬が石だったのでついね……」


「石ねえ……」


「ガチャを回したいじゃないですか! 私はガチャを回すのがお兄ちゃんについて以外のほとんど一つの趣味なんですよ!」


 あまりいい趣味ではない気がしたがこの際それを言うのはやめておこう。


「で、石は手に入ったのか?」


「ええ、十連一回分くらいですかね。その辺でレイドボスの報酬が空っぽになったんですよ」


「ソシャゲガチ勢怖いな」


 十連一回といえば約三千円くらいになるので大きいといえば大きい、しかし……


「あんまり睡眠時間削るのはやめろよ? 体が持たないぞ」


「そですね、なんかとっても疲れたんですよ……」


 ネトゲにせよソシャゲにせよ、やり過ぎには限界がある。無茶のしすぎだといいたかった。


 コイツはこれでもソシャゲでは微課金に入るのだから恐ろしい、廃課金になると社会人が給料を全額ぶち込んでいるからな。睡眠時間を削るなんて大人しい方だ。


「お兄ちゃん、私と一緒にプレイしませんか?」


「やめとく、沼に沈むのは目に見えてるからな」


 睡は微笑んでから食事を終えて片付け始めた。しかしその表情は少し寂しそうだった。まあ俺はどのみちソシャゲをプレイする気はないのだが。


「お兄ちゃん! 今日のことですけど……」


「ん?」


「私が一緒にいないから食事をしなかったんですか?」


 俺はどう答えていいのか分からなかったので笑顔で睡に手のひらをひらひらさせて曖昧に答えたのだった。


 ――妹の部屋


「ふぅ……今日のデイリークリアっと……」


 課金と時間を溶かすのはほどほどにしないといけませんね。お兄ちゃんとの時間に勝るものはないのですからそこは弁えなければなりません。


 しかし、私は今日もそれなりにプレイしてしまうのでした。翌日が辛くなるのは分かっているのにそれをやめることはできないのでした。

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