兄と妹とハイレゾ
「お兄ちゃん、何を聞いてるんですか?」
「ん、ああハイレゾ音源が配信され始めたから試しに聞いてるんだ」
俺はイヤホンを外して言う。最近iPhoneにハイレゾロスレスが配信され始めたのでそれを聞いている。正直なところあまり違いは分からないのだが、公式が言うにはbluetoothではハイレゾを転送できないので有線を使えとの事なので、わざわざlightningに変換アダプタを付けて有線イヤホンを繋いでいる。
「へぇ……で音質はいいんですか?」
答えにくいことを聞いてくる睡、正直なところロスレスとハイレゾロスレスの違いなんてさっぱり分からない程度には劣化した耳なので分からないのが感想だ。
なんならmp3の128kbpsとの違いまで分からないほどなのでその質問をされても俺としては困ってしまうのだが……
「ああ、いい音だぞ」
「じゃあお兄ちゃん! 私にも訊かせてくださいね?」
そう言って俺の隣に来てイヤホンを片方自分に付ける密着する形となるわけだがもはやいつものことなのでそれについて何の感慨もない。
「しばらく聞いててくれ、俺はコーヒーを淹れてくる」
「はーい」
睡はそう言って両耳にイヤホンを付けた。
耳は年を取ると劣化していくと言うがどうやらもうすでに俺はハイレゾの違いが聞き取れない程度には耳が劣化しているらしい。
音楽なんて聴ければいい程度に考えているので音質にこだわりのない俺としてはあまり音型を受け取れなかった機能だった。
俺が高校生にしてそこまで老化現象が始まっているのか、あるいはただ単に俺の耳のスペックが低いのかは不明だがなんにせよハイレゾは過剰スペックであることは確かだった。
コーヒー豆を入れて水を投入、スイッチを入れる。ミルの音がやかましく響いた。結局のところ人には分相応というものがあるのだろうなと理解していた。要するに無理な物は無理なのだ。
大体においてワイヤレスイヤホンをあそこまで前面に押し出しているのにワイヤレスでは聞けませんなんて物が矛盾をはらんでいるとしか思えない。
俺はコーヒーのドリップが終わるまでコポコポという音を聞いていた。ハイレゾ音源よりこの原始的で物理的な音の方がよほど心地よく感じた気がする。
しばらく待っているとドリップが終わったので、マグカップを二つ用意して睡のところに持って行った。
カップからは気分を落ち着ける香りが漂っていた。俺はテーブルに置いて睡の方のカップに砂糖とミルクをたっぷり入れる。
「睡、その辺にして一杯飲もうか」
「ああ、ありがとうございます」
睡はイヤホンを外してカップを手に取る。
「で、違いは分かったか?」
俺がそう聞いてみた。案外睡なら違いが分かるのかもしれなかった。
「分かんないですね……でも……」
「ん?」
「早送りを連打してみてお兄ちゃんの曲の好みが分かりました!」
「えぇ……」
画面はロックしていたが再生と停止と曲送りはできる、俺のミスだった。
「そういうところは理解しなくていいと頃なんだよなあ……」
「ふっ……妹は兄の好みを知っておく必要があるのです!」
キメ顔で言う睡。やっていることの割に誇らしげなのがアンバランスだった。幸いなことに再生していたのがハイレゾ対応したアーティストの曲なのでそれ以外の曲は聴かれずに済んだ。俺だって聞かれたくない物くらいはあるからな。
「お兄ちゃんのことだから電波ソングくらいは入ってるかと思ったんですがね」
入っていた、実際に入っているので聞かれずに済んだことに感謝しなければならない。iPhoneがプライバシーにこだわっているとはいえ、自分から見せる分には一切守ってくれないあたりに注意する必要があった。
「まあ俺だって常識的な曲くらいしか入れてないよ」
睡は見透かすような目で俺を見る。
「そういうことにしておきましょうか。お兄ちゃんのデジタル空間での趣味はまた今度調べ上げることにしましょうか」
「いつだってやめて欲しいなあ……」
そんなやりとりをしながらコーヒーに口を付ける、苦味が心地よかった。睡の方は砂糖たっぷりの激甘コーヒーを美味しそうに飲んでいる。俺はブラック原理主義ではないのでとやかくとは思わない。
「やっぱりお兄ちゃんの淹れたコーヒーは美味しいですね!」
「それはどうも」
「ところでお兄ちゃん」
「なんだ?」
睡は自分のスマホを取り出す。
「私のスマホでもハイレゾは聞けるんですか?」
面倒な質問だった。聞ける、聞けることは聞けるのだが……
「一応聞けるぞ、ただしApple Musicへの登録がいるがな」
睡のスマホはAndroid、一応Apple Musicのアプリはあるがやはり登録は必要だった。
「あれ、月千円位しますよね? 微妙に高くないですか?」
「まあ他のハイレゾサービスに比べれば安いだろ」
サブスクリプションの音楽配信サービスは多いがハイレゾとなるとやけに高くなるか対応していないかの二択だった。そもそもの話なのだが……
「お前の持ってるスマホってイヤホンジャックが付いてなかったよな? ハイレゾを聞くには有線しかないぞ?」
「えー…………」
睡は不平の声を上げる。最近のスマホには大抵の機種でイヤホンジャックが消えている。ローエンド機種なら付いている物もあるが、睡の持っているやつはかなりのハイエンドだった。
「お兄ちゃん、なんとかなりませんかね?」
「そうだな……ああ、アレがあったか」
「なんです?」
「ちょっと待ってろ」
俺は睡にそう言って部屋に戻って机の引き出しを開ける。大量の電子部品の中から目的のブツを探す、使い道のない物なので引き出しの奥の隅の方に追いやられていて探すのに多少苦労したがそれは見つかった。
睡のところに戻ってそれを渡す。
「なんですかこれは?」
「USBType-Cからイヤホンジャックへの変換アダプタ、これを刺せば有線イヤホンが使えるぞ」
「マジですか! というかお兄ちゃんはなんでも持ってますね?」
「まあ電子工作も趣味だからな。他にもどこのご家庭にもあるいろんなモノを持ってるがな、ちなみに今欲しいのはニキシー管だ」
某アニメを見て欲しくなった、しかしあまりの入手性の悪さに諦めた物だった。
「お兄ちゃんは何でも持ってますねえ……ついでに妹の愛情も持っておきませんか?」
「もうすでに重すぎるくらいたくさんもらってるよ」
「はぁ……お兄ちゃんは私の愛情の大きさを分かってないですねえ……持てる時点で大したことないんですよ? 私のお兄ちゃんへの愛情は持ちきれない量があるんですよ?」
そんなやりとりをしながらある午後の日は過ぎていった。俺は途中でここにHomePodminiを置いたら良い感じに音楽が鳴らせるんじゃないかなあなどと考えるのだった。
結局、俺は最後までApple Musicのファミリープランに入れば安く聞けるぞということについては黙っておいたのだった。睡が追加料金を払うか不明だったからだ。
そうして寝る前にせっかくだから部屋のHomePodminiでヒーリングミュージックを聴きながら寝るのだった。
――妹の部屋
「お兄ちゃんの曲の好みはアニソンっと……」
私はそう唱えて今日お兄ちゃんのスマホで聞けた音楽について調べていました。結局全部の曲を調べ上げることはできませんでしたが、お兄ちゃんの理解がまた一段深まったことに満足して眠りました。
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