ドキュンメンテーションという悪夢

『このコード、ドキュメントと矛盾していませんか?』


 そんな一つのイシューがgithubに書き込まれたのが悪夢の始まりだった。『イシュー』それはまだ実装されていない機能の要望だったり既知のバグ報告だったり、とにかく様々な物が飛び交う……となればプログラミングも華々しい職業になったのかもしれない。


 実際のところは僅かばかりの物好きなユーザが要望を書き込むだけの場が俺のアカウントにあるリポジトリだった。


 その日、俺はメジャーバージョンがいくつか少ない頃からずっと放置していたドキュメントを整備する羽目になった。この量が尋常ではなく、かなりの作業量になった。


 日付が変わる頃になってようやく新規実装機能の半分くらいのドキュメント化が終わった。あくまでも使い方の解説であって、実装の詳細の部分については手つかずだった。実装の子細についてドキュメントにするにはそのコードは汎用性が低すぎた。いくらMITライセンスだからといってこんな物を再利用する奴はいないだろうと思われるスパゲッティコードなので、俺は考えるのをやめ、実装済みの機能だけは解説しておいた。


 すっかり窓の外が真っ暗になった頃、ようやく俺はベッドに倒れ込んで脳のスイッチをオフにした。


 翌日……


「ふぁあああ…………」


「お兄ちゃん? どうしたんですか? そんなにげっそりして」


「いや、過去の亡霊に追われてたんだよ」


 三日もすれば書いたコードなどすっかり忘れてしまう。数日で他人の書いたコードと変わりなくなってしまうので質が悪い。


「何を言ってるんですか? どーせまたくだらないことで睡眠時間を削ったんでしょう? コーヒー淹れてください、目が覚めますよ?」


 俺はそう促されていつも通りにコーヒー豆をミルに入れる。手が滑って少し多めに豆が入ってしまった。気にせずミルを回すとコーヒーの香りが漂ってきて、それが僅かばかり残っていた俺の意識を明瞭にしてくれる。


 コポコポとドリップをしながら香りを楽しみつつ、今日もあのコードの解説を書くべきかどうか悩む。要望としてあがってきている以上書くべきなのだろう、弱小開発者は滅多にイシューが登録されないので、出来る限りの声には耳を傾けたいと思う。


 ピッ


 そんなことを考えていたらコーヒーのドリップが終わった。いつも通りにマグカップ二つにそれを注いでテーブルに持って行く、朝食の準備は完璧に終わっていた。


「ではいただきます!」


「いただきます」


 俺は精一杯に余計な考えを脳内から追い出し、目の前のトーストとベーコンに目を向ける。糖分を取れば頭もスッキリするだろうか? そんな考えが浮かんでテーブルからスティックシュガーを一本取ってコーヒーに開ける。


「お兄ちゃん! 本当にどうしちゃったんですか!?」


「俺にだって砂糖入りで飲みたい時もあるんだよ」


 そう言ってからマグカップに口を付けるとブドウ糖が口の中から脳内に流れ込む。多少意識がハッキリした。脳内の暗黒部分に光が差したような錯覚さえ覚えた。


「で、お兄ちゃん? 結局何があったのかを聞く権利くらいはあると思うんですがね」


「ああ、昔書いたプログラムの保守をやってたんだよ」


 ドキュメント化の意味を詳しく説明しても多分分かってもらえないだろう。簡単な説明で済ませた。


 睡は不思議そうに首をかしげる。


「お兄ちゃんが書いたやつなんでしょう? そんなに苦労しないと思いますが……」


「お前小学生時代のテストの回答を今でも思い出せるか? そのレベルで過去のコードなんて忘れていくんだよ」


 睡は呆れているようだった。


「一円にもならないんでしょう? それともそのプログラムとやらでお金を取ってるんですか?」


「いーや、完全無料だし自由に使っていいやつだよ」


「だったらわざわざ夜更かしする必要なんて無いでしょう?」


 まあそれもごもっともな意見ではあるのだが……


「ユーザの希望には応えたくてな」


「お兄ちゃんは私の希望を優先するべきですよ!」


「だって使ってくれる人が超少ないんだよ! ユーザを大事にしたいじゃん?」


 睡は俺の肩に手を置いて断言した。


「そんな誰だか分からないユーザより私を優先してください! ユーザが何人もいてもお兄ちゃんの妹は私一人なんですよ?」


 そう言って頷く睡。まあ俺も睡と知らない人だったら妹である睡の方を取る自信はある。しかし俺は両方をすくい上げられるならそうしたいんだ。つまるところ俺は欲張りなのだった。


「お兄ちゃん、ロクに寝てないんでしょう? 特別ですよ?」


 そう言ってソファに向かっていき、座ってから膝をぽんぽんしている。


「ええっと……」


「膝枕をしてあげますよ、お兄ちゃんは少し寝るべきですね」


「そこまでしてくれなくても……」


 睡は少し苛立たしそうに言った。


「お兄ちゃんがポンコツだと私が気にするんですよ! ほらグダグダ言わずに私の膝の上で寝てください!」


 気圧されてソファに座り睡の膝に頭を落とした。柔らかな感触と体温が伝わってくる。しかし俺はそれを深く感じることもなく意識が暗がりへ転がり落ちていった。


 膝枕をしてもらった時点でほとんど意識は無かったのだが、眠りに落ちる時に『世話が焼けますねえ』という言葉を聞いた気がしたのだった。


 何分、何時間そうしていたのだろうか? 目が覚めて膝から頭を上げると時計はすっかり昼前を指していた。


「悪い、寝過ぎたな」


 睡は楽しそうに答える。


「いえいえ、お兄ちゃんが私の膝で無防備に眠るのにはそそられる物がありましたよ、フフフ」


 不敵に笑う睡だった。


「結構時間が経ってないか? 眠気が覚めるまで寝ちゃってたか……」


 睡は楽しそうに言った。


「お兄ちゃんの寝顔を満足いくまで楽しませていただきましたよ。時々はこんな事があってもいいかもしれませんね」


「俺からすれば不安の種は摘み取っておきたいところなんだがな」


 それでも方針くらいはキチンと決まった。ユーザがコードを書いてコミットできるシステムなのだから俺がわざわざ書く理由も無いだろう。


 そして俺は身も蓋も無い一つの回答を送ろうと心に決めるのだった。そして夕食が終わり、就寝前にPCの画面を付けてシンプルな回答をしたためた。


 結局、俺は睡眠不足の原因となったイシューについては『フォークしてそちらで書いてくれ、できたらマージするから』と丸投げしてしまったのだった。


 そうして俺のアカウントのリポジトリに付いているフォークのマークの横の数字が一つ増えたのだった。


 ――妹の部屋


「ああああ!!!!!!!! お兄ちゃんが私の膝に!!!!!」


 最高の一時を過ごせました。お兄ちゃんとの二人きりのプレイベートな時間は大事なことこの上ないのです。今日がどれほど良い日であったかは言葉にできないほどの歓喜をもたらしてくれました。


 私はお兄ちゃんがまた夜更かししてくれないかなあ、と思いながら眠ることにしたました。

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