妹の淹れたコーヒーは……
その日、何があったというわけでも無いのだが俺は寝過ごした。それというのも簡単に止めやすいスマホのアラームだけに頼ったのが原因だ。スマートスピーカーなら止めるのに一手間かかるので、そう簡単に寝過ごしたりはしなかったはずだ。
昨日は眠かったのでついついスマートスピーカーにアラームをセットするのを忘れてしまった。今朝の記憶が僅かに残っており、俺は記憶の限りでは手を伸ばしてスマホをタップしていた。
キッチンに急いで行く。睡のことだ、多少の不満を聞かされるのは我慢しよう。今日に関しては間違いなく俺が悪い。
「睡! 悪い! 寝坊した!」
バタバタとキッチンに入ると朝食の準備は全て終わっていた。ハムエッグ、トースト、そしてコーヒー。問題の無い朝食がそこには並んでいた。並んでいたのが奇妙に思えた。
「お兄ちゃん! おはようございます!」
「あ、ああ……おはよう」
眠気の逃げていない頭で現状を考えてみる、どうやら睡が全ての準備をしたようだ。
「まあお兄ちゃんだって寝坊する日はあるでしょうし、構いませんよ。ところでせっかく時間があったのでコーヒーを淹れてみました」
どうやら俺の役目は睡がしっかりとこなしたらしい。まあコーヒーを淹れるなんてそう難しいことじゃないし、何よりウチには全自動のコーヒーメーカーがあるので技術の介入する余地はほぼ無い。睡が淹れたって何の問題も無い。
分かってはいるのだが俺はそれにどことない寂しさを感じた。理論ではなく感情的な話だったのでそれを口に出すのは
「じゃあお兄ちゃん、朝ご飯にしましょう!」
「あ、ああ」
席についてトーストをかじる、いい感じに焦げ目の付いたいい香りのトーストだ。ハムエッグも半熟で肉と卵がいい感じに焼けている。
そしてコーヒー……俺の分はちゃんとブラックなようで甘みもまろやかさも無い苦味がたっぷり入った味がした。
「結構濃い感じに淹れたんだな?」
睡は誇らしげに胸を張った。
「そうですよ! お兄ちゃん好みの味に仕上げてみました! ちなみに私は紅茶です」
よく見ると睡のマグカップから糸が垂れていて持ち手がくっついていた、どうやらティーバッグで済ませたらしい。
「お前はコーヒーじゃなくていいのか? せっかく淹れたんだろう?」
睡は少し寂しげに答えた。
「お兄ちゃんが淹れてないコーヒーに価値は無いですからね」
断言するのだった。コーヒーの好きな俺からすればよく分からない感覚だったが睡は紅茶の方が好きなんだろうか?
「なあ、紅茶の方が好きなんだったら明日からお前の分は紅茶でも……」
「おっとお兄ちゃん! みなまで言わなくても大丈夫です! 私はお兄ちゃんが作ってくれたのなら紅茶より手間をかけてくれたコーヒーの方が大好きですよ? 自分で淹れたものを飲もうとは思いませんがね」
よく分からないがとにかく明日からも朝食にはコーヒーを付けていいようだった。
「ところでお兄ちゃん、今朝は遅かったですね?」
責めているわけではないのが分かるがどことなく不満を感じる声音で睡は言った。
「悪かったよ……ついついスマホに手が伸びてな、気がついたらアラームを止めてたんだ」
睡はいたずらっぽく言う。
「だったら私が起こしに行ってあげましょうか? それで寝坊問題は解決です! ついでにスマホのアラームすら必要無くなりますよ?」
「いや、悪いからいいよ。昨日はEchoにもHomePodminiにもアラーム登録してなかったんだ」
「別にスマホでも変わらない気がするんですが……?」
「止めるための手間が段違いなんだよ……布団をはいでボタンを押すか、音声アシスタントに止めろと叫んでるうちに目が覚めるんだ」
「そういうもんですかねえ……?」
「そう言うものなの、一回目覚ましを止めるために音声アシスタントを呼び出してみろよ? あれ結構認識率が悪いからハッキリ発音しないといけないんだぞ?」
睡は楽しそうに答えた。
「お兄ちゃんは微妙にダメ人間なんですから私みたいなしっかり者がいないとダメなんですよ?」
反論もしようかと思ったのだが、少なくとも今朝に関しては間違いなく睡のお世話になってしまったので反論に説得力がないと思い黙ったのだった。
コーヒーをすすると苦味で頭がハッキリしてくる、ついでにスマホのアラームを止めた苦い記憶まで一緒にハッキリしてきた。
やっちゃったなあ……
今朝枕元に充電ケーブルに繋いでいるiPhoneのアラームが鳴っているのを手だけを伸ばしてストップボタンを押した、押してしまったのだった。
今更そんなことを公開してもしょうがないのだが、睡に手間をかけさせてしまったのは申し訳なく思った。
そんなことを考えていると睡が俺に提案をしてきた。
「お兄ちゃん、申し訳なく思っているなら学校から帰ってきたら一杯コーヒーを淹れてくれませんか?」
「え? ああ、それは別に構わないが……そんなことでいいのか?」
「ええ、やっぱり一日一杯はお兄ちゃんの淹れたコーヒーが飲みたいですしね、眠気はないですけど満足感もないですからね」
「分かった、一杯淹れるよ」
にこやかに睡が微笑んで頷いたのだった。
そうして学校での退屈な授業について話すことは無いだろう、大半の人が経験している退屈なアレだ。これといって特別なことが無いので通り一遍の授業を受けて俺たちは帰ってきた。もはや俺たちの手を繋いでの帰宅に疑問を挟むやつが一人もいなかったことくらいはあえて言っておくことかもしれない。慣れって怖いね……
ようやく帰宅して制服を脱いでコーヒーメーカーのミルを開ける、睡は洗浄まではしていなかったらしく、コーヒーの粉がドリップした時のまま残っていた。
それをシンクに流してキャッチされた網を交換する。こればかりは全自動より紙のフィルターに劣る点だと思う。はっきり言って不便だ、紙のフィルターならまとめて捨てるだけでいい。
軽く洗い流して本体にセットする。豆をミルに入れて水を水差しから注ぐ。マグカップ二杯分、多過ぎも少なすぎもしない、ぴったり二人で飲むのに丁度いい分量だ。
スタートを押すと豆がゴリゴリと削り砕かれていく。それとともにいい香りが漂ってくるのだが、睡はあまり興味が無いのだろうか?
面倒事を任せてしまったのかと少し気落ちするがそんなことはお構いなしにドリップは進んでいく。
コポコポと音を立てながら沸騰したお湯が砕かれた豆に染みこんでいく。先ほどよりもハッキリとコーヒーの香りが沸き立つ。睡はこちらをキッチンのテーブルから優しげに見ているが、なんだかコーヒーメーカーより俺の方に視線が飛んできている気がしなくも無かった、自意識過剰だろうか?
ピッと音が鳴り水が無くなったことをつげる。俺はマグカップを二つ取り出し、コーヒーを二杯注いだ。
そうして未だ制服姿の睡のところへカップを持って行った。睡は頷きながら受け取って愛おしそうにそれを飲んだ。コーヒーに興味が無いにしてはやけに大事そうな飲み方だった。
「睡、やっぱりお前コーヒー好きなのか?」
「へ? なんでですか?」
「いや、美味しそうに飲んでたからな」
睡は微笑みを湛えたまま俺に答えた。
「私は『お兄ちゃんの淹れた』コーヒーが好きなんですよ」
その言葉に迷いは無く、どうやら当面の間は朝食にコーヒーを淹れるのは俺の役目で変わりは無さそうだった。俺は何故かその事実に幾ばくかの安心感を覚えたのだった。
――妹の部屋
「やっぱりコーヒーはお兄ちゃんのに限りますね!」
私が淹れたやつは少し味見をしましたが気に食わない味だったので流してしまいました。やはり私はお兄ちゃんが淹れてくれないと満足できない質のようです。
「まあ当面のところ、お兄ちゃんが淹れてくれるでしょう!」
私はその確信とともに安心して眠ることができました、意識が落ちる前に考えていたのは明日のお兄ちゃんが淹れてくれるコーヒーのことでした。
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