妹とコーヒー
「お兄ちゃん、コーヒーはいかがですか?」
睡はそう言ってコーヒーメーカーのミルに豆を入れている。
「コーヒーなら俺が淹れられるから……」
しかし睡は首を振った。
「お兄ちゃんに任せっきりなのもアレですし、私もやってみたいですし、今日は私が入れようと思います!」
元気そうに言う睡に対して断ることは出来ないだろうと諦めて頷いた。
「じゃあ、たまにはお願いしようかな」
「任せてください!」
そう言って自信満々に準備をしている。そうして今、睡は俺のアイデンティティーを奪おうとしているのだった。
俺が数少ない得意料理らしきコーヒーまで睡が作ってしまうつもりらしい。俺に何の取り柄もなくなってしまうのでやめて欲しい気がしないでもない。
まあ睡もコーヒーの味が分かるようになったと喜ぶべきなのかもしれないし、大してテクニックみたいなものもないからコーヒーメーカーの使い方くらい教えて置いても良いだろう。
「じゃあ睡、豆はどれにする?」
数種類の豆から睡の好みを聞いてみる。睡は少し悩んでから俺に言った。
「お兄ちゃんのお勧めをお願いします」
ふむ……お任せか……苦めのやつが俺の好みなのだが、睡のことを考えるともう少しマイルドな風味にするべきだろうか? 睡の方を見ると俺の好みをしっかり覚えようとしているのが見て取れた。ここは言葉通りに俺の好みを選ぶべきだな。
「じゃあこの豆を使おう」
「他のとは何か違うんですか?」
「ああ、深煎りされてるやつだ。苦めだが味は美味しいぞ」
睡は頷いてから豆のパックをよく見ている。どうやら覚えようとしているらしい。
「ここまで言っておいてなんだがな、睡の好きなのを香りで選んだって間違いじゃないんだぞ?」
「でもお兄ちゃんの好みが……」
「俺の好みだって気分や日によって変わるからな。自分が飲みたいのを選んだって間違いじゃないさ」
「そういうものですか……」
睡はしゅんとして考え込んでいる。
「まあ迷ったらこれを選んでおけば間違いはないんだけどな」
「なるほど!」
睡が頷いている。ところで俺が出来ることと言えば後は水を入れることと挽き加減の調整くらいで後はスイッチを入れるだけだったりする。そう言ってしまえば簡単だし、このくらいだから俺でも問題無くできているとも言える。
「じゃあこの豆を一杯コーヒーメーカーに入れて」
「はい!」
元気よく豆を一杯ミルに入れる睡。
「それで後はどうすれば?」
「どうも何も、水は入ってるから後はスイッチを入れるだけだな」
睡は露骨にがっかりしているようだ。まあ簡単だもんな。
「ではお兄ちゃんに心を込めて入れるには……?」
「豆選んで水入れてスイッチオン、これだけだ」
「えー……」
不満そうな睡だが、俺でもできると言うことはこういうことだ。あんまり高望みをされても困る。これだけ簡単なら失敗もしないだろう。
「お兄ちゃん、ケトルでじわじわお湯を注いだりしないんですか? 私ああいうのやってみたいんですけど!」
「ハンドドリップはなあ……難しいんだわな、機械が全自動でやってくれるのに手作業にこだわってもなあ……」
機械が出来るなら機械に任せる。俺なりの合理主義だ。こだわりのコーヒーなどと言うものもあるが俺はお手軽な方が好きだ。何より専門店でもないのにこだわっても続かないのは目に見えている。ある程度楽だからこそ続いているとも言える。
ガガガと豆の挽かれる音が響いてからコポコポとドリップする音が響く。俺のお手本はこれくらいしか出来ることが無かった。バルミューダのケトルでも買っていればあるいは……とも思うが、ただのコーヒーにそこまでこだわる気にもならなかった。
「とりあえずお手本ってことで一杯飲もうか」
せっかくドリップしたのだから淹れたてを飲むべきだろう、缶コーヒーも嫌いではないがコスパの関係で、自分で入れるのが基本になっている。カフェインを取るならエナドリでもいいのだが、エナドリにはこの香ばしさは無いのでコーヒーも好きだ。まあ急いでる時はレッドブルやモンエナを一杯飲み干してしまうのだが……
ずず……
コーヒーを一杯すすると苦味で頭が冴えるようだった。俺は基本コーヒーに砂糖もミルクも入れない。そういえば睡には必要だったことを忘れていた。
「悪い悪い」
真っ黒なコーヒーを前にたじろいでいる睡にキッチンの棚からスティックシュガーとミルクの瓶を取りだした。
「ほら、この豆苦いやつだから多めに入れておいた方がいいだろ?」
「お兄ちゃんは私を子ども扱いするんですね……まあ有り難く頂きましょう」
少し不満げだが結局砂糖を三本とミルクをスプーン二杯という傍目から見ても多めの量を入れて、MAXコーヒー並みに甘くなったんじゃないかと思えるコーヒーを満足げに飲んでいた。コーヒーなんてルールは無いんだから飲みたいように飲めばいい、その量を入れて大人ぶるのはちょっと無理が無いかなとは思わなくもないのだが。
マグカップ二杯がドリップした量なので、睡と俺とで一杯ずつ飲むとコーヒーは空になった。
「さて、睡も自分でやってみるか?」
睡は逡巡してから豆の缶を手に取った。
「そうですね、たまには私が淹れてみましょう! お兄ちゃんに私特製のコーヒーを淹れてあげますからね!」
そう言って楽しそうにさっきドリップした豆をフィルターごと捨てて、新しいフィルターをセットした。サーバーは……さっき入れたばかりだから洗う必要も無いだろう。こだわる人からすれば許せないかもしれないが俺はそこまでこだわりは無い。
豆を入れて水を注ぐだけなのだが、睡は水を注ごうとしてストップした。
「せっかくですし、ミネラルウォーターを使いましょうか」
そう言って冷蔵庫からボルビックを取りだしてコーヒーメーカーの注ぎ口にペットボトルの口を当てて注いでいった。
そして計った豆を入れて――ちゃんと計量するあたりが料理上手と俺の違いだろうか?――スイッチを入れた。
ガガガとミルが豆を砕いて全自動でドリップまでしてくれる、誰かの淹れたコーヒーを飲むのも久しぶりだな……まあコンビニコーヒーなんかを使ったことはあるがな。
コポコポとドリップされて黒い液体がガラスサーバに貯まっていく。五分ほどして水を使い切り『ピッ』という音を立てて抽出が終わった。
香ばしい香りがさっきと同じように漂っている。睡は俺の前のマグカップを取り自分のものと一緒にコーヒーメーカーのところへ持って行く。
そうしてコーヒーを二杯注いで俺のところへ持ってきた。
「じゃあ飲みましょう!」
「そうだな」
俺たちは揃ってコーヒーを飲んだ。豆は深煎りを使ったらしく、やはり苦味が強いものになっていた。前を見ると驚いたことに睡がブラックのまま飲んでいた。
「あれ? お前ってブラックで飲めたの?」
睡はキョトンとする。
「普通は飲みませんよ、でもまあ……私が淹れたやつですからね、そのまま飲んでみたいんですよ!」
そう言って苦そうにしながらもマグカップで一杯分を飲み干していた。
睡は少し考えてからこう言った。
「私はやっぱりお兄ちゃんが淹れてくれた方が好きですね……」
「そうか? 大して変わらないと思うが?」
睡は俺に目を向けて言った。
「一緒だったらお兄ちゃんが手間をかけてくれた方がいいんですよ」
「そういうものか?」
「そうです!」
どうやらまだしばらくは俺がコーヒーを淹れることに変わりは無いようで、少しだけ安心したのだった。その夜、窓の外から隣の睡の部屋の灯が俺が眠るまで煌々としていた。あいつカフェインに弱かったんだっけ? 悪いことしたかなと思いながら俺の方は意識が落ちたのだった。
――妹の部屋
「足りないんですよねえ……」
何がとは美味く言えないのですが、やはりお兄ちゃんが淹れたものと私が自分で淹れたものでは同じコーヒーでも違いがあるのです。きっとそれはどうやって淹れたか? ではなく『誰が』淹れたかなのでしょう。
私はその夜、眠れないまま、お兄ちゃんがずっと先にも私にコーヒーを淹れてくれている様子を想像して嬉しくなったのでした。
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