第2話 漆黒

 煉瓦れんが造りの橋を少年少女が埋めていく。中高生らしい色とりどりの私服姿。僕はその片隅に隠れるように、ひっそりと足を進めていた。目立たないように……悪目立ちしないように、適度に胸を張って、適度な歩調で。

 ショルダーバッグの紐を握り、なんとなく周囲の会話に耳を傾ける。今日はふもとの街に降りて、一般人に紛れる訓練。だから、暗殺者としての話ができるのは、この橋を渡るまでの間だけ。様々な話が聞こえる。情報収集の先生への愚痴や、スローイングナイフの扱いの裏技。それに、界隈で話題になっている暗殺者の話。

「ねー、知ってる? 例の『ハーツ』、今から行く街に出たってさ」

「マ?」

「マジマジのマジだって。売春斡旋してた女がやられたって」

 女子生徒の声が耳に入って、僕はそちらに視線を投げる。茶髪をツインテールにした生徒……僕の前の席の、桐原さんだ。見覚えのない紫髪の少女と話しながら、スマホの画面を指ではじいている。……『ハーツ』という通称には、聞き覚えがあった。思想犯。依頼でも金のためでもなく、自らの価値観と信条に従って人を殺す者。界隈でも異彩を放つ、孤高の殺人鬼。

 何となくそちらを眺めていると、桐原さんの視線がこちらを捉える。見てんじゃねえよ、とでも言いたげに僕を睨み、彼女は無言で中指を立てた。……軽く頭を振り、僕は再び歩き出す。引きつる口元を無理やり吊り上げ、馬鹿みたいに顔を上げて。

 橋の中腹で、僕は何気なく足を止めた。淀んだ川を見下ろし、そこに映る僕と目を合わせる。ひどく頼りなさげに揺れる影に笑いかけ、呟いた。せめて今日だけは、普通の女の子でいよう。


 ◇◇◇


 自販機で買ったペットボトルを片手に、裏通りの商店街を歩く。小さめの飲食店や古着屋さん、ゲームセンターなんかが立ち並ぶ街は、夕暮れの淡い紫色に染まっていた。焼き鳥屋さんの前を通り過ぎながら、僕は大きく背伸びをした。雨が降りそうな夕空にも心が躍って、オフィス前でおじさんが吸ってる煙草の匂いすら心地よく思える。……道行く人にとっては、僕は普通の女子中学生なんだ。人を殺すことを迫られたり、それができないからって罵倒されたりしない、普通の。そう思うと、勝手に足が弾んでしまう。半ばスキップのような足取りで、歯科医院の前を通り過ぎる。

 と、バッグの中でスマホが震えて、僕は電柱の脇で立ち止まった。取り出すと、日和ちゃんから届いたメッセージ。友達と一緒にプリクラを撮ったらしく、可愛らしく加工された少女たちの写真が添えられていた。……自嘲するような笑い声が唇から漏れる。これじゃ、日和ちゃんも遠くの人みたいじゃん。

『ミハルちゃんも来る?』

 無邪気なメッセージに、僕は思わず目を伏せる。……日和ちゃん以外の子も、いるんだよね。降り積もる埃を払うように、僕は画面キーボードに指を走らせる。

『ごめんね。今日は一人でのんびりしたいんだ』

『……そっか。気が変わったらいつでも言ってね!』

 努めて明るく振る舞うメッセージに、僕は静かに唇を引き結んだ。……ごめんね、日和ちゃん。下手を打って、普通じゃない醜態を晒したりなんて、したくないんだ。

「……わかって、くれるよね?」

 呟きを空気に溶かし、僕は再び歩き出す。……知ったうえで言ってるんだ。僕がどんな扱いをされているのかも、それでも僕が普通を望んでいることも。せめて普通の女の子みたいな話をして、普通の女の子として扱ってくれるけど……そんな時、僕はどんな顔をしたらいいんだろう、ね。


 さらに奥へと続く角を曲がり、顔を上げる。空は相変わらずどんよりと曇っていて、梅雨入り前の風は妙に湿っていて。何気なく片手を持ち上げ、腕時計に視線を向ける。あと30分くらいしたら、帰ろうかな。腕を下ろし、顔を上げようとして――思わず、片手のペットボトルを取り落とした。

 嫌な……匂いがする。錆びた鉄を熱したように、鼻を突く匂い。実地訓練から帰ったばかりの先輩たちのような、生理的に受け付けない種類の匂い。思わず足がすくむけれど、脳はうるさいくらいに警鐘を鳴らしていた――逃げなきゃ。

 反射的に顔を上げ、逃げ道を探そうとして……細かく揺れる瞳が赤錆色を捉えた。ひぐっ、と追い詰められたような呼吸が反響する。上手く息ができなくて、全身の毛が逆立って……両手を口元に当てて、溢れそうな悲鳴を無理やり抑え込んだ。地面に倒れ伏しているのは、線の細い男性。鼠色のスーツの背中には数か所の穴が開いていて……そこから、赤錆色が細く流れ出していた。あまりにもわずかな出血だけど、それでも男性が動く気配はなくて……糸が切れるように、両膝が折れた。みっともなく座り込み、僕は小鹿のように震えて、震えて。

「……っ、は……っ」

 途切れ途切れの呼吸の合間に、重い靴音が響いた。男性の遺体の上に薄い影が落ちる。息を整える余裕もないまま、僕は縋るように影を見上げた。濃い灰色の雲が割れ、黒曜石の彫刻のような姿を照らし出した。

 ――剣のように真っ直ぐな黒髪が腰まで伸び、微かに吹きはじめた風にはためいている。同様に真っ黒なミリタリーコートの裾も風にそよぎ、ショートパンツとニーソックスから伸びる長い脚を覗かせていた。その手元では拳銃が鈍く光り、銃口をアスファルトに向けている。……その人は男性の死体を乱暴に担ぎ上げ、黒曜石の瞳で僕を見下ろした。髪色や体形を検分するように眺め、口を開く。


「……『結城ミハル』ってのは、お前か?」

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