水面に映る影

東美桜

第1話 落ちこぼれ

結城ゆうきミハル」

「……はい」

 中等部一年生の職員室に、マグマのような声が響いた。小さく肩を震わせながら、僕は消え入りそうな声で応える。目の前の椅子に深々と腰かけ、担任の先生は真っ直ぐに伸びた黒髪の隙間から僕を睨む。その視線に溶岩のような苛立ちを宿し、彼は成績表を指先で叩いた。

「お前、またこんな成績叩き出して、やる気あるのか? 入試の点数も中間の成績も学年最低。それどころか、歴代でもこんなに成績の悪い生徒はいなかったぞ」

「……すみません」

「すみませんじゃすまないんだよ。これは命懸けの仕事だ。些細なミスが命取りになる。それで死んで、戦力が減って、『すみません』の一言で済むと思うのか? まぁ、お前ごときの戦力じゃ、赤子の手をひねることもできないだろうがな」

「……」

 怒涛の叱責に、僕は思わず首をすくめた。すかさず先生の手が伸び、僕のポニーテールの根元を掴む。引きちぎられそうなほどの痛みが頭皮を貫いて、僕は溢れそうになる悲鳴を無理に飲み込んだ。先生の低い声が、まるで鞭の音のように響く。

「今のも避けられない者が、実戦で攻撃を捌けるわけがない。死にたくなければ真面目に訓練に励めと言っているだろう」

「……っ」

「あぁ……真面目に取り組んだ上で、このざまか。ナイフ術もできない、格闘も低成績、銃を使わせてもまるで駄目……結城、本当にお前は何しにここに来たんだ?」

 淡々とした声が脳を刺す。洪水のような暴言が胸をさらう。僕はただ唇を噛みしめ、零れそうな涙を堪えていた。……僕だって、こんなところに入学したかったわけじゃない。何も知らずに滑り止めで受験して、本命の私立中学に落ちて。いじめっ子がいる公立は死んでも嫌で、逃げるようにここに来て……知らなかったんだ。ここがだっただなんて。

 先生は乱暴に僕の髪を引き、手を離した。掃除のあとのように手を払い、羽虫でも追い払うかのように片手を振った。

「用が済んだなら、さっさと戻れ。落ちこぼれなら落ちこぼれなりに努力しろ」


 ◇◇◇


「ミハルちゃん、大丈夫……?」

 不安そうな声に、僕は思わず顔を上げた。校舎と寮を繋ぐ橋。その少し手前に、やや小柄な少女が佇んでいた。薄桃色のボブカットが梅雨入り前の風にそよぎ、胸元の赤いリボンとミニスカートの裾が揺れる。同級生の秋沢あきさわ日和ひよりちゃん。彼女はスクールバッグを強く握りしめ、怯えた小動物のような視線を投げかけた。軽く肩をすくめ、僕は無理に口角を持ち上げる。

「大丈夫。平気だよ」

「……、そっか……」

 大きな目を伏せ、日和ちゃんは小さく頷いた。その指先が震えているような気がして、僕は彼女の肩を軽く叩く。

「さ、帰ろ。今日のご飯なんだろう?」

「……なんだろう、ね」

 消え入りそうな呟きには聞こえないふりをして、橋の向こうへ歩き出す。……わかってるんだ、日和ちゃんが色々知ってるだなんて。僕の分の給食にはゴミが混ぜられて、寮の自室の扉には『出来損ないの住処すみか』とマジックで落書きされて。物がなくなることも珍しいことじゃない。それでも……日和ちゃんだけは、何事もなかったかのように僕と接してくれる。あの子と一緒にいる時だけは、僕は『普通』の女の子でいられる。……咲いては消える花火のような幻想に、身を預けていられるんだ。

 橋の中腹で足を止め、遥か下の川に視線を向ける。ゆったりと流れる川の水面は、いつも黒く淀んでいて。そこに映る僕の影は、今にも消えてしまいそうに揺れ動いていた。


 ◆◆◆


 真っ暗な小屋にブルーライトが反射し、不気味な照明のように周囲を照らし出す。隠密性優先で照明を落としたまま、私はタブレット端末に指を走らせる。割れた窓から乾いた風が吹き込み、長い黒髪と黒コートを揺らした。小屋の壁に寄りかかったまま、私は映し出される情報を精査する。

 ……三途川みとがわ学園。中高一貫校を装った暗殺者養成所。人が寄りつかない山奥に校舎と寮を構え、徹底して人目につかないように工作されている。実力主義と働き蟻の原理を一緒くたにした教育方針は、この界隈でもそれなりに有名だ。……当然、悪い意味で、だが。

 教師間の連絡網に入り込み、交わされた会話のログを観察する。……今年の『犠牲枠』は、結城ミハル。緑髪のポニーテールと垂れ目がちの瞳、消して高くはない身長と、全体的に肉の薄い体躯。暗殺に関わる技能は、何をやらせてもまるでだめ。薄汚れた道化を演じさせるには、うってつけの人材。

「……くだらない」

 吐き捨てる。確かに合理的ではあるだろう。実力のない者を徹底的にこき下ろし、反面教師にする。良質な暗殺者を量産するという意味では、決して間違いだとは言い切れないが……かといって、正しくもない。


「……粛清対象」

 呟き、私は顔を上げる。腰のホルダーから拳銃を取り出し、指先でくるくると回す。最早ソレは教育機関ですらない。無知で無垢な子供を洗脳し、汚泥で染め上げ、リビングデッドに変える工場。胸の中に鉄格子が降りていくような心地に身を任せ、私は軍用のブーツでステップを踏んだ。軽い音を立てて拳銃を掴むと、割れた窓の向こうに銃口を向ける。

「正しくない。だから、殺す」

 ――それが、私が信じる正義だ。

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