第46話 幼馴染み

 レティリエは村の外の森を全力で走っていた。ローウェンがジルバを抑え、グレイルがセヴェリオを村の外へ追いやった後、レティリエは仲間の狼に守られながら無事に村の外へ出ることができた。

 探すのは、今頃死闘を繰り広げているであろう黒狼の姿。不安と恐怖で押し潰されそうな肺を懸命に動かしながら、全力で駆けていく。前を見据える金色の瞳から大粒の涙がこぼれ落ち、一迅の風がそれを掬いとっていった。


 昨夜、満月の下で泣いていた彼の姿を思い出す。言葉は交わさなかったけれど、レティリエにはあの時の彼の気持ちが痛いほど伝わっていた。

 グレイルはわかっていた。セヴェリオと自分に、戦い方の姿勢について大きな違いがあることを。そして、それによって自分が命を落とすかもしれないことを。それはレティリエにも十分すぎるほどわかっていたことだった。優しい彼は、憎き敵とは言えきっと彼を殺すことができないことを。だからこそ、先程戦場で彼は別れを告げたのだ。たった一言「愛してるよ」と。


 ──グレイル、どこにいるの? 早く会いたいわ。


 頬を伝い落ちる涙を拭いもせず駆けていくと、突然空気の中の血の匂いが濃くなった。息が詰まるような鉄の匂い。レティリエは立ち止まり、痛む心臓を抑えながら匂いのする方へ歩いていった。


 見えたのは、地面に倒れたまま動かないグレイルと、地面に伏して首だけをもたげて罵る赤茶色の狼の姿。


 レティリエはゆっくりとグレイルに近づいて、その場に座り込んだ。狙っていた銀狼の姿に気付いたセヴェリオが何かを捲し立てているが、それはもはや彼女の耳には届いていなかった。


 地面に横たわる彼の姿は、見ているのも辛くなる程痛ましかった。腹から流れ出る大量の鮮血。全身についた噛み痕と裂傷。屈んでそっと胸に耳をあててみると、まだ微かに息があった。だが、その呼吸は今にも消え入りそうに弱々しい。不自然に投げ出された右手を両手でぎゅっと掴むが、その手が握り返してくれることは無かった。


「レティリエ」


 自分を呼ぶ声に振り返ると、そこには人の姿に戻ったローウェンとレベッカがいた。地面に横たわるグレイルを見てレベッカが息を飲み、ローウェンが痛ましそうな顔をして首を振る。


「レティ、グレイルは──もう助からない。だから、お前が最期まで側にいてやってくれ」


 ローウェンの言葉が酷く遠く聞こえる。昨日までお互いに愛を伝えあっていたのに、いや、つい先程まで彼と言葉を交わしていたのに、あと少しでそれが二度と叶わなくなるなんてことがあるのだろうか。

 虚ろな目でローウェンを見つめていると、遠くで倒れているセヴェリオが微かに笑う声が聞こえた。


「そうか。そいつは死ぬのか。俺が、俺が殺してやった。そいつは、俺の目的を邪魔した。死んで当然だ」

「黙れ! お前がグレイルを語るな!」


 セヴェリオの言葉に、ローウェンが鋭く吠える。彼を睨み付けるその金色の目は、怒りと悲しみで燃え上がるように光っていた。

 レベッカも憎悪の目でセヴェリオを見ている。だが、一方でレティリエの頭は恐ろしいほどに冷静だった。


「ローウェン。レベッカ。フェルナンドさんとイリスさんを呼んできて」


 そう言うと、レティリエは顔をあげ、しっかりセヴェリオと視線を合わせる。


「私は最期まで諦めないわ」

「くっ……生意気な女め」


 レティリエの目に映る静かな闘志を見つめながらセヴェリオが凄む。だが、彼はもうその場から一歩も動くことができない。そうこうしているうちに、長同士の戦いの行方を見届ける為に、村から出て来た狼達が一匹、また一匹とやってきてローウェンの元へつどう。その中から、ローウェン側の狼が一人進み出た。


「長。敵の長は今身動きが取れない状態です。とどめを指すなら今のうちに」

「いや……その必要はないだろう」


 ローウェンが返すと同時に、背後でガサガサと草を掻き分ける音がして、リリーネに支えられたジルバが姿を現した。彼もこの状況を覚悟していたのか、地面に伏し、ローウェン側の狼に囲まれているセヴェリオの姿を見ても動じる様子を見せることはなかった。ジルバの姿を視界に入れたセヴェリオが首をもたげながら目を爛々と光らせる。


「ジルバ! 俺を援護しろ! 俺は負けない! こんな弱いやつらに俺達が負けるはずがない!」

「いや……セヴェリオ。私達の敗けだ。完全な敗北だ。恩情をかけられている今のうちに、さっさとここを離れよう」

「ジルバ! 何を言ってやがる! この腰抜けが!」


 セヴェリオが怒りの形相で吠えるが、ジルバは静かにかぶりを振った。彼は側に控える数匹の狼に何事かを伝えると、彼らはサッとセヴェリオに駆け寄り、その体を持ち上げて仲間の背に乗せる。

 最後に、ローウェンの顔を一瞥すると、リリーネに抱えられながらジルバは森の奥へと姿を消し、仲間の狼達も彼の後を追った。セヴェリオは最後まで吠えていたが、仲間の背に乗せられた彼も、やがて森の奥へ消えていった。


 一瞬の静寂。だが、すぐに誰かが走ってくる音がして、入れ違いのように血相をかえたフェルナンドとイリス、そしてギークが姿を現した。


「……! これは酷い……」


 フェルナンドが慌ててグレイルに駆け寄り、彼の体を触って状態を確認する。


「大量出血で意識を失っているな。早く急がないと……いやもう手遅れかもしれん」

「馬鹿なことを言ってないでさっさと手を動かせ! フェル!」


 イリスがげきを飛ばす。仲間の狼がグレイルの体を背に乗せ、二人のエルフと共に一目散で村へと向かう。レティリエは、その後ろ姿を呆然と見送った。


 戦いは終結した。

 

 たった一つの大きな犠牲と引き換えに──



────


 村に戻ってくると同時に、グレイルは孤児院に連れていかれ、ベッドに横たえられた。二人のエルフが指示を飛ばし、言われるがままに狼達が動く。レティリエも言われた薬草を取ってきたり、煎じるのを手伝ったりと、彼らの手足となって動いた。そしてそれ以外の時間はグレイルの側に侍り、黙ってずっと彼の様子を見守っていた。


 そこから数日経った。

 窓から入る朝の日差しが彼女を目覚めさせ、レティリエはゆっくりと身を起こした。視界に映るのは、白く清潔な室内と、数日前と変わらぬ様子で横たわるグレイルの姿。どうやら昨夜も、ベッドの横で彼の様子を見守っているうちに寝入ってしまったようだ。

 いの一番に彼の胸板に視線をやり、まだ薄く上下している胸を見て安堵のため息をつく。改めて彼の体に視線を落とすと、明るい日差しの中で彼の痛々しい姿が浮き彫りになった。

 腕や体に巻かれた包帯は未だに点々と赤黒い染みを作っており、包帯が巻かれていない場所も細かい傷でいっぱいだった。未だかつて見たこともない彼の姿を見る度に、レティリエの胸は締め付けられるように苦しくなる。

 それでも、レティリエは覚悟を決めていた。 きっともうすぐ彼はここから去ってしまうのだろう。だからこそ、レティリエは一緒にいられる一分一秒を大事にしようと思っていた。あの戦いの前夜に、最期の一瞬まで側にいると誓ったのだから。


 部屋にはレティリエ一人きり。そこが孤児院であることが嘘のように静かだ。多分マザーやナタリアが子供たちを外に連れ出してくれているのだろう。ゆるやかな銀髪の影に隠れるように項垂れる小さな背中を見て、皆レティリエを一人だけにしてくれていた。


 微かな呼吸音と共にグレイルの胸が小さく上がったり下がったりしている。だが、それも段々と弱々しくなっているのが目に見えてわかった。グレイルがゆっくりと息を吸い、そしてゆっくりと吐いていく。また再び肺が動き始めるまでの数秒の沈黙は、レティリエにとって何よりも恐ろしい時間だった。

 今また、グレイルが静かに息を吐いた。そしてしばしの沈黙。今度の沈黙は──長い。死神に連れていかれる気配を感じ取ったレティリエは、まるで引き留めるかのように思わず彼の手をとった。


 ──いかないで。


 震えながら見ていると、再度ゆっくりと胸が動き、グレイルが息を吸い始めた。恐怖から解放された安堵で思わず涙がこぼれ落ちる。彼と別れる覚悟は決めていたはずなのに……本心では全く受け止めきれていなかった自分に気づいて、レティリエはそっと目尻の涙を指で拭った。

 

 右手に握りしめたままの彼の手を見る。骨ばっていて、大きくて温かい、大人の男の人の手だ。自分の手をすっぽりと包み込んでしまうくらいに大きい彼の手を見ながら、レティリエは昔を思い出していた。


────


 木々が葉を赤や黄色に染め、茶色い枯れ葉の絨毯が敷き詰められた森の中を、レティリエとグレイルは走っていた。あれは、もう随分と前の豊寿の祭りの日だった。小さなレティリエは木に登って、一際紅く、大きくて瑞々しいリンゴを採った。


「見て見て。とっても大きいでしょ?」


 そう言ってグレイルに見せると、彼は唇を尖らせて、バッとリンゴをレティリエの手からとりあげた。


「それ、私のよ! 返して」

「やだよ。レティばっかりズルいぞ」

「だめっ! 私のだもん! 返して!」


 レティリエがグレイルの胸をポコポコと叩くと、グレイルがムッとした顔で彼女の銀色の髪の毛をグイと引っ張った。


「いたい! ひどいわグレイル! どうして髪を引っ張るの!」

「うるさいな! あっち行けよ!」

「きゃあ! グレイルが私のほっぺをつねったあ!」

「お前こそ、俺の足を踏むなよ!」


 そこから喧嘩が始まった。お互いに髪を引っ張ったり頬をつねったり叩いたり。そんなことは日常茶飯事だった。それでもレティリエが泣き出してしまうと、最終的に彼はばつの悪そうな顔をしてりんごを返してくれた。そうして、最後には仲直りをして、二人で仲良くりんごを食べたのを、レティリエは今もよく覚えている。


 年端もいかない頃のことを思い出して、レティリエは微笑んだ。骨ばってゴツゴツした彼の大きな手を優しく撫でる。

 かつて自分の髪を引っ張り、頬をつねっていた手は、今やすべてを包み込んでくれる温かい手になった。あの時と同じ手で、涙を拭ってくれて、頭を撫でてくれて、そして抱き締めてくれるのだ。昔と変わらない手。大好きな彼の手。


「ねぇ覚えてる? 昔のこと。私は全部覚えてるのよ。だってあなたとの大事な思い出だもの」


 彼の手を握りしめながら耳元で囁く。とうとう堪えきれずに、レティリエは嗚咽を漏らした。


「いかないで。側にいて。もう一回……私のことを呼んで」


 おそらくこの言葉は彼に届いていない。けれども、レティリエはどうしても言葉にせずにはいられなかった。


「ねぇグレイル。ずっと一緒にいよう? 私、もっとずっとあなたと一緒にいたいの」


 大好きだから。

 本当はずっと側にいてほしい。



 ──叶うなら、お互いの手がシワだらけになる、その日まで。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る