第47話 日常、そして未来へ

 ──ここは、どこだ。


 辺りは真っ暗な闇だ。光がなく、右も左もわからない。それでも、不思議なことに自分の存在は視認できた。暗闇の中に仄白く浮かび上がる自身の両手をじっと見て、グレイルは当て処もなく歩き出した。どこへ行けばいいかもわからない。だが、なんとなく呼ばれているような気がした。なんとはなしに惹き付けられる方へと進んでいくうちに、呼ばれているような感覚はどんどんと強くなっていく。


 微かに、誰かが泣く声が聞こえた。


 か細いすすり泣き。方角は行き先とは全くちがう場所から聞こえてくる。グレイルは足をとめて、声がする方に歩いていった。

 真っ暗な空間に、ぼんやりと光が灯る。近づいてみると、それは小さな小さな女の子だった。本当に年端もいかないくらいの小さな子供。ふわふわの銀髪、華奢な体。パッチリとした大きな金色の目を涙に濡らしながら、女の子は顔をあげた。


「君は誰だ? なぜここで泣いているんだ」

「寂しいからよ。誰も私を見てくれない。必要としてくれない。皆が私のことを嫌いと言うの」


 そう言って女の子はポロポロと涙をこぼした。その悲しそうな顔を見て、グレイルは急に胸を鷲掴みにされたような痛みを覚えた。見ず知らずの女の子が泣いているだけなのに、なぜこんなにも痛々しい気持ちになるのだろうか。──だが、自分はこの感覚をよく知っているような気がした。締め付けられるように胸が苦しく、目頭がじわりと熱くなる。


「泣かないでくれ。君が泣いていると、俺も悲しくなる」


 その場にしゃがみ、目尻の涙を拭ってやると、女の子はパッチリとした大きな目で見上げてきた。


「でも私、寂しいの。ひとりぼっちは嫌だわ」

「それなら俺がいてやるよ。そうすれば寂しくないだろう?」

「うん。でも本当に? 本当にもう一人にしない?」

「ああ。ずっと側にいる。一人になんてさせるもんか」


 言葉にした瞬間に、何か温かいものが胸に込み上げてくるのを感じた。腕を伸ばして、小さな女の子を抱き上げる。まるで羽のように軽かった。途端に、この瞬間をずっと待っていたような気がした。


 泣いている彼女の力になりたくて、それでもできなくて。隣にいることしかできなかった自分。

 大人になった今、やっとこの小さな女の子を守る力を手に入れられた、そんな気がした。

 抱き抱えられた女の子が、嬉しそうにグレイルの首に手を回してしがみつく。


「私、あっちに行きたいわ」

「ああ。どこへでもついていくよ」


 女の子が指差す方へと歩いていく。抱き上げた女の子がグレイルの頬に顔を擦り寄せてきた。グレイルも顔を寄せてその柔らかな感覚を享受する。


 胸の奥からこみあげてくる愛しい想いが、体中を満たした。









────────


────


 右手が熱い。

 

 最初の感覚はそれだった。目を開けると、視界に映るのは見慣れた孤児院の天井。そして自分の手を握りしめて泣いている彼女の顔。グレイルは半ば無意識のうちにその涙を指で拭ってやった。

 レティリエの目が大きく開く。薄く開いた口からは自分の名前を呼ぶ声が微かに漏れた。

 その声を聞いた瞬間──グレイルは間髪いれずにレティリエを抱き締めた。会いたかった。ずっと会いたかった。触れたかった。抱き締めたかった。まだ動くと痛む体をものともせずに、彼女の小さな体を腕に抱く。レティリエが手を伸ばして、同じように抱きついてくる。すすり泣きが、大きな泣き声に変わった。彼女の感情を全て受け止めたくて、抱く腕に力がこもる。

 長い間無言で抱き合った後、グレイルはそっと腕を緩めた。視界に映る彼女は、涙を流しながらも笑っていた。


「お帰りなさい、グレイル」


 今度こそこの笑顔を守りたい。目の前の彼女を見つめながら、彼は強く、そう思った。



 グレイルの目覚めを聞き付けて、ローウェンやレベッカ、そしてフェルナンドやイリスも駆けつけた。

 ベッドの中で半身を起こしたグレイルに、テオが涙と鼻水で顔をぐちゃぐちゃにしながら抱きついている。号泣するテオをなだめながらも、ローウェンも男泣きに泣いていた。レベッカが自身の涙を手の甲で拭いながら、夫にハンカチを差し出す。その様子を、一歩下がった場所からレティリエとナタリアも目に涙を浮かべながら見ていた。


 イリスは、少し離れた所で再会に喜ぶ狼達の様子を微笑みながら見守っていた。薬の瓶を籠に片付けていると、フェルナンドが静かに寄ってくる。


「イリス、彼の具合はもう良さそうか?」

「ああ。まだ暫く安静は必要だがな。でも、命の危機は脱した。黒狼を発見して、真っ先に私達を呼んだ彼女のおかげだろう。処置があと少し遅れていたら助からなかったかもしれない」

「そうか……彼女のとっさの判断のおかげだね」

「ああ。それに、狼達の負傷者がそれほどいなかったのも幸いだった。村長さんが守りに徹した戦いをした功績だな。おかげで重傷者がほとんどなく、彼の治療に集中できたのは大きい」


 グレイルの隣に座り、嬉しそうに仲間達の様子を見ているレティリエを視界にいれたイリスが微笑む。


「レティが彼に付きっきりで寄り添っていたおかげでもあるな。彼女は観察力があるから、些細なことでも異変を感じると私達を呼んでいたのも良かった。正直、彼女が私を呼んだ時点で危なかったことも何度かあった……すぐに蘇生術を施していなければ、死んでいた可能性の方が大きい。彼の命は、様々な要因のおかげで救われたんだ」

「そうじゃないだろ? イリス。彼が助かった理由はもっと別のところにある」

「どういうことだ?」


 彼の意図がわからず小首を傾げるイリスに、フェルナンドがレティリエを指差しながら笑う。


「かつて人間に拐われ、傷を負った彼を助ける為に尽力した結果繋がったドワーフの縁。そして人間の世界で囚われた際に出会った僕たちエルフとの縁。彼女が切り開いてきた茨の道が、結果的に彼を救ったんだ」


 そう言ってフェルナンドがピッと指を立てる。


「そう、これは運命。そして愛の力さ」


 片目をつむりながら、フェルナンドが得意気に言い放つ。いつもであれば気取った言い方をするなと小言を言うイリスも、今日ばかりは彼の言うことを聞いてフッと優しく微笑んだ。


「そうだな。お前の言う通りだよ」


 そう言って二人のエルフは、揃ってベッドに視線を送る。そして幸せに満ちた狼二人の笑顔を、静かにその目に焼き付けた。


※※※


 戦いは終わった。グレイルが目覚めなかった間に村の復興は大分進んでおり、テオをはじめとした大工作業が得意な者達の手によって壊れた家や柵は修繕されつつあった。

 

 グレイルが目覚めたのを聞き付けたクロエは、最後にマーシュを連れて孤児院にやってきた。


「本当に行くのか?」


 病室変わりになっている孤児院の一室で、レティリエに支えられながらベッドから身を起こしたグレイルが彼女に問う。クロエはマーシュの頭を優しく撫でながら、ゆっくりと頷いた。


「ええ。私達はもう一度やり直すわ。今度こそ幸せになって見せる。あなたたちのように」

「だが、行き先はあるのか? ここにいてもいいんだぞ」

「わからない。けれど諦めなければきっと見つかるはずよ。それに、私ももう一度気持ちを切り替えたいの。だから別の所に行く。大丈夫よ、私だってそれなりに力はあるんだから」


 そう言って胸を張るクロエに、グレイルも笑って手を差し出す。その手をクロエはしっかりと握り返した。


「それにね、もしかしたらまたセヴェリオ達の群れを見つけたら、そこに入ることもあるかもしれないわ。彼らも大怪我をしているから、ここからあまり遠くない場所にいるはずよ。だって彼が必要なのは、強さじゃなくて誰かからの愛だもの」


 そう言って、クロエがにこりと笑う。彼女の真意はわからない。長く一緒にいて情が移ったのか、強い雄に惹かれる本能なのか。それでも、狭い視野の中で力に固執し続けるあの二人にも、救いの道が見つかれば良いと、クロエの言葉を聞きながらレティリエはぼんやりと思った。


 クロエがマーシュを連れて扉へ向かう。部屋を出る前に、もう一度クロエが振り返って笑顔で手を振り、開け放たれた扉をくぐっていく。最後に黒い尻尾がユラリと揺れ、消えていくのが見えた。


────


 村を出て、秋の終わりを告げる茶色の森を二人で仲良く手を繋ぎながら進んでいく。途中でリンゴの木を見つけると、グレイルがレティリエを抱き上げてくれた。グレイルの肩に乗りながらリンゴの実をとり、そのまま小振りのものを彼の口にいれてやる。そんな風に二人の時間を大切にしながら、我が家への道を進んでいった。


 森の中にただすむ一軒の可愛らしいお家。枯れ木が目立つ裸の木と、枯れ葉の絨毯の中で、赤い屋根と緑の木枠がよく映えていた。

 セヴェリオに村を襲われてからはずっと孤児院で暮らしていたが為に、我が家に帰ってくるのは襲撃以来だった。すっかり埃をかぶった家具や部屋を二人で綺麗に掃除する。


 そうやってやっと日常が戻ってきた。


 グレイルが狩りに行っている間、孤児院の手伝いをしたり、料理を作ったり。レティリエの為に個人的に狩ったウサギを片手に帰ってくる彼を飛び付くように出迎えて、一緒に食卓を囲みながら他愛のない話ができるのはなんと幸せなことなのだろうか。


 その日の晩、レティリエはグレイルの待つ寝台にもぐりこんだ。少しだけ寒くなってきた部屋の空気とは違って、彼の体温で温められた布団の中は優しい熱に満ちていた。

 モゾモゾと布団の奥に足を入れて、壁を背にして半身を起こしたグレイルに抱きつく。彼もレティリエの頭を優しく撫でながら抱き締め返してくれた。

 彼の胸板に顔を埋めると、力強く鼓動する心臓の音が聞こえてきた。この音を、熱を、もう一度感じられることの幸せを噛み締めながら、レティリエは彼の金色の瞳を見上げた。


「グレイル、私ね、今とっても幸せだわ」


 それは心からの言葉。かつて憧れていた何もかもを、ようやく手にすることができたのだ。今までの思いが頭の中を駆け巡り、目頭が熱くなってポロリと涙がこぼれ落ちる。


「私……自分がこんな風になるなんて思ってもみなかった。胸を張ってあなたの隣に立てる日が来るなんて……ずっと、憧れてたから」

「それはお前が頑張って手に入れたものだ。誇っていい」


 グレイルが優しく笑いながら指で涙をぬぐってくれる。スンスンと鼻を鳴らしながら、レティリエは静かに首を振った。


「でもね、それはあなたがずっと隣にいてくれたからよ」


 きたる日の豊寿の祭りから、レティリエの運命は変わった。人間に拐われ、売られ、時には彼らの支配下に置かれて尊厳を奪われても、立ち上がることができたのは、いつも傍らに彼がいてくれたからだった。


「一緒にいてくれてありがとう……私のこと、愛してくれてありがとう」


 震える声で絞り出すように言葉を紡ぐと、グレイルが身を屈めてそっと唇を重ねる。自分を抱き締める固くて逞しい腕と違って、触れあう口先は優しく、柔らかい。何度も重ね合わせていくうちに、レティリエの中で新たな気持ちが芽生えるのを感じた。唇を離して、彼の目を見つめる。


「グレイル、私、赤ちゃんがほしい」

「……本当に、良いのか?」

「うん……私、もう大丈夫。もし例えその子がまた狼になれなかったとしても、その子もきっと、幸せになれる可能性を秘めてるはずだから」


 涙ぐみながら微笑むと、グレイルが優しく抱き上げて、そっと体を横たえてくれる。反転する視界。見えるのは天井と、精悍な顔をした彼の姿。

 仄白く光る月光が照らす闇の中で、二人してゆっくりと寝台に沈みこむ。


 かつて孤独に泣いていたひとりぼっちの女の子はもう──どこにもいない。

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