第45話 グレイル対セヴェリオ

 一方、グレイルとセヴェリオも、村の外の森へ出て双方激しく睨み合っていた。敵の長を仕留める恰好のチャンス。この機を絶対に逃してはならない。グレイルは全身の毛を逆立てながら威嚇するようにセヴェリオを睨み付ける。先程のグレイルの一撃が効いているのか、セヴェリオも荒い息を吐きながらグレイルを睨み返した。


「ふん。ちょうどいい。むしろ邪魔者がいない方がお前を殺せる」


 セヴェリオが金色の目をぎらつかせながら吐き捨てる。ローウェン側の組織だった攻撃は、目論み通り彼らの攻撃を阻止するのに有効だったようだ。だが、邪魔さえ入らなければ、グレイルを仕留められると思っているのが彼の言葉の端から伝わってくる。


 ──俺を、舐めるなよ


 怒りで全身の毛が逆立つ。次の瞬間には、グレイルがセヴェリオ目掛けて飛びかかった。セヴェリオも攻撃を交わす気などなく、真っ向からグレイルの両足を受け止める。そのままグレイルが彼の首を狙って牙を剥き、食らいつこうと身を乗り出すが、瞬時にグレイルの足を離したセヴェリオの爪がグレイルの頬を引き裂く。体勢を整える為に後方へ距離を取り、また飛びかかって組み合う。双方一歩も退かない激しい争い。力は互角だ。


 再度互いに間合いを取り、飛びかかる隙をうかがうかのように半身を低くして睨み合う。そこにあるのは静寂の中に聞こえる荒い息遣いだけだ。突風と共に黒い雲が流れ、漆黒の空にその存在を誇示するかのような真円の月が二人を照らした。黒い森を駆け抜ける風が空気に溶けて濃い血の匂いを辺りへ飛ばしていく。顔や体に負った傷が、互いの毛並みを朱に染めていた。

 ポタリ。ポタリと水滴が落ちる音が静謐の中に響く。セヴェリオがゆらりと動き、ペッと血痰を地面に吐いた。


「ふん。やはりお前はあの時殺しておくべきだったな」


 セヴェリオが忌々しげに吐き捨てる。あの時と言うのは、群れの選別の時のことだろう。対するグレイルも大きく息を吐きながらしかと前方を見据えた。


「そうだな。お前があの時、仲間の忠告を聞かなかったせいだ。そのせいで、お前は今日ここで死ぬことになる」

「ハッ! 威勢だけは良いな。だが、がずれただけだ。この群れの長である俺が、お前に直々に引導を渡してやろう」


 そう言うと、セヴェリオが地面を蹴って一息に間合いを詰め、グレイルに飛びかかる。だが、グレイルもその両足を受け止めてギリギリと組みあった。


「悪いが、俺が従うのはローウェンだけだ」


 低い声で静かに告げ、同時にセヴェリオの足を離して腕を振るう。爪が肌を切り裂く確かな手応えと共に濃い血の匂いが鼻をついた。後方へ飛んで距離をとったセヴェリオがギリッと歯を食い縛る。


「俺はすべてを手にする! お前を殺し、群れも、狩り場も、そしてあの女さえも」


 セヴェリオの言葉に、グレイルの耳がピクリと動く。


「……レティリエのことをお前が口にするな」

「はっ。きどってんじゃねぇよ。今ここでお前は死ぬ。そして女は俺がもらう。やつに子供を生ませれば、今度こそドワーフの指揮権が俺の手に──」


 セヴェリオが言い終わる前にグレイルが地面を蹴って彼の喉元に食らいついた。間一髪で急所を外されたが、グレイルの牙がセヴェリオの右肩をガッチリと捉えて離さない。さすがのセヴェリオも不意をつかれたのか、目の色が変わった。


「貴様っ──!」


 セヴェリオがグレイルの両肩に爪をたてて引き剥がしにかかるが、グレイルもがっちりと牙を立てて離さない。レティリエを傷つけ、自分の目の前で彼女へマーキングをつけたことは男として許せなかった。あの時の光景が脳裏によぎり、同時に込み上げてくる怒りと共にぐっと顎を引いて牙を押し込む。ズプリと肉に沈みこむ感覚。──捕らえた。だが、そう意識した瞬間、自分の中で何かがうごめいた。一瞬の迷い。それが命取りだった。グレイルの力が僅かに緩んだのを見逃さず、セヴェリオがグレイルを剥がして投げ飛ばした。地面に叩きつけられる前に体勢を整え、爪で地面を抉りながら着地する。


(くそっ……! 迷うな!)


 心の中で自分を叱咤し、牙を剥く。だが、再度飛びかかろうと前を向いた瞬間には、セヴェリオの牙が目の前にあった。

 一瞬の静寂。そして次の瞬間にはグレイルの腹をその鋭利な牙が貫いていた。


「ぐっ……!」


 全身にビリビリと伝わる激痛にグレイルは呻いた。セヴェリオが腹に噛みついたままグイと顎をのけぞらせる。肉が引き裂かれる感覚と共に、大量の鮮血が地面を濡らした。突如目眩に襲われ、視界が白くなる。だが、ふらつきながらもなんとか四肢を踏ん張って背筋を伸ばした。


「どうした。いきなり勢いがなくなったな」


 距離を保ちつつもグレイルと対峙するセヴェリオが不敵に笑う。彼の研ぎ澄まされた感覚は、グレイルの僅かな心境の変化を読み取ったようだ。グレイルも内心で歯噛みする。だが、自分を叱咤するように奮い立たせ、彼は再度セヴェリオ目掛けて跳躍した。

 再び組み合う二匹。だが、やはり先程の腹の怪我が響いているのか、思うように体が動かない。セヴェリオの喉を目掛けて振るった爪はセヴェリオの手によっていとも簡単に弾き飛ばされ、代わりに腹に一撃を食らわされた。先程抉られた傷に容赦なく彼の爪が食い込み、グレイルは吠えた。セヴェリオの爪がグレイルの頬をかする。グレイルも負けじと爪を振るう。だが──当たらない。焦点の定まらないおぼろげな視界は、もはや獲物に攻撃を当てることすらままならなかった。ほとんど野生の勘で攻撃を交わしながら神経を研ぎ澄ます。なんとか歯を食い縛りながら後方へ飛び、セヴェリオと大幅に距離を取る。腹から流れ出る赤い線が地面に血だまりを作っていた。

 ぼやける視界に目を凝らしながら、グレイルは目の前の強敵をしかと見据える。力だけで見れば実力は互角だ。だが、自分とセヴェリオには決定的な違いがあった。


 セヴェリオが地面を蹴り、一息に間合いを詰める。グレイルも迎え撃とうと構えるが、その前にセヴェリオが懐に入り込み、顎に頭突きを食らわせた。脳が反転し、急な吐き気に襲われてグレイルはその場に倒れ伏した。


 おぼろげな視界の中に、赤茶色の影がゆらゆらと映る。

 自分とセヴェリオの違い。それは、相手を殺す覚悟を持っているか、否かの違いだった。

 ぬるま湯に浸かってきたと揶揄されても仕方がない。それでも、グレイルは今までに一度も同じ種族である狼を殺したことはなかった。命を奪うという行為は、例え狩りであっても重たい覚悟を必要とする。だが、対するセヴェリオは数多の仲間を自らの手で葬ってきていた。何度も、何度も。その経験の差が、グレイルの攻撃を鈍らせていた。セヴェリオに殺されてしまった見ず知らずの狼に心を痛めていたレティリエの顔を思い出す。「彼にも大切な人がいたのかしら」という彼女の言葉。食べる為ではない、殺す為の一撃。甘い考えであることはわかっている。それでも、セヴェリオに忠誠を誓うジルバの姿を思い浮かべると、どうしてもとどめの一撃を振るうことができなかった。

 

 おそらく、自分にはこれがわかっていたのだ。この命と引き換えでないと、セヴェリオに勝てないことを。

 最後に触れあった昨夜の一時。先程交わした愛の言葉。愛を伝えておいて良かったと彼はぼんやりと思った。


 目眩と吐き気に襲われながらも、グレイルは四肢を踏ん張って立ち上がった。満身創痍の黒狼を、セヴェリオは恨めしげに睨み付ける。


「チッ……まだ立ち上がるのか。このくたばり損ないが」

「なんとでも言え。お前がこの地に踏みいることは二度と許さん」


 グレイルが跳躍してセヴェリオに飛びかかる。死にかけている黒狼の不意打ちの攻撃に、さすがのセヴェリオも交わしきれなかった。グレイルが奮った爪がセヴェリオの胸元の傷を抉り、夜の森に怒りの咆哮が轟く。


「貴様ぁぁぁぁぁぁぁ!! 死ね!!」


 セヴェリオが絶叫と共にグレイルを投げ飛ばした。もう受け身を取る力が残っていないグレイルは地面に叩きつけられ、どこかの骨が折れる鈍い音が響く。全身の痛覚がこれ以上無いほどに悲鳴をあげていた。

 

 立ち上がれなかった。

 意識が朦朧として視界がボヤける。腹が燃えるように熱い。もはや痛みの感覚すら薄れていた。


 グレイルから距離を取ったセヴェリオも、荒い息を吐きながら呼吸を整えていた。その胸元にはバケツをひっくり返したかの様な鮮血。先程の胸元の傷は深く、彼ももう思うように体が動かないようだった。


「はぁ……手こずらせやがって……。だがとどめだ」


 セヴェリオがゆっくりと近づいてくる。グレイルも迎え撃とうと身を起こそうとするが、全身の骨が抜かれたかの様に力が入らず、立ち上がることができなかった。

 ヨロヨロとゆらめきながら近づいてくる赤茶色の影を黙ったままぼんやりと見つめる。


 多分自分は死ぬ。


 そう思った途端、今までの記憶が走馬灯のように瞬時に頭の中を駆け巡った。幼い頃の記憶。少年だった頃の自分の姿。そしていつも傍らにいた小さな銀色の女の子。


────


 記憶の中の彼女はいつも寂しそうだった。木の上や離れた所から村の様子を眺めていた小さな女の子。銀色のふわふわの髪に隠れるように身を小さくして、その金色の瞳に村の賑わいを映していた幼馴染み。辛い目に遇いながらも、懸命に生きている彼女の側にいてあげたいとずっと思っていた。大人になるにつれて自分のつがう相手が見えてきて、彼女と一緒になることは思ってもみなかったけれど。それでも運命の歯車はどこかで噛み合い、自分と彼女を結びつけた。

 やっとの思いで結ばれた時の彼女の涙はとても美しかった。過去のしがらみから解放された時も。


 俺が死んだら、彼女は泣くだろうか。


 先に逝く俺のことを、許してくれるだろうか。


 脳裏によぎるのは、泣きじゃくる彼女の姿。両手で顔を押さえながら、大粒の涙を流す小柄なか弱い女の子。

 我慢強い彼女が泣いていると、悲しくて、切なくて、自分も心を刺されたように痛くなるのだ。それでも、たくさんの涙を流しながらも彼女は前へ進み、とうとう自分の居場所を掴みとった。


 やっと見られた、彼女の本当の笑顔。

 

 泣いた顔は、もう見たくない。


 決めたんだ。今度こそ俺がこの笑顔を守るんだって。


 ──彼女を守れるのは、俺だけしかいないのに!!

 

 意識した瞬間に頭が覚醒し、視界がクリアになる。焦点の定まらない赤茶色のおぼろげな影が、実態を伴って視界に映った。


「はっ。ざまあないな。だが、お前はここで仕舞いだ」


 倒れて動かないグレイルにセヴェリオが近づいてくる。だが、彼がグレイルの喉に噛みつこうと屈んだ時だった。全身の筋肉を奮い立たせてグレイルが飛び起きる。セヴェリオが青ざめ、距離をとろうと身を後ろにそらす。──だが遅かった。次の瞬間にはグレイルの強靭な顎がセヴェリオの首をがっちりと捉えていた。


「なっ……! 貴様! まだ動け──」


 皆まで言わせる前に、一思いに骨を噛み砕く。夜の森がざわめく程に鋭い絶叫が轟いた。セヴェリオが大地に倒れこみ、凄まじい形相でグレイルを睨み付ける。


「くそっ! くそっ! くそっ! 貴様何をした!!」


 セヴェリオが咆哮する。意識はハッキリしているが、体はピクリとも動かないようだった。グレイルがヨロヨロとふらつきながらも、四肢でしっかりと大地に立つ。


「脊髄をやった。一時的になるか半永久的にはなるかわからないが、お前の感覚機能は消失しているはずだ」

「貴様ぁーーーーーー! 絶対に許さねぇ! 殺してやる!」


 セヴェリオが目を血ばらせながら絶叫する。だが、彼の体は意思に反して地面に投げ出されたままだった。


「くそっ! 体が動かねぇ! 足一本でも動けば、瀕死のお前なんぞ一撃で殺してやるのに!!」

「お前がなぜ立つことができないか教えてやろう」


 必死に四肢を動かそうともがくセヴェリオをグレイルが月を背にして見下ろす。


 負けそうになっても、勝てなくても、何度でも立ち上がる理由。



 ──それは、愛する誰かの為に戦うこと。



「自分の為にしか牙を振るえないお前はもう、立ち上がる理由がないからだ」


 低い声で静かに告げる。セヴェリオが怒りで何事かを叫んでいるが、その言葉はもうグレイルの耳には入らなかった。


 目の前が真っ白になり、視界が揺らぐ。方向感覚を失ったグレイルはドサッとその場に崩れ落ちた。


 おぼろげな視界に映るのは、風に吹かれて揺らぐ黒い夜の森と恐ろしいほどに白い満月。その白銀の月明かりを見た途端、愛しい彼女の姿が浮かんだ。

 ぼんやりと空を眺めていると、やがてその白銀の影が人の形を成していく。緩やかな線を描くふわふわの巻き毛と、華奢な体。その金色の瞳を見た瞬間、グレイルは無意識のうちに人の姿に戻っていた。

 人影に向かって手を伸ばす。今一度その温かい小さな体を抱き締めたかった。


 グレイルの両目からこぼれた涙が静かに頬を伝う。


 ───レティリエ。俺の最愛の女の子。



 そこで彼の意識は、途切れた。

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